聖書のお話


月 日
2015年 6月7日
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 洗礼者ヨハネのつまずき

「わたしにつまずかない人は幸いである。」  ルカ7:23


 
イエスのもとにヨハネの遣いの者がやってきました。彼らはイエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねます。ヨハネがこうした質問をイエスに投げかけたのは、イエスに疑問を持ったからでした。ヨハネやその弟子たちが、イエスが実際になさっていることにつまずいてしまったからです。

ヨハネ自身、自分に与えられた「主の道を備える」という使命は、よく承知していたはずです。けれども今、ヨハネはその大切な使命も果たせない捕われの身です。自分がそうした状況に置かれたことも、イエスにつまずいてしまった要因の一つといえます。

 これに対し、イエスは「目の見えない人は見え・・・」(22、23節)と答えられます。これは実際にイエスがされている事というのと同時に、旧約聖書のみ言葉(イザヤ35、61章)の成就でもあります。そして、「つまずかない者は幸いだ。」と答えられるのです。

「つまずかない者は幸いだ」この言葉は、彼らを断罪する言葉ではなく、彼らの心を受け止める言葉です。つまずき倒れてしまっている彼らを立ち上がらせる言葉です。

なぜ、彼らはイエスにつまずいてしまったのでしょうか。それは、自分たちが思い描くイエスの姿と実際にされる事との間に食い違いが生じてきたからです。そのために、戸惑い、疑う心が生まれてきたのです。

 イエスに「ヨハネより偉大な者はいない」(28節)とまで言われるほどのヨハネが、今ここでつまずいているのを、聖書を通して、知ることができる私たちは幸いです。それは私たち誰もがつまずいてしまう恐れがあるのを教えてくれるみ言葉だからです。それだからこそ、私たちは常に主の前にへりくだり、私たちのもとに届けられている福音を曲解することなく、聞く者とさせていただきましょう。
2015年  6月14日

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イエスの歌った歌

「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。」「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」          ルカ7:32、35

ファリサイ派の人々や律法学者たちが、洗礼者ヨハネやイエスの歌った歌に耳を傾けなかったことを教えるみ言葉です。
 ヨハネが歌った歌は、罪の深い認識からくるところの罪を悲しみ、悔い改める歌であり、葬式(嘆き)の歌でした(32節)。また、イエスの歌った歌は、すべての人に救いが届けられたという喜びの歌でした。

それゆえ、ヨハネは悔い改めの心をあらわすために、パンも食べずぶどう酒も飲まず(33節)、荒野という生活するのには困難な場所で暮らしたのですし、また、イエスは救いの喜びを示すために、当時、人々から一緒に食卓を囲むのを敬遠されていた、徴税人や罪人たちと食事を共にされたのです(34節)
 けれども彼らは、イエスの吹く笛に踊らず(32節)、「見ろ、大食漢で大酒飲みだ」と言い放って、共に食卓を囲むことをせず、ヨハネの歌う歌にも、「あれは悪霊に取りつかれている」と断言し(33節)、共感しなかったのです

ヨハネが歌った悲しみの歌、イエスの歌った喜びの歌、それはどちらも、神の御旨、私たちに対しての神の御心を教えてくれる歌です。そして、この知恵は(35節)、伝えられる時代や地域が変わっても、変わることのない真実であり、神が私たちに備えてくださった恵みであることを、私たちは弁えねばなりません。

  イエスの吹いた笛の音に合わせて主をほめたたえ、ヨハネの歌った悲しみ の歌を自らの悔い改めの歌として覚え、知恵の子(口語訳)としての歩みを  全うしたいと願います。
2015  6月21日
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いちばん大切なもの
「必要なことはただ一つだけである。」  ルカ10:42

イエスと弟子たちを家に迎え入れたマルタとマリヤの物語です。イエスたち一行が家に入ると急に慌ただしくなってきます。マルタは長旅で疲れたであろう彼らをもてなすために、家の中を忙しく走り回っています。一方、妹のマリヤはというと、イエスの話を聞くことばかりに集中していて、マルタを手伝おうとする素振りも見せません。

それに腹を立てたマルタは、マリヤのみならず、イエスにも「わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)と訴えます。

彼女の訴えにイエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(41、42節)と答えられ、彼女のしていることを否定はされないのですが、何が大切なことなのかを教えようとされています。

マルタ自身、イエスの言われた「必要なこと」はこれまでも良く分かっていたでしょうし、ここで言われたことで、尚、深く理解したことと思いますが、それでも姉として、妹のマリヤに先を越されたと言いますか、何か心に引っ掛かるものが残ったようにも思います。

ヨハネ12:2を見ますと、その後のマルタの様子を教えてくれます。ここでマルタが何をしているかというと給仕をしています。これまでと同じように給仕をしているとはいうものの、ここでは特別に不平を言わず、奉仕に徹することができたというのは、彼女の信仰が少しずつ整えられていったからと言えます。ヨハネ11:27に見られるような信仰告白に根差し、主イエスの言葉を聞き続けていたからこそ、自分に与えられた奉仕を続けられたのでしょう。み言葉を聴くことの大切さを覚えたいと思います。

 2015 6月28日
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あなたの罪は赦された
   「そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。                                           ルカ7:48

泣きながらイエスの足元に近寄った罪深い女性が、イエスに罪の赦しの宣言がされる物語です。同じ涙することで言えば、7:11〜17で一人息子を亡くした母親も涙していますが、両者へのイエスの態度を見ると大きな違いがありますので、それぞれが流す涙の意味も変わってきます。母親の涙は悲しみの涙であり、罪の女性の涙は悔い改めの涙であり、イエスによる罪の赦しからくる感謝の涙です。

イエスは罪の女性が流す涙の意味を深く理解されたので、しっかりと受け留められるのですが、同席していたファイサイ派のシモンは、その意味を理解できませんでした。そのためシモンは彼女を罪ある者として認め、退けますし、また彼女に対して自分とは違う態度をとるイエスをも退けてしまうのです。

そうしたシモンに向けて、イエスは2人の者の借金がゆるされるたとえを話されました。そこで思うのは、彼はこの話をどう聞いたのかです。このたとえでの借金は罪を指しますが、彼は自分には罪はないとの自負に生きていましたから、きっと彼は自分には借金はないと考えたでしょう。ゆえに許される必要もないと思っていたかも知れません。

しかしイエスは、彼に自らの罪に気付いてほしいとの思いを込めて、この話をするのです。ここでの彼の罪は、罪の女性を救いの余地のない者として退け、イエスをも受け入れないことです。このことにシモンが気付く時、イエスの話されたたとえで語られている許しの恵みにも気付くでしょう。

そこで私たちが、改めて気付くのは、シモンもイエスの赦し(救い)の恵みに招かれていることです。ここで実際に罪赦され、救われたのは罪の女性ですが、シモンも同じ救いの喜びに生きるようにと、イエスが招いていることです。このことを知る時、私たちにも主イエスの招きがあることに気付かされます。み言葉を通して主イエスに出会い、その招きに答え続ける私たちでありたいと願います。

 2015 7月5日
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いつもの暮らしの中で

「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」
                                      ルカ8:3

イエスのいつもの伝道生活を教えるみ言葉です。イエスは町々、村々を巡りながら旅を続け、行く先々で福音を告げ知らせていました。そこには、イエスの弟子である12人も一緒でしたが、それだけではなく、多くの女性たちも同行していました。
 ここには、名前の記されている女性が数人いますが、マグダラのマリヤは7つの悪霊に捕われていたと言いますから、イエスに癒される前は周囲の人々に恐れられていた人物だったでしょう。また、ヨハナもヘロデの家令クザの妻とあります。ヘロデは洗礼者ヨハネを捕えた人物ですから、そのヨハネと親しい間柄だったイエスのことも良く思っていなかったはずです。その家令の妻であるヨハナが、今やイエスの旅に同行しているのです。イエスに従っていくのにあたり、大きな葛藤があり、大きな決心があったに違いありません。
 そうした様々な過去を持つ女性たちが、イエスに従う者となりました。イエスに従っていく中で、彼女たちがしていたのは一行への奉仕です(3節)。彼女たちの奉仕、それは日常的なこと、衣食住です。何を着て、何を食べて、どこに寝泊りをするのかの奉仕です。
 自分たちも入れて20人近い人のお世話をするのです。大変な奉仕だったと思いますが、ひと際目立つ奉仕というのではありませんし、毎日同じことの繰り返しともいえる奉仕です。けれども、イエスや弟子たちが福音を宣ベ伝えるのにあたり、それを支える毎日の繰り返しともいえるこれらの奉仕がなかったなら、イエスの働きも儘ならなかったと言ったら言い過ぎでしょうか。

また彼女たちはそうした奉仕をする中で、行く先々の人たちとも良い関わりを持っていったのでしょうから、その日常の中で、イエスを伝えること(伝道)もしたに違いありません。いつもの暮らしの中でイエスを伝えること、伝道を考える。福音が広められていく一つの鍵になるのではないでしょうか。

2015 
7月12日
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聞く耳のある者は・・・
「イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。」                           ルカ8:8

教会では、とてもよく親しまれているみ言葉の一つです。イエスが話されたたとえの内容は、道端に落ちた種を鳥がついばむ様子などは、すぐに思い描くことができますから、石地や茨の中など、それぞれの地に落ちた種がどうなったのかという結末は、置かれた土地の環境を思いますなら、誰もが納得ができるものと言えます。
 このたとえの内容は分かりやすいのですが、その意味を十分に理解できなかった弟子たちは、イエスに尋ねます。イエスはその意味を説明されました。種とは神の言葉です。また4種類の土地は、神の言葉を聞く人の心です。
 
 たとえの内容が分かり、イエスを通してその意味を教えられる弟子たちであり、また私たちなのですが、私たちはこのみ言葉をどのように聞き、どのように受け取っているでしょうか。

 受け取り方は、人それぞれであり、さまざまだと思いますが、時に私たちは、他者をこうした枠に入れがちになりますし、そうしたくなる心もあることです。あの人は道端であり、あの人は石地の心を持ち、またあの人は良い地だといった枠です。しかしながら自らを顧みる時、他者を枠に入れられるような立場でもなく、自らも〈いつも〉良い地とは言い切れない自分に気付かされます。

良い地とはみ言葉を良く守ること、忍耐することなどが挙げられていますが(15節)、よく守るとは「魂を救うことのできる」ものとしてみ言葉を忘れないでいることです(ヤコブ1:21)。また忍耐するとは、換言すると、変わらない気持ちともいえます。身の回りにいろいろなこと(喜びもうれしさも、苦しさも悲しみも)が起こってきても、変わらない気持ちで神さまにのみ信頼を寄せていく。その時に私たちの心は良い地とされ、良い地とされたからには、多くの実を結ぶ者とされていきます。

2015  7月19日
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灯を燭台の上に
 「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く。」
                                      ルカ8:16

イエスの話されたたとえの意味を調べると、ともし火は神の国の秘密(10節)であったり、神の言葉(11節)であったり、イエスご自身であったりと解釈は様々ですが、要するに私たちのもとに届けられている福音(救い)と言えます。

このたとえは、その福音であるともし火を、どこに置くのかが問われているのです。「器」とは仕事、「寝台」とはよく言えば安息ですが、悪く言えば怠惰です。これらのもが妨げとなれば、ともし火が灯されていたとしても部屋を明るくすることはできず、入ってくる人は暗くてつまづいてしまうかも知れません。そうならないために、イエスはともし火を燭台の上に置くようにと言われるのです。

では、燭台の上にともし火を置くとはどういうことかというと、他者に向けては伝道といえるでしょうし、自分に向けては救われた喜びに満たされていることになるでしょう。

こうしたたとえの意味や私たちへの適用は、注解書などを見れば分かってくるので、それほど難しいことではありませんが、それを自分の生活の中で活かしていくことは、難しいかも知れません。あるいは、ともし火を燭台の上に置く生活を続けることで疲れてしまうということも、最近は耳にします。

けれども、そこで立ち返らねばならないのが、救いの原点です。私たちの心にともし火を灯してくださった主イエスの十字架の御業という原点です。そこに目を向ける時、クリスチャンとして、ともし火を燭台の上に置いて灯し続けていきたいと願うようになるでしょうし、さらには、そうした暮らしをしていく中で得られる、み言葉による励ましや慰めという恵みにも気付かされるのではないでしょうか。

2015 7月26日
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神の家族の生み出すみ言葉
「するとイエスは、『わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである』とお答えになった。」                                                        ルカ8:21

イエスのもとにやってきた家族たちですが、彼らがやってきたのは、イエスを取り押さえるためでした。

これまでイエスは、重い皮膚病の人を癒したり、罪人を食事に招いたりしていました。これらのことは、当時の人たちは決してしていないようなことでした。病は罪のためと考えられていたような時代ですし、罪人に触れでもしますなら、その罪が自分にもうつってしまうと考えられていたからです。

そうしたことをするイエスに、「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)との声が、民衆の中からあがり始め、それを聞いた家族は、イエスを取り押さえるためにやってきたのでした。
 そして、このことをきっかけに、様々な思惑でイエスを取り囲んでいる人々に、イエスは上記のみ言葉(ルカ8:21)を教えられるのです。

このイエスの教えを通して気付かされるのは、神の言葉を信じることの力です。クリスチャンは神の言葉である聖書を信じています。それは、自らの平安のために信じるのですが、ここでイエスが教えられるのは、それ以上の広がりを見せるものです。どのような広がりかというと、クリスチャンがみ言葉を信じることで、周囲の人(家族や知人)にもみ言葉による恵み(平安・祝福)が広がっていくというものです。

私たちクリスチャンがみ言葉を信じ、信頼する時に、神さまはこうした御業をなさろうとしてくださるのですから、私たちは尚、しっかりとみ言葉につながり続ける者でありたいと願います。

2015  8月2日
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眠るイエス
「イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、『湖の向こう岸に渡ろう』と言われたので、船出した。渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。」  
                                ルカ8:22、23

ここでイエスは嵐を静める奇跡をされていますが、注目したいのは眠るイエスです。聖書であまり見られないイエスの姿です。イエスは何故、眠られたのでしょうか。

一つは父なる神への信頼です。二つはイエスの弟子訓練のためです。またもう一つに、単純に疲れたからということも考えられます。というのも、神の御子イエスは、人の子でもあるからです(二性一人格)。では、何故イエスは人としての歩みをされたのでしょうか。それは、人がいかに弱い存在であるのかを知るためです。知るという以上に、まさに弱い者となられ、ここで眠られたのが、私たちの救い主イエスです。

弟子たちは眠るイエスを、はじめは疲れているのだろうから、そっと寝かしておこうと考えたでしょう。けれども、風が強くなり、波も荒れてきて、自分たちの命が危うくなってくると、眠っているイエスを叩き起こすのです。

こうした弟子たちの気持ちの変化は、イエスが25節で指摘しているように、イエスを完全に信頼する信仰があるとは言い難いでしょう。

では、彼らに本当の信仰があったなら、どうすべきだったのかというと、イエスを起こさないことです。イエスを起こさないなら、目の前の嵐は静まりません。彼らのできる事は、舟を必死に漕ぎ続けることぐらいです。一見するとイエスを信じていない人と同じことをしているのですが、そこには、大きな違いがあります。それは、イエスが共にいるという安心です。荒れる波風を目の前にしても、イエスが共にいるなら恐れることなく、舟を漕ぎ続ける時、イエスの言われたとおりに向こう岸に着くという(22節)、イエスへの信頼
(信仰)です。

 弟子たちの信仰なき叫びに応えられるイエスに、大きな恵みを覚えつつ、イエスを信じる私たちは、尚はっきりと大きな信頼をイエスに置く者でありたいと思います。
 2015 8月9日
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ゲラサ人の癒し
 「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」(口語訳)                ルカ8:39

イエスが悪霊に取りつかれているゲラサ人を癒すみ言葉です。彼は長い間、墓場をすみかとし、鎖につながれていました。彼が墓場に住むようになったのは、悪霊に取りつかれたために、町の人たちに迷惑をかけるようになったのが原因と言えますが、町の人の思いを考えると、自分が平和に暮らすために、彼を町から追い払ったとも言えます。

と言うのも、イエスへの対応も同様であるからです。イエスは男の癒しのために豚の群れを用いられましたが、37節にあるように、民衆はイエスにも出て行ってもらいたいと願っているからです。彼らは自分たちとは違う異質なものを締め出し、更には一人の人が癒される価値をも見失っていたと言えます。こうした人間の姿を聖書から知ることができるのは、私たちに大きな気付きを与えるものです。

また、この男は悪霊に執拗に捕われていたために、日常生活に支障をきたしていましたが、イエスに出会うことで正気に戻りました(35節)。このみ言葉は、こうした悪霊(サタン)から引き離されることが、イエスへの信仰の一側面であることを教えてくれています。

イエスに癒してもらったこの男は、イエスに同行したいとしきりに願いますが、イエスはそれを許されません。そして「神がどんなに大きなことをされたのか、語り聞かせなさい」と告げるのです。町の人々に、また彼の家族に神を告げ知らせるのは、困難をきわめたでしょう。けれども、彼はイエスの言われたとおりに町中に言い広めるのです。

私たちも「神がどんなに大きなことをされたのか」を覚えねばなりません。そして、その恵みを覚えるのと同時に、その恵みに応えていく者でありたいと願います。

2015  8月16日
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信仰の生まれるところ
「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。」「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」                                              ルカ8:48、50

 ヤイロは会堂長という敬われ、社会的にも認められた仕事をしていました。その彼のひとり娘が死にかけており、癒しを願ってイエスのもとにひれ伏します。イエスが彼の家に行く途中、12年間出血の止まらない一人の女性が割り込んできます。彼女は12年間何もしなかったのではなく、全財産を使い果たすほどに治療に専念していました。また彼女の病は、宗教的にも汚れているものと見なされていました。ヤイロは仕事柄、彼女が置かれている事情も知っていたでしょう。そして、その大変さも承知していたのでしょうけれども、より大変なのは自分の娘の方だという思いも強かったに違いありません。
 
 そのヤイロの心を知ってか知らずか、イエスは女性とのやり取り(イエスの服に触れたのが誰かの問答、45〜48節)を続け、ついに娘が亡くなる知らせが届けられます。悲しみのどん底に突き落とされたヤイロにも、イエスは50節の言葉をかけられ、二人の女性はイエスから救いの宣言がされるのです。
 
 イエスは彼らに「あなたの信仰が・・・」(48節)、また「ただ信じなさい・・・」(50節)と言い、イエスへの信頼を促しますが、彼らがした事と言えば、イエスの服に触れた事、触れて癒された事を気付かれずに、その場から立ち去りたかった事であり、ヤイロにしても、自分がどれだけ大変な状況にあるのかを、イエスに告げただけの事です。
 これまで8章で言われていた信仰とは、15、16、21節のみ言葉だと考えますが、彼らの内に、そのような信仰は見当たりません。けれどもイエスは、どのような心からであれ、ご自分により頼む者に御業をされ、彼らに信仰を与えていることは私たちにも大きな恵みを届けてくれます。

 それは、ただ主イエスに寄り頼む時、主の御業がなされるだけではなく、私たちの主への確かな信仰も与えられるものであることに気付かされるからです。私たちはありのままを主のもとに持っていき、成長させるのは主であるとの思いをもって、歩ませていただきたいと願います。
 2015 8月30日
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イエスの弟子訓練
「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」              ルカ9:6

これまでの弟子たちは、イエスの語られる福音が人々に伝えられるのを聞き、またイエスがなさるさまざまな奇跡を見てきました。そして今度は、その弟子たちが、あたかもイエスと同じ力ある者のようにされて各地に遣わされていき、上記のみ言葉のような業をしました。

またイエスは、彼らを遣わすにあたり、3節の言葉を言われました。これらのものは、当時旅をする時に、最低限必要なものばかりです。それを持たずに旅に行けとイエスは言うのです。酷なこととは思いますが、彼らが旅をする目的を考えると、イエスがこう言われるのも分かる気がします。

彼らの旅の目的、それは彼ら自身が神の国の恵み(神への信頼)を経験することです。と言うのも、イエスは旅から戻ってきた弟子たちに旅の成果を尋ねず、またルカ22:35でも旅先での不足を尋ねているからです。ですから、イエスが弟子たちを派遣するにあたり、一番気にしていたのは前述のように、弟子たち自身が神(イエスの言葉)に信頼する恵みを経験したかどうかなのです。

この旅を通して弟子たちは「いいえ、(不足は)何もありませんでした」(ルカ22:35)と告白し、無事に帰って来られたのですから、イエスへの信頼は尚、強められたことです。
 弟子たちのこの経験は、かけがえのない信仰体験となったに違いありませんが、イエスの十字架を前にした弟子たちの姿を思うと、今回の経験が無駄となってしまっているような感じがしますが、私たち自身の信仰の歩みを振り返ると、きっと同じようなものなのかと思います。
 けれども、それでも神に信頼を置きつつ、私たちも歩ませていただく時、弟子たちがそうであったように、私たちの信仰も確実に整えられていくに違いありません。

2015  9月6日
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5つのパンと2匹の魚と弟子たち
「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた。」
                                    ルカ9:16

5000人の給食のみ言葉です。イエスの周囲には多くの人が集まっていましたが、人々はそれぞれに弱さ(問題、課題)を抱えていました。治療が必要な人(11節)も弱さの一つですが、ここにおいては、日が傾きかけた(12節)ことで食事や泊まる場所をどうするのかという問題が群衆にとって大きな弱さとなってきています。

また、このことはイエスに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(13節)と言われた弟子たちにも弱さとなってきたでしょう。

イエスの周りにはこうした弱さを抱える人が多くいましたが、その人々を前にする時、イエスは彼らを放っておかず、その弱さを気にかけ、群衆に対しては癒しやパン、魚を与えられ、弟子たちに対しては尚、イエスの言葉に信頼できるような信仰を与えられるのです。

そしてイエスはこの御業をされる時、ささげられた5つのパンと2匹の魚を用いられました。人の考えからすれば、ささげられたものは本当にわずかなものと言えますが、一たびイエスの手に届けられますなら、み言葉が教えてくれるとおり、祝福されて大きな恵みとなってくるのです。

さらに、イエスはパンや魚を配るために弟子たちを用いられます。それはこれから後、彼らが初代キリスト教会の指導者とされた時の訓練といえます。弟子たちが人々にパンや魚を手渡していく時、その顔を見ますなら、それぞれに、さまざまな事情を抱えていることを知ったでしょう。また、これほどの多くの人が、イエスのもとに(救いを求めて)集まってきていることも実感できたでしょう。

私たちも必ず大きな恵みとしてくださるイエスに心からのものをささげ、イエスが弟子たちを用いられたように、私たちをも用いたいと願っておられることを、覚えたいと思います。

 2015 9月13日
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信仰の告白
イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです。」   ルカ9:20

 上記のみ言葉は、ペテロがイエスへの信仰を告白しているみ言葉です。こうした信仰告白をするペテロをはじめとする弟子たちは、これまでいつもイエスと行動を共にしていました。そして、イエスが語る教えを聞き、イエスがする御業を見ていました。また同時に、彼らはそれだけではなく、19節が教えるように、イエスのそばにいたがために、周囲の人たちのイエスの評判(噂)も、始終耳にしていたことです。
 
 そうした周囲からイエスの噂を聞きながらも、その意見に流されることなく、ペテロは「神からのメシアです。」と自らの信仰を言い表すのです。

この信仰告白から後、イエスの十字架を前にしたペテロがしたことは、イエスを3度否認してしまう彼がいるのですから、この時の彼の信仰は十分に整えられたものとは言えないのでしょう。けれども、今ここで、イエスから「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(20節)と、尋ねられたことに、「神からのメシアです。」と答え、真実な信仰告白ができたのは、この時にペテロができる精一杯の信仰を言い表したといえます。

私たちの信仰(告白)も振り返ってみると、イエスに全く信頼を寄せて「あなたこそ、メシア、キリスト、救い主です。」と力強く告白できる事もあるでしょうし、そうできない時も、それぞれにきっとあることと思います。

そうした時に、私たちがこれからも尚、力強くイエスへの信仰を言い表そうとしていこうとする時、私たちのすべきことは、弟子たちがそうであったように、私たちもイエス(み言葉)のそば近くに居続けることはとても大切なことといえます。そして、私たちがそれぞれの時に、この真実な信仰告白をする歩みこそ、イエスが喜ばれるクリスチャンの歩み方といえるのではないでしょうか。

2015 9月20日
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まいごの羊
言っておくが、このように、悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある。                                        ルカ15:7

イエスは徴税人や罪人たちと一緒に食卓を囲んでいました。ファリサイ派の人や律法学者たちは彼らを嫌悪していたので、そんな彼らと仲良く食事をするイエスに不平を言い出します。
 イエスの周りにいるそうした人に向けて、イエスはいなくなった一匹の羊を羊飼いが探し出すたとえ話をするのです。

イエスはこのたとえを話すことで、迷い出た羊を探す羊飼いの苦労、どんなに大変な思いをして探しているのかを伝えようとしたのではなく、いなくなった羊を何としてでも探し出そうとする羊飼いの決意を伝えようとしています。そして、羊が見つかった時には大きな喜びがあることをも知ってもらいたいのです。
 イエスと共に食卓を囲んでいた徴税人や罪人たちにとって、この話に出てくる迷子の羊は、まさに自分のことだと思い、共に食事をされるイエスを見つけ出してくれた羊飼いだと思ったでしょう。
 それに引き替え、同じようにしてこのたとえを聞く律法学者たちですが、彼らも話を聞くには聞くのですが、自分たちは迷い出た一匹の羊ではないとの自覚を持って、聞いていたでしょうから、イエスの話は全く耳に入らなかったと思います。

 けれどもイエスはこの話を、徴税人や罪人だけに話したのではなく、彼らを嫌い、イエスに不平を言う律法学者たちにも、自分のこととして聞いてもらいたかったのです。そして、誰もが迷い出た羊としてイエスの救いに招かれている者であることに気付いてもらいたかったのです。
  イエスの招きに応え救いの恵みに与かった私たちです。その恵みを覚え、迷い出ている羊を羊飼いであるイエスのもとに連れて行く者でありたいと願います。

 2015 9月27日
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栄光の姿に変わられるイエス 
「イエスは、ペトロ、ヨハネ、およびヤコブを連れて、祈るために山に登られた。祈っておられるうちに、イエスの顔の様子が変わり、服は真っ白に輝いた」                            ルカ9:28、29
 
 祈るために山に登られたイエスは、祈っているうちに顔の様子が変わり、服が真っ白に輝き始めます。それを目撃する弟子たちの様子(32節)や37節(翌日)から、この出来事が夜に起こったのかと推察されます。明るい日中ではなく真っ暗な夜に、この出来事を見た弟子たちですから、光り輝くイエスの姿により大きな衝撃を受けたでしょう。また、闇をかき消すようにして光り輝くイエスの姿は、サタンに打ち勝つイエスの姿をも描いているように思います。

イエスは栄光の中に現れたモーセとエリヤに会い、イエスの最期について語り合っています。イエスの最期、それは十字架による死であり、贖いです。また、最期という言葉には脱出するという意味があり、出エジプト記の英語書名(Exodus)とされていますが、これらを踏まえて、イエスがエルサレムで遂げようとされている「最期」を思いますなら、実に壮大なことをされようとしていることに気付かされます。
 それは、かつて神がイスラエルの民を出エジプトさせた以上の出来事であり、過去、現在、未来という時間の枠をもはるかに超えたすべての人の出エジプト、罪からの解放といえるものだからです。

イエスは今、その最期について語り合っているのです。イエス自身、このことは、すでにはっきりと自覚していたはずです。けれども、それでも、ここでこうした光景を弟子たちに見せ、またイエスも51節でその決意を固められているというのは、真実な出エジプトを成就させるための出発式ともいえるのが、このみ言葉と言えます。イエスの歩まれた歩みに、また私たちに救いの道を開かれたイエスの御業に、私たちの救い主の御名をたたえましょう。

 2015 10月4日
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背負われる神
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」 
                ルカ9:41
 上記のイエスの言葉を思うと、イエスは人々の不信仰に嘆かれ、怒っているようにも受け取れますが、イエスが何(誰)に嘆かれたのかというと、まずは弟子たちでしょう。
 彼らは9章の始めでは、イエスからあらゆる悪霊に打ち勝ち、病気を癒す権能が授けられ、まさにイエスと同じような御業を各地でするのですが、今ここでは、それが出来ずにいます。それは彼らが御業を行うことに慣れてしまい「このくらいのことは難しいことではなく、できて当然だ」という思いで、目の前の困難に向かおうとした心をイエスは見抜き、それを嘆かれたのです。

 また、一人息子の癒しを求めてやってきた父親の不信仰も、イエスは嘆いているといえます。同じ出来事が記されているマルコ9:22には「おできになるなら・・・」と父親の言葉がありますが、その父親の言葉にイエスへの全き信頼のないことを見出して、その不信仰を嘆かれます。

聖書では、こうした不信仰に陥っている人々がいるのを教えてくれていますが、私たちがそうならないようにするために覚えておきたいのは、この出来事の前のみ言葉です(9:28〜36)。
 ここには、山上でイエスの姿が栄光の姿に変わる出来事が記されています。私たちは、この栄光の姿のイエスを仰ぎ見つつ、麓(世の中、37節)での暮らしをしていくのです。

栄光の姿のイエスを仰ぐとは、礼拝を守ることであり、日ごとの聖書を通しての神との交わりを重ねていくことです。このことを大切にしていく時に、私たちの信仰は、不信仰に陥らず、なお、主に喜ばれる信仰へと整えられていくことです。
 そして、イエスが「いつまで我慢ができようか」と言われながらも、いつまでも我慢(=背負うの意)し、背負い続けて下さるイエスがいることは、私たちにとって大きな力と励み、また支えになります。

2015 10月11日
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受け入れられるイエス
「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である」
                                      ルカ9:48

 3つの段落に分かれているみ言葉ですが、どの場面においても、イエスの心と弟子の思いとに大きな隔たりがあるのを見ることができます。
 1つ目の段落では、弟子の中で誰が一番偉いのかを言い争っているところ、イエスはそれをやめさせようとされていますし、2つ目の段落では、イエスの12弟子ではない者がイエスの名によって御業をしているのを知った弟子たちは、それをやめさせようとしますが、イエスは「やめさせてはならない」と言われます。
 また3つ目の場面におきましても、弟子たちの言うことを戒めているイエスがいますので、どの場面においてもイエスの心と弟子の心に隔たりがあるのが分かります。

両者のこうした心の隔たりを知る時に、私たちが願うのはイエスの心を私たちの心としたいということです。イエスの心があらわれているのは48節のみ言葉です。中でも「受け入れる」ことです。

私たちもこのことが大切なのは承知していますので、そうしようとするのですが、時に受け入れられないこともありますし、たとえ受け入れたとしても、その受け入れ方が、相手よりも立場が上であるかのようにして受け入れることがあるかも知れません。

そこで私たちが覚えたいのは、ここでイエスが子どもを受け入れられているように(47節)、私たちもイエスに受け入れられている者であるということです。
 イエスのなさってくださった愛の御業(十字架の贖い)に触れ、受け入れられていることを実感し、救われている恵みを覚える時、私たちは真実にイエスの心を私たちの心とすることできるでしょう。

2015 10月18日
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私に従いなさい
「イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」        ルカ9:57、58

3人の人がイエスに従いたいと申し出ています。一人目の「どこへでも従って参ります」(57節)との積極的な申し出には、イエスはそれを拒み、その覚悟を試すかのような返答をされます。
 それはイエスに従うことで、「枕する所もない」ような不安定な生活が強いられるだけでなく、これからイエスが背負おうとされる十字架への道行きを共に歩んでほしいと願う、イエスの期待が込められているからといえます。

また「まず、父を葬りに行かせてください」(59節)と言う二人目に対しては、「まず私に従いなさい」という意味合いのことを言われます。それは私(イエス)のもとに来ることこそ、あなたの悲しみを取り除き、真実な命への道(救い)が開かれるのだから、従いなさいということです。

そして、3人目の申し出へのイエスの返答に「後ろを顧みる者」(62節)とありますが、過去(後ろ)を振り返る時に、未練や後悔があるような振り返り方が、「ふさわしくない」とイエスはおっしゃりたいのだと思われます。

こうした3者にイエスが等しく願っていることは「わたしに従いなさい」(59節)です。今自分が置かれている不安や悲しみ、後悔の中から一歩踏み出し、イエスのもとに出て行って、共に歩むことを願っておられるのです。 イエスに従い、共に歩む歩みには、常に平安と祝福が待ち構えるかのようにして、備えられています。

2015 10月25日
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小羊を遣わすイエス 
「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」             ルカ10:2

 イエスによって72人が「平和があるように」と遣わされていくみ言葉です。遣わされるのにあたりイエスはいくつかの注意をしますが、これらはすべて伝道の緊急性を言おうとしています。
 72人(原文70)が遣わされるというのは、キリスト者誰もが遣わされる者という意味を持ってきますし、何も持って行くなというのも、旅に必要なものを取ってくるために家に戻る時間がもったいないという事になるでしょうし、また「挨拶をするな」(4節)という注意も、当時の挨拶はそれなりの時間(1時間ほど)を要するものであったと言いますので、もっと大切なこと(伝道)のために時間を使ってほしいという事になってきます。

 さらには彼らが遣わされるところは、狼の群れ(3節)がいるような所であるにもかかわらず、遣わされるのはか弱い存在の代表のような小羊が送り込まれると言っていますが、これも伝道の緊急性を言おうとしています。

 イエスはこれらの言葉をもって伝道の緊急性を伝えますが、同時にイエス(福音)を受け入れないことでどうなるのかについても10節以降で話します。それはかつて罪の限りを尽くしたソドムの方が軽い罰で済み(12節)、異邦人の住むティルスやシドンの方が軽い罰で済む(14節)とまで言われるほどのことです。  
 み言葉を通して、これらのことを教えられる時、私たちは「平和」(=福音)を伝える者でありたいと願うようになるのでしょう。けれども、自らを振り返る時、平和を伝えるべき私たちの心が平和で満たされておらず、弱さということで言えば、まさに小羊のようであることが、少なからずあります。

 そこで注目したいのが、「わたしがあなたがたを遣わす」(3節)というイエスの言葉です。このみ言葉に根差して、イエスが私たちも用いようとされ、遣わそうとされていることは、私たちにとりまして大きな励ましとなり、力となります。

2015 11月1日
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名が天に記されている喜び
 「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」  ルカ10:20

イエスに遣わされた72人は、無事にイエスのもとに帰ってきました。彼らは「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(17節)と言って、自分のしてきたことを喜びます。
 彼らはイエスの12弟子のように、後世に名をとどめるような人物ではありませんが、そんな彼らがまるでイエスの分身のようにして同じことができたというのは、本当に驚くべきことです。

  けれども、イエスはその喜びを共に喜ぶようなことはされず、「悪霊があな たがたに服従するからといって、喜んではならない。むしろ、あなたがたの  名が天に書き記されていることを喜びなさい」(20節)と言われるのです。

そしてイエスの喜びは、遣わされた「幼子のような」72人に、栄光を示された「天地の主である」神に向けられます(21節)。
 さらにイエスは彼らに向けて、私こそが旧約聖書の時代から待ち望んでいた、あなたがたの名を天に書き記すことのできる者である(=救い主)と告げるのです(23、4節)。

イエスのこの自己証言を思い、それが名もなき72人にあらわされたことを思いますと、どれほどの神の愛が、彼らに、また私たちに注がれているのかに気付かされ、イエスへの感謝で満ち溢れてきます。

  名を天に書き記すことのできるイエスを仰ぎ見つつ、全き信頼を寄せて、 これからも歩ませていただきたいと願います。
2015 11月8日
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 よきサマリヤ人
「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか。」律法の専門家は言った。「その人を助けた人です。」そこで、イエスは言われた。「行って、あなたも同じようにしなさい。」   
                                     ルカ10:36

 「よきサマリヤ人」のたとえ話を聞いた律法学者ですが、彼はこれまで、彼自身「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい」(27節)と言っておりますが、この言葉を思いながら精一杯の信仰生活を送ってきたことと思います。

神を愛する礼拝を中心とした生活を守り、隣り人を自分のように愛することを実践していたのでしょう。けれども、彼はそうした暮らしを送る中で、本当に隣り人を愛せているかという疑問、限界を感じるようになってきたのかも知れません。

そのために律法学者は自分を正当化しよう(29節)とします。そして、自分の立場を弁護するために彼がしたことは、隣り人の範囲、枠を決めることでした。ユダヤ人である彼にとって、このたとえ話に出てくるサマリヤ人は、彼の考える隣り人の枠外の者でしたので(ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していた歴史がある)、素直にサマリヤ人とは答えず(サマリヤを言う事さえ憚られたのでしょう)、「その人を助けた人です」(37節)と答えるのです。

律法学者のこの心は、私たちも分からなくもありません。差別や軽蔑ということはないまでも、隣り人の範囲をどこまでも広げていくとしますなら、自らの生活すら成り立たなくなっていくように思えてくるからです。

最後にイエスは、「誰が・・・隣人になったと思うか。」(36節)と尋ねますが、これは律法学者が尋ねた「私の隣人とは誰ですか」(29節)の質問とは異にするものといえます。
 隣人はどこにいて、誰なのかと探し回るものではなく、私たちがどなたかの隣人に「なる」ものであると思うからです。イエスが私たちにこうした問い掛けをし、隣人になるようにと召し出してくださっていることは、うれしいことであり、また大きなチャレンジといえます。

2015 11月15日
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神に愛されて (子ども祝福ファミリー礼拝)
「イエスは知恵が増し、背丈も伸び、神と人とに愛された。」 ルカ2:52

 イエスは神と人とに愛されて、知恵が増し、背丈も伸び成長しました。神と人とに愛されることは、イエスや子どもの成長のために必要なだけではなく、大人も含めた誰もに必要なことです。

成長を考える時、人に愛されることが大切だというのは誰もが認めることといえますが、神に愛されることはどういった意味で大切なのでしょうか。

そこでまず覚えたいのが何が成長するのかです。み言葉が教えるように知的な成長もありますし、背丈が伸びるという肉体的な成長もあります。また、精神的、社会的、霊的、全人的といった面での成長も考えることができます。
 成長にはこうした様々な側面があるのを知る時、愛する(成長させる)側の人(たとえば、親)も愛するために精一杯のことはするのですが、とはいえ十分に整えられた者だとも言えないでしょうし、これらすべてを担うことにも困難を覚えるのも確かです。
 その十分ではないことに自ら気付く時、私たち(人々)に示された神の愛に目を向けるなら、誰もが成長できるように思います。

人の愛は比較的分かりやすいのかも知れませんが、神の愛はどこに示されているのかというと、自然や歴史、人間存在を通して神の愛を見出すことができます(一般啓示)。また、神の愛ということで、私たちが特に覚えておきたいのはイエスです(特別啓示)。

そして、さらには私たちを罪から救い出すために、イエスが成し遂げてくださった贖いの十字架に神の無償の愛(神に愛されていること)を見出すことは、これからの私たちに真実な成長をもたらすのではないでしょうか。

2015 11月22日
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ただ一つ必要なこと
 「必要なことはただ一つだけである。」ルカ10:42

 イエスたち一行を家に迎えるマルタとマリヤですが、マリヤはイエスの足もとに座りみ言葉に聞き入り、マルタはもてなしのために忙しく立ち働きます。マルタはこれまで、イエスがどんな旅(枕す所もない旅)をしてきたのか、また、その旅での疲れや空腹は良く知っていたでしょうし、「善きサマリヤ人」(ルカ10:25〜37)での「隣人を愛しなさい」という教えも知っていたのでしょう。

そのためにマルタは今、イエスの教えられたことを実際にやってみようと心に決め、もてなしのために専心するのです。また、彼女が願っていたのはマリヤも一緒にもてなしの準備に加わることであり、イエスも喜んでそのもてなしを受けてくれることだったでしょう。

けれども、それが思うようにいきません。マリヤは手伝う素振りも見せず、そのことをイエスに告げるなら「・・・あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。・・・」(41、42節)と言われるのです。

そこで考えさせられるのは、ここで本当の意味で招かれているのが誰なのかです。実際に家に招き入れたのはマルタであり、招かれたのはイエスですが、本当の意味で招いたのはイエスであり、招かれているのがマルタやマリヤであることに気付かされます。

というのも、イエスがされてきた旅の目的は、神の国(福音)を宣ベ伝えるための旅であるからです。そして、その旅の途中にイエスはここに立ち寄られるのです。とすれば、イエスの旅の目的が達成されるために必要なことは、招かれたマルタやマリヤがイエスの言葉に聞き入ることに尽きると思います。
 私たちもイエスの言葉に聞き入ることを大切にせねばなりません。み言葉は心のご飯と言われるように、普段の食事と同じく私たちの健康を保つだけでなく、命や平安、祝福を確かに届けてくれます。み言葉からの語りかけをしっかりと受け止めましょう。

2015 11月29日
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祈ることを教えてください
 「主よ、ヨハネが弟子たちに教えたように、わたしたちにも祈りを教えてください」                                ルカ11:1

 イエスは祈りについて3つのことを教えられます。1つ目は主の祈りについてです(2〜4節)。祈りはクリスチャン生活でとても大切なものですが、祈りが日ごとに繰り返されていくと、時に、その祈りの言葉が決まり言葉となり、形式的なものになりやすいかもしれません(例:食前や就寝前の祈りなど)。イエスが教えられた主の祈りも礼拝ごとにささげられていますから、そらんじて祈ることができる方も多いと思います。けれども、この主の祈りが上述のように形だけのものとならないためには、私たちは襟を正しつつ、信仰をもって(主の)祈りをささげる者でありたいと願います。

また2つ目(5〜8節)に、子は親を信頼しているからこそ、さまざまな願いを遠慮なくできるように、私たちも「父なる」神に、なお一層の信頼をして、遠慮せずに祈るように求めておられます。その祈り願う時に、親の子に対しての対応がそうであるのと同じように、神も必要と思えばこそ、その必要を満たしてくださるでしょう。

3つ目(9〜13節)には、神はこれまで私たちに実に様々な「良い物」を与えてくださっていますが、それらの無数の良い物を一気に飛び越えるようにして、「聖霊を与えてくださる」との約束をしてくださっています(13節)。聖霊は永遠に私たちと共にいてくださり(ヨハネ14:16)、私たちを真理へと導き入れてくださるお方です(ヨハネ16:13)。

私たちのささげる祈りには、こうした意味、意義があることを覚えたいと思います。
 また、弟子たちがイエスの祈る姿に魅了され。彼らも祈る者とされたように、私たちの祈りへの姿勢を通しても、それを見る人たちに福音を知る恵みが伝わり、また広がっていくことでしょう。

2015 12月6日
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神の言葉を聞き、守る人
 「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 ルカ11:28

イエスが悪霊を追い出しているのを見た人々の中で、イエスが何の力によって、それをしているのかの論争が起こります。「悪霊の頭ベルゼブルの力」によるものではないかと言う者や、「天からのしるし」を求める者がいます。それにイエスが答えられたのがこのみ言葉です。

イエスは18〜19節で、べルゼブルの力によるものではないとの消極的な返答をし、また20節では「神の国はあなたがたのところに来ているのだ」と積極的な答えをされます。
 特にイエスがされた積極的な答えの方を考えますと、悪霊が追い出されたことは、その対極にある神の国が来たこととなり、悪霊の支配から神の恵みの支配に移されたという意味合いになります。

  24節以降では部屋がきれいに掃除され、整えられているとの話をされま 
 すが、部屋とは人の心の状態を言います。部屋(心)がきれいに整えられた
 こと、そのものは素晴らしいことなのですが、その部屋にイエスを迎えること 
 なしに、そのままに過ごしているなら、悪霊がまるで自分の部屋のようにして
 戻ってきてしまうというのです。

そこでイエスは「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(28節)と言われるのです。心にイエスを迎えること(=内住のキリスト、ガラテヤ2:20)は、とても神秘的な不思議な出来事のように思えますし、特別な人でなければ、できないのかと思えてきますが、イエスが語り、み言葉が教えてくれるのは、「み言葉を守り、守ること」だと具体的に教えてくれています。

 私たちが、このことをかけがえのない大切なことと受け留め、守っていく時、イエスが言われるように、これが幸いなことだと気付かされるでしょうし、私たちのところにも「神の国が来ている」ことも知らされ、その恵みに浴する喜びにも満たされていくでしょう。
2015 12月13日
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目が澄んでいれば
 「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明 るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていな いか調べなさい。」  
      ルカ11:34、35

イエスに天からのしるし(16節)を求めた者たちに対して、イエスが答えられたみ言葉です。
 イエスは「ヨナのしるしのほかには、しるしは与えられない。」(29節)と言われますが、ヨナのしるしとはヨナの説教(32節)です。ヨナの語った説教は滅びの説教でした(ヨナ3:4)。またソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た南の国の女王のことも話されます(31節)。

イスラエルの民にとって、異邦人に宣教したヨナや、一国の女王に知恵を語ったソロモンは誇りだったと思います。彼らの血が自分たちにも流れているとの自負に寄りかかるように生きていたのでしょう。

けれども彼らのその誇りが、イエスの目にはよこしまに映り、目が濁っているように見えるのです(29節、34節)。さらにイエスは、ヨナの語る説教や生き方にまさり、ソロモンの知恵にまさる者(イエス)が今、目の前にいるのに、それに気付かず、天からのしるしを求める彼らに、「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と問うのです。

では、イエスの目にその目が澄み、内なる光が輝いて見えたのは誰なのかというと、滅びしか語らないヨナの説教に、真実な自分たちの姿を見出し、神の御前にひざまずき、悔い改めたニネベの人でありましょうし(ヨナ3:5〜10)、ソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た南の国の女王でありましょう。
 これからも私たちの目が澄み、内なる光が輝き続けるために、ヨナやソロモンにはるかにまさる主イエスの御前に進み出て、へりくだってひざまずく者でありたいと願います。

2015 12月20日
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心を灯す イエスの光
「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」   ヨハネ1:4

クリスマスにお生まれになったイエス・キリストは、まことの光(1:9)、世の光(8:12)として、私たちのもとに遣わされてきました。 
 光の役目は暗い所を明るくすることです。暗くてよく見えないところを照らし、見えるようにするのが光が持つ役割といえますが、ではイエスの光としての役割は何かというと、文字通り暗いところを照らすことです。私たちの暗いところ、それは罪といえますが、イエスの光は私たちがどういう存在なのかを示し、罪を明らかにします。

けれどもイエスは、その罪を光で照らすだけ照らし、そのままにしておかれる方ではなく「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:17)のみ言葉が示すように、私たちを罪から救い上げ、ご自身のもとへと引き寄せてくださるのです。

また、このみ言葉が教えるのは、何によって救われるのかというと「御子によって」救われるというのです。さらには、御子の何によってなのかというと、御子イエス・キリストの十字架によってです。

イエス・キリストの十字架は、それを間近で目撃した人々にとっては、闇の力に敗北したかのように見え、その光が完全に消し去られてしまったように見えたのですが、イエスの十字架の光は暗闇の中で輝き始め(よみがえり)、私たちにまことの命を与えるものとなりました(5節)。贖いの十字架の御業を覚えつつ、救い主のご降誕を喜ぶ者でありましょう。

2015 12月27日
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イエスの救いへの招き
  「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられ ます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスた だおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられま した。」                         Tテモテ2:4〜6 

イエスがファリサイ人から食事の招待を受け、席に着いたところ、イエスが身を清められなかったのを見て不審に思った彼に、イエスは「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(39節)との言葉をもって、これまで彼らが形式的に行ってきたことの過ちを指摘されます。

イエスはさらに具体的に、@周囲の人の評価を気にするような十分の一のささげもの、A広場で挨拶(敬礼の意)されることを好んだり、B自らの過ちを気付かずに、他者を指導したりするファリサイ人を非難します。

彼らはイエスに敵意を抱いていました。イエスを陥れる口実を見つけ、何とかしてやろう考えていました(53、54節)。彼らの思惑は、イエスも感じ取っていたに違いありませんが、それでも、イエスはその招きに応え、彼らの家に入っていかれるのです。

  何故なのかというと、そこに救いを必要とする者がいるからです。間違った 信仰理解をし、そのために本来の信仰のあり方とは違う方向に進んでいる  者がいるからです。真実な信仰の導き手のイエスであるからこそ、彼らのとこ ろに入っていかれたのでしょうし、自分に敵意を抱くような、彼らをも確かな  救いの恵みに招き入れたいという、イエスの宣教の熱意も感じられます。
  私たちは、これからも、真実な導き手であるイエスを仰ぎ見つつ歩む者とさ せていただきたいと願います。
2016 1月3日
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 新しくされるために
 「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」                                    イザヤ57:15  
  ここでイエスは律法学者に対し、3つのことで「不幸」だと言われます(46、
 47、52)。

1つに、彼ら律法学者は神の律法に解釈を加え、人々に負いきれない重荷を負わせました。そして、それを忠実に守りきれない人がいるなら地の民とし、新しくされる余地をなくすほどに責め立てます。それをイエスは
「不幸」だと言われます。

2つ目に、イエスが指摘するのは(47節以降)、旧約時代に立てられた神の預言者たちの語る言葉、それは悔い改めを迫り、神に立ち返ることを願う救いの言葉なのですが、罪が指摘されるのを嫌がり、その言葉に耳を傾けないことを「不幸」と指摘します。

また3つ目には神の与えられる救いの鍵となるイエスが、今、目の前におられるのに受け入れようとはせず(53、54節)、さらには、イエスが取税人や罪人たちと囲んでいる食卓にも、彼らと同じ席に着くために入ってくるのではなく、言い掛かりをつけ、イエスと罪人と呼ばれる人たちを引き離すために、割り込んでくることを「不幸」だと言うのです(例;5:17〜26、中風の人の癒し、5:27〜32、マタイを弟子にする)。

イエスはこのように律法学者の「不幸」を指摘されますが、それは彼らと同じように、断罪するだけして見捨てるためではなく、真実な神への信仰に立ち返り、救い主イエスのもとに額づくためなのです(イザヤ57:15)

新しい年を迎えた私たちも、真実に新しい者とされ、救われた喜びを確かなものとするために、これからもイエスの語られる言葉に耳を傾けていく者でありたいと願います。

2016 1月10日
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「友よ」と語りかけるイエス

「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」
                                    ルカ12:8
 イエスは「友人であるあなたがたに言っておく」(4節)との前置きをされた 上で、注意し(1節)、教えられます(5節)。

イエスはファリサイ派の人々の偽善に注意するように言います。彼らは表面的には神への信仰に忠実に生きていますが、実際にはイエスが指摘するように「強欲と悪意に満ちて」いました(11:39)。それはまるで役者が役を演じるように(=偽善の意)、本来の自分とはかけ離れているのです。また人の評価を恐れ、偽善に陥ってしまった彼らに、真実に恐れるべき方を教えられます(5節)。

また友であるイエスは、4羽を買うと一羽をおまけでもらえるような雀をも(マタイ10:29参照)覚えているのだから、たくさんの雀よりもはるかにまさる私たちを忘れるはずがないとも言われ(6、7節)、さらに上記のみ言葉のごとく(8節)、いかなる時にも「この人は私の友だ」と証言してくださるのです。そして、助け主である聖霊をも遣わしてくださるのです。

私たちがイエスを「友」と呼ぶことは、なんと恐れ多いことかと思いますが、イエス自らが親しみを込めて「友よ」と語りかけてくださいます。このことだけでも感謝なことと思いますが、イエスが真実な友であり、私たち一人ひとりを失いたくない一人として見ていてくださるからこそ、前述のような注意をされるのでしょうし、「誰を恐れるべきか」を教えてくれるのでしょう。
 また私たちが、どのような状況に置かれても、イエスご自身が、また聖霊なる神が、私たちの「友」としてそばにいてくださることは、私たちにとって何よりもかけがえのない恵みであり、平安なのではないでしょうか。

2016 1月24日
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神に富む者
 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」

                                 ルカ12:21
  イエスは上記のみ言葉をもって、「神の前に豊かな者となるように」と教え られます。これを理解してもらうために、イエスは一つのたとえを話されました (愚かな金持ちのたとえ)。イエスはこの金持ちを「愚かな者よ」と言うほどに 、問題があることを指摘されます。

1つには「私の物」という心です。確かに彼は、今の蔵には収めきれないほどの物を得るために懸命に働いたのでしょう。けれども、太陽や水といった自然からの恩恵がなければ、それらの物は得られないのに、それを忘れて「私の」という心が先行するのです。
 2つ目には彼が金持ちだったことです(16節)。お金があるということは、これまでもそれなりの暮らしをし、食べ物に困るほどの生活ではなかったでしょう。それでも、今たくさんの収穫物を得た彼は、「もっと多くの物を」と貪欲(15節)になるのです。
 また3つ目には、「これから何年先も生きて行ける」(19節)ことへの根拠のない自信です。日ごとの糧を与え、命を授けられるのは神であるはずなのに、これをも忘れていることをイエスは指摘されます。

イエスからこうしたたとえを聞いた遺産相続のことで相談に来ていた人は、イエスの話を聞くには聞いていたのでしょう。けれども、このみ言葉の前後を思うと、彼は本当にイエスの話を聞いていたのかと考えさせられます。それは前には一羽の雀をも覚えている神を話され(6節)、後には空の鳥、野の花を見よ(24節、28節)と前と同じような話しをされているからです。相談に来たこの人は遺産(富)のところに心があったのです(34節)。

富を大切にしなければならないのは、それは神から賜わったものだからです。すべてを与えたもう神に、さらには、罪より贖うイエスの十字架の御業を富とし、イエスの前に豊かな者とならせていただきたいと願います。

2016 1月31日
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小さな群れよ、恐れるな
  「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」
                                       ルカ12:32
  イエスは「思い悩むな、恐れるな」(22、29、32節)と言われるのですが、
 こうした言葉をいただきながらも、思い悩み、恐れてしまうのが私たちです。

それはイエスが「信仰の薄い者たちよ」(28節)と指摘されているように、決して神を信じていない訳ではないのですが、時に、神のできる範囲を自分で決めてしまって、「この恐れは自分のもの」、「この思い悩み、思い煩いは自分でしか解決できないもの」と決め付けてしまうことがあります。

けれども聖書はそうは言わないのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(Tペテロ5:7)と教えてくれるように、恐れ、思い悩みの一切を神の御手に委ねなさいと言われるのです。私たちが信じている神は、全知全能の神であり、「髪の毛までも一本残らず数えられている」(12:7)ほどに、私たちのことを知っておられる神なのですから、私たちが自分ひとりで抱え込んでしまいがちになる恐れすらも、神のものであるはずです。

そこで覚えたいのは「小さい群れ」(31節)としての自覚です。こうした自覚が生まれてくると、恐れや思い悩みを神に委ねるために、より一層神に近づけるのだと思います。「神さま、こうした恐れ、思い悩みがあるのですが、どうしたら良いのですか。最善なのですか。」という思いをもって、これまで以上に神に寄り頼む者とさせていただけると思うのです。

イエスが「恐れるな」と言われる時、それは本当に恐れる必要はないのです。思い悩まなくて良いのです。「恐れるな」このイエスの言葉を信じ、私たちがイエスに、何でも申し述べることができる者としての「小ささ」を誇るものでありたいと思います。

2016 2月7日
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主の再臨に備えて
  「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからで    ある。」                         ルカ12:40   

イエスが再び来られる再臨についてのみ言葉です。聖書には救い主がお生まれになるクリスマス(初臨)の約束も多数ありますが、その約束よりもはるかに多く記されているのが再臨の約束です。み言葉を通して、クリスマスの喜びを信じる私たちにとって、イエスの再臨は、尚はっきりとした確かさをもった出来事なのだと受け取らねばなりません。

そこでイエスは、イエスの再臨に備えてどうあってほしいのかを話されます。いつでも動けるように身支度を整え、腰に帯を締め、また、部屋を明るく火を灯しておくように、目を覚ましておくようにとも言われるのです(35、37節)。
 こうしたイエスの言葉は、私たちが今という時を、どのように過ごすのかが問われる言葉です。私たちはいずれ主に喜ばれる信仰者とならせていただきたいと願うものですが、そのためには、イエスからこの言葉をいただいた今、腰に帯を締め、ともし火を灯し、目を覚ましておくことに気を配っておくことが大切です。

そして、主の再臨がどのような時なのかもイエスは言われます(37節)。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」のです。本来、僕(=奴隷の意)の立場の者が席に着くことすら許されていない時代にあって、腰の帯を緩めてくつろぐことができる食卓へと招き、給仕をもしてくれるのです。

イエスの言葉を守りつつ、主の再臨を待ち望んでいる時、こうした喜びが約束されていることを思うと、その時がより一層待ち遠しくなってきます。イエスが再び来られる再臨に備えて、み言葉の教えるままに歩ませていただく者とさせていただきましょう。

月 日 聖書のお話し
2016
2月14日
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忠実で賢くあれ
「主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。」
                                    ルカ12:42

 イエスは上記のみ言葉のように、「忠実な者は誰か。賢い者は誰か。」と尋ねますが、どういうことに忠実であれと言っておられるのかというと、「時間どおりに食べ物を分配させること」に忠実であるようにと言われます。

食事とはそもそも、元気が与えられるものです。力が与えられ、体が成長するために必要なものが食事です。けれども、私たちの命が健やかであるためには、体だけではなく、内面的な心の健康も大切だということは、私たちは良く承知しています。

こうした務めを誰のためにするのかというと、自分以外の誰かのためにするように言われるのです。こうしたことを特に心の健康のことで考えますなら、例えば相談に乗ったり、励ましたりということを考えますが、これらのことと同じ程度に大切なことは、どなたかのために祈る、執り成しの祈りも、私たちが忘れてはならない大切な務めといえます。

また「賢くあれ」とも言われます。私たちはそのためにさまざまに努力をします。先人たちの言葉を聞き、自らの経験や失敗を通しても賢さは身についてくるでしょう。けれども真実な賢さの出どころは、神によるしかありません。
 ダビデは自らが犯した罪に悔いた時、そのことに気が付かされ「私の心の奥に知恵を教えてください」(詩51:6、新改訳)と神に祈り、またイスラエル統一王国時代の王ソロモンも「今このわたしに知恵と識見を授け、この民をよく導くことができるようにしてください。」(U歴1:8〜10)と願ったからこそ、神から賢さを授けられたのでしょう。
 私たちもこうした忠実さの中に生き、また賢さを求めつつ、主イエスの再び来られる再臨に備える者とさせていただきたいと思います。

2016 2月21日
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火を投ずるために
「わたしが来たのは、地上に火を投ずるためである。その火が既に燃えていたらと、どんなに願っていることか。」    ルカ12:49

 火は私たちの暮らしに欠かせないものです。また時に兵器として使用されることがありますし、神殿での神へのささげものをする時にも用いられるのが火です。
 このような使われ方をする火ですが、聖書においては特別な意味を持って使われることがあります。それは神の顕現としての火です。
 こうした火で私たちがイメージするのは、悪の限りを尽くした町、ソドムとゴモラに降り注がれた裁きとしての火なのですが、火はそれだけではなく、私たちに救いをもたらすものでもあります。

たとえば、イスラエルの民を出エジプトさせるのにあたり、リーダーとして召し出されたモーセは燃える柴の中から聞こえてくる神の声を通して、神の救いを経験しました(出エ3章〜)。また弟子たちに聖霊が降り、キリストを伝える使徒として歩む信仰が確立したペンテコステの出来事も(使徒2章)、神の顕現である火と関わりの深いものといえます。

また前述の裁きとしての火も、イエスのペテロへの関わりを思うと、彼を全く打ちのめす火(言葉)ではなく、そこから立ち上がらせるものでもあるのかと思います。最後の晩餐の席で「死んでもよいと覚悟しております」と言うペテロに対し、「三度私を知らないと言うだろう」と言うイエスの言葉、またそのイエスの言葉のままの歩みをしてしまったことは、ペテロに裁きの火が投じられた時といえますが、イエスのペテロへの関わりはそれで終わりませんでした。
 よみがえられたイエスがペテロのそばに近づかれ「私の小羊を飼いなさい」との言葉をもって立ち上がらせ、新たな使命を与えて真実な信仰に生きるようにされるのです。
 
 私たちはイエスの投じられる火が、このような火であることをも覚え、信仰の歩みを、これからも全うさせていただきたいと思います。

 2016 2月28日 
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今の時を見分ける信仰

「空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」                ルカ12:56
 イエスは「どうして今の時を見分けることを知らないのか」(56節)と群衆に問うのですが、イエスのこの言葉を聞いた群衆というのは、ただの人の集まりではありません。彼らは、イエスや弟子たちを通して神の国の福音を告げ知らされてきた群衆であり、自他共に認める神の民として生き続けてきた人々であり、さらには、これまで数多の預言者たちが語るメシヤ預言を聞き続けてきた人々です。

彼ら群衆は心から救い主の来臨を待ち望んでいた人々なのですが、いざ真実な救い主イエス・キリストを目の前にすると、そこに救いがあることに気付けずにいるのです。
 それは彼らが長年思い描いていた救い主像と、イエスの救い主としての姿に隔たりがあったからといえますし、現実の彼らの暮らしが窮状にあり、不安の中にあったからだといえます。そのために、彼らは自分の生活に直接影響が出てくる天気を見分けることばかりに目がいってしまうのです。

そうした彼らの不安を根本的なところから解決しようとされて、イエスは57節以降のみ言葉を語られるのです。ここで「仲直りするように努めなさい」と言われますが、それは救いがイエスにあることを見分けてほしい、神との仲直り(和解)を得てほしいとのイエスの心からの願いでもあります。

イエスがこの世に来られたことは「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Uコリント6:2)です。イエスのもとにこそ、恵みがあり、救いがあるのです。私たちはこのことをしっかりと「見分けて」、イエスに目を向け、群衆と同じ道を歩まないようにしなくてはなりません。

2016 3月6日
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あなたがたも悔い改めなければ
「言っておくが、あなたがたも悔い改めなければ、皆同じように滅びる。」
                                     ルカ13:5

 イエスのもとに1つの知らせが届けられました。その知らせは災難ともいえる知らせでした(2節)。イエスはこの知らせをきっかけに、もう1つの災難な事故の話をされます(4節、シロアムの塔倒壊によって18人が亡くなったこと)。

イエスの周りにいる人々は、この知らせを聞いてどう考えたのかというと、自業自得、因果応報だと考えたでしょう。災難ともいえる事件や事故が起こってくると、何が原因なのだろうか、何か悪いことをしたからなのかに心が向いてしまう人々であり、私たちであるのかも知れませんが、そこでイエスが語られるのが、「心を神に向けよ」という悔い改めのメッセージなのです。

悔い改めとは自分の罪を認め、改めることですが、さらには心を神に向け、神に立ち返ることも忘れてはならない悔い改めです。

そして、その悔い改めの恵みを、イエスは実のならないいちじくの木のたとえで語られます。ここに出てくる主人は神、園丁はイエス、木は私たちであると考えられます。「実がならないなら切り倒してしまえ」と言う主人の言葉に従うべき立場の園丁であるはずなのに、園丁は「このままにしておいてください。肥やしをやってみます」と切り倒すのを待つようにと嘆願します。
 
 主人と木の間に立つこの園丁の姿こそ、イエスが歩まれた歩みそのものといえますが、その園丁が「肥やしをやってみます」と言うのです。ですから「肥やし」とは、悔い改めを迫るイエスのメッセージといえます。
 肥やしが木にどんな役目を果たすのかは、よく分かります。悔い改めにはこうした働きがあることを思いつつ、「心を神に向ける」者でありたいと願います。

2016 3月13日
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「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」
                                   ルカ13:16

 イエスはこの癒しの出来事を通して、安息日の本当の意味を回復されました。この時周知されていた安息日は「働くべき日は六日ある。その間に来て治してもらうがよい。安息日はいけない。」(14節)と会堂長が言っているように、イエスが癒されたことは「安息日を覚えて、これを聖とせよ」(出エ20:8、口語訳)の戒めに反するものでした。

会堂長や群衆だけではなく、病に苦しんでいた女性もこの戒めを生活の土台として、これまで暮らしていたはずです。それならば、この女性も何もしてはならない安息日に癒してもらうのではなく、日が暮れて翌日になるまでのあと数時間を待ってから癒してくださいと申し出ても良いようにも思えます。

けれども、イエスは「あえて」とも言えるほどに、安息日に彼女を癒され、上記のみ言葉を言われるのです。「安息日であっても」という言葉は「安息日においてこそ」とも訳す事のできる言葉です。
 それ故、イエスは少し待って先延ばしにするのではなく、安息日に癒しの御業をされるのです。
イエスに手を置かれた女性は癒され、神を賛美する者とされました(13節)。イエスがされたこの出来事は全人的な癒しともいえる出来事です。イエスによって彼女の内に神の国の恵みの支配が始められたのです。

そこでイエスは神の国のたとえをされるのです。ここでイエスがされた御業は名もない会堂での小さな出来事かも知れません。
 けれども、この出来事は鳥が巣を作るほどに成長するからし種や大きく膨らむパン種のように、大きな力を秘めた恵みの出来事となりました。私たちもこうした心を持って、神への礼拝をささげていく者となりたいと思います。

2016 3月20日
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成長させてくださる神
「神の国は何に似ているか。何にたとえようか。それは、からし種に似ている。人がこれを取って庭に蒔くと、成長して木になり、その枝には空の鳥が巣を作る。」
                     ルカ13:18、19

イエスは2つのたとえをもって神の国の恵みを教えられます。からし種のたとえでは、からし種は本当に小さな種ですが、種には確かな命が宿っているので、必ず成長させる力があること、またパン種のたとえでは、その成長が質の違うものに変える力があることを教えられます。

「神の国は『ここにある』『あそこにある』と言えるものでなく、あなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)のみ言葉が言うように、イエスの十字架の贖いを信じ、クリスチャンとされた者の内には、神の国の福音が届けられているのです。

私たちのもとに届けられた福音という種は、必ず成長するものだということを信じたいと思います。また、その成長はパン種のように質が変えられていく成長であり、価値観が変えられていく成長です。

福音によって価値観が変えられていくと、起こってくる課題や喜びの出来事に対しての受け取り方や向き合い方も、きっと変えられていくに違いありません。世の中では年齢を重ねれば角が取れて円くなると言われることがありますが、福音にはそれ以上の力があることを、私たちは再認識し、その恵みに生きる者とさせていただきましょう。

さらには、私たち自身がからし種であり、パン種だと考えますなら、私たちが受け取っている種の命、また力強さに根差して、福音を知らない周りの方にも、少しずつなのかも知れませんが、必ず芽を出し、全体が膨らんで、福音を知る喜びに生きる者へとされていくに違いありません。

2016 3月27日
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イースターの喜び
「わたしは彼らの咎を赦し、彼らの罪を二度と思い出さないからだ。」                                       エレミヤ31:34(新改訳)

イエスは十字架の上で7つの言葉を言われましたが、その1つに「成し遂げられた」(他の訳では「すべてが終った」、「完了した」)という言葉があります。イエスのこの言葉は、上記のみ言葉が教えるように、私たちの咎を赦し、私たちの罪を二度と思い出さないという、救いの御業が完了したことを教えてくれます。

本来、十字架刑はどんな刑罰よりも忌まわしい刑罰であり、人々には絶望と敗北、恐怖と屈辱しか与えないものでしたが、イエスが十字架に架かられることで、十字架の意味はまったく変えられました。人を罪より救い出し、希望と勝利を与える十字架となったのです。イエスの十字架によって、救いに至る道が完全に開かれたのです。

  その十字架の死からイエスはよみがえられました。イエスのよみがえりには、 神がイエスの十字架を受け入れられたことを教えてくれます。イエスの十字架  は、神との間に永遠の断絶があったところから、神との和解を得させる贖いの十 字架となり、また、よみがえりには神と人とが永遠の命につながる関係へと回復 された恵みであることを覚える時、イエスの十字架を抜きにして、よみがえりの  恵みを覚えることはできません。

時に、私たちはクリスチャンとされた後でも、罪に陥ってしまうのですが、そこでいつも立ち返らなければいけないのは、「成し遂げられた」と言われたイエスの言葉です。私たちが救われるために必要なことの一切は、イエスが成し遂げられたことを深く覚える時、イエスのよみがえりを記念するイースターの喜びは、なおはっきりとした鮮やかな喜びとなっていくのではないでしょうか。

2016 4月3日
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狭い戸口から
「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。」                        ルカ13:24

イエスはエルサレムへ進んでいかれます。イエスが何をしにエルサレムへ向かっているのかというと、十字架に架かられるためです。そうしたイエスの十字架への旅の途中、「狭い戸口から入るように努めなさい。」と語られます。

イエスの言われた「狭さ」とはどういう狭さなのでしょうか。例えば26節の「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです。」という程度でイエスを知っている「狭さ」や、「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたイスラエルの民で言うなら「自分たちは『どこの者か知らない』(25、27節)なんてことを、神から言われるはずがない」という神の民としての慢心という「狭さ」、また、私たちで言うなら「教会に行くようになってもうしばらくの年数が経っている」というだけで、神の前に敬虔でへりくだることのできない態度(狭さ)が、本来なら誰もに開かれている戸口を「狭く」させているといえます。

「戸口から入る」とはイエスを信じることです。また、ここでイエスのエルサレム行きが、改めて告げられていることを思うと、イエスの十字架を信じること、イエスの十字架だけに私たちの罪を赦す力があることを信じることが「戸口から入る」ことと言えます。

クリスチャンとされて、しばらくの時が経つと、この恵みを忘れてしまうことはないのですが、おぼろげになってしまう事があります。そうした私たちに向けて、イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」と語られるのです。
 また、「努める」とは戦い、勝ち取るという意味もあります。クリスチャンとされた私たちだからこそ、このみ言葉にしっかりと向き合い、今自分はイエスの何を信じているのか、そして、そのために何を選び取っていくのかの問い掛けがされているといえますし、決断が迫られているといえます。
 私たちはイエスの贖いの十字架を信じ、神礼拝を勝ち取る者とさせていただきたいと思います。

2016 4月17日
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イエスの御翼の下で
「わたしは、めんどりがひなを翼の下にかばうように、あなたの子らを幾たび集めようとしたことか。」                  ルカ13:34(新改訳)

 洗礼者ヨハネを捕え、その首をはね、イエスにも同様のことを目論んでいるヘロデのことが、イエスに伝えられますが、イエスはそれを無視するようにして、ここでもご自身のエルサレム行きを明言されます。ヘロデがこうしたことをするのは、自らの「静けさ」を守るためでした。ヘロデが統治する土地で、自分の意に反することが行われでもするなら、彼の求める静けさが乱されます。そのために、イエスを殺そうとまで考えるのです。

また、これまで遣わされきた歴代の預言者たちが告げる言葉に耳を傾けなかったイスラエルの民を、イエスは嘆きますが(34節)、それでも歴史が証明することは、神は預言者を遣わし続け、そして、今、救いの成就者としてイエスを、この世にお遣わしになるのです。

救い主イエスは、「(自分が成し遂げようとする救いが完成されるためには)エルサレムへ進んで行かなければならない」と言われ、めん鳥が雛を翼の下に集めるように、誰もがイエスの救いという翼の下に来ることを願っているのです。
 ヘロデが考える自分本位な静けさを求めるのではなく、イエスのもとに行くことにこそ、真実な静けさ(=平安)が得られることを、また、そのためには、エルサレムの地で十字架の死を遂げねばならないことを、イエスは改めて告げます。
 「エルサレム、エルサレム」と2度繰り返す言い方は、イエスが彼らを特別に慈しみ、大切にされているからこその呼びかけです。
 この愛ある呼びかけは、私たちにもかけられています。これからも、イエスの御翼の下にこの身を置き、御翼の下にあるからこその暖かさと平安をいただきながら、イエスと命のつながりがあることを覚えつつ、歩ませていただきたいと願っています。

2016 4月24日
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真の謙遜
「だれでも高ぶる者は低くされ、へりくだる者は高められる。」   ルカ14:11

イエスは「婚宴の席では末席に着くように」とのたとえで、真実に謙遜な者のあり方を教えられます。また、「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。」(10節)と教えられます。
 私たちがこうしたみ言葉をいただくなら、このみ言葉のままに末席に着くように心掛けるでしょうし、へりくだる者としての歩みをされることと思います。

けれども、そのへりくだっている心にあるのは、「へりくだる者は高められる」というみ言葉を知っているがために、いずれ上席に着けるように声をかけてもらえるとか、いずれ高められる時が来ることを期待してしまう心ではないでしょうか。こうした心を持つことを否定するのではありませんが、時に、高められる時が来ることを見越して、へりくだるような心が生まれてくることがないとも限りません。

そこで6節までのみ言葉で、真実に謙遜な者の生き方をイエスご自身がされるのです。今、目の前で病に苦しんでいる者の苦しみを知り、へりくだった者となって手を取り癒されるのです。

こうしたイエスのへりくだられた姿は、癒しという出来事に表わされているだけでなく、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(ピリピ2:6〜8)が教えるように、イエスはその出生から死に至るまで謙遜の限りを生き抜かれました。

こうしたイエスを信じつつ、イエスと共に歩ませていただく時、私たちも真実にへりくだる者へと整えられていくことです。

2016 5月1日
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神の国で食事をする喜び
「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」 ルカ14:15

神の国で得られる祝福を知ってもらうために、イエスは盛大な宴会のたとえ話をされました。宴会が始まる時刻になったので、招待した人たちのもとに僕を送って準備ができたことを伝えるのですが、皆が一様に断ります。

彼らの断る理由を考えてみるなら、どの理由もつじつまの合わない理由といえます。私たちが、このような恵みの宴会に招かれますなら、何を差し置いてもその宴会を第一に考えるかと思います。けれどもみ言葉が教えるのは、誰もが断っているのです。思いますのに、これが人の本来の姿なのではないでしょうか。

彼らが断る理由の語尾を見ると、「見に行かねばなりません。」、「調べに行くところです。」、「行くことができません。」と言っていますが、こうした「〜ねばならない」、「〜するところ」、「〜できない」という言葉は、神を第一にすることを弁えている私たちの心にも、時折り生まれてくる言葉といえます。

また、21節以降では、当時の社会からのけ者とされてきたような人たちが、宴会に招かれています。そして、その招き方は無理にでも連れて来られるような招き方です(23節)。宴会の主催者(神)にとっての何よりもの喜びは、誰もが宴会に招かれて、その席がいっぱいになることだからです。

主イエスの救いに与かっていない方にとっては、今も、イエスは戸口に立って、心の扉を開き、宴会に出席できないかと、一人一人を招いておられますし、救われている者にとっては、何かしらの理由をつけて宴席に着くのを断るのではなく、はっきりとした自覚を持って、主の宴席に着き続ける者とさせていただきたいと願っています。

2016 5月8日
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息子の帰りを待つ父
「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。」           ルカ15:20

自分らしく、自由に生きられると思って父の元を離れていった弟息子は、異国の地で過ごすようになります。こうした彼のしたことは父との絆を断ち切ることですから、父を見殺しにしたのと同じといえます。
 出ていった先での彼の暮らしは、放蕩の限りを尽くしたため、父親からもらった財産すべてを使い果たし、食べるのにも窮するようになりました。

そうした時にはじめて、彼は我に返るのです(17節)。我に返るとは、他に自分を取り戻すという意味もあるのですが、彼は、自分を取り戻すために、父の元を離れ、外に出ていったはずなのですが、実際には自己喪失の旅でしかなかったのです。

我に返った弟息子が言ったのは、「天にも、父にも罪を犯した」(18節)という言葉です。本来の自分に生きることと、自分の好き放題に生きるのとは違うことに気付き、父親の元を離れないで、父や兄という隣り人を愛しつつ生きていくことの大切さにも気付かされました。

また、もう一人の放蕩息子ともいえる兄について考えてみると、彼は弟が帰ってきたこと、また、父親が弟を歓待していることに腹を立てます。彼の怒る理由を分からない訳ではありませんが、彼にも弟と同じ心(見殺しにする心)があることに気付きます。それは自分の弟でありながら「あなたの息子」(30節)と言っている言葉に表れています。

そうした兄息子に父親は、私の息子とは言わず「お前のあの弟」(32節)と言って、弟を受け入れるようにと願うのです。弟が気付いた隣り人を愛する生き方を兄息子にもしてもらいたいことを伝えるのです。
 こうした父の姿にイエスの姿を重ねつつ、これからも私たちはイエスの元にいる者とさせていただきたいと思います。

2016 5月15日
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イエスを主とする生き方
「自分の持ち物を一切捨てないならば、あなたがたのだれ一人としてわたしの弟子ではありえない。」    ルカ14:33

  イエスはここで、弟子となるための条件として大変厳しいことを言われます。 家族や自分を憎み、持っているものすべてをも捨てなければ、イエスの弟子と なれないと言うのです。このようなことを言われると、誰がイエスの弟子となれる のかと思いますし、こうした条件を付けられるなら、弟子となるのを止めても良い と考えてしまうかも知れません。

こうした厳しい言葉で、イエスは何を求めているのかというと、イエスを主とする生き方です。私たちは確かに、イエスを主と崇め、イエスを愛し、イエスに絶対の信頼を寄せて生きているのですが、時に、イエスを主とせず、二番目に置いてしまう事があります。

では、何が第一に置かれるのかというと、自分(自我)です。自分が第一に置かれると、宝ともいえる家族や持っているものが、災いの種になってくることは容易に想像できます。

また、そうしたことに陥らないために、イエスは自分の十字架を背負うように言われます。いろいろに考えられる自分の十字架ですが、何よりも自分に死ぬことといえます。自分に死ぬとは、他者のために生きる姿です。

隣り人を愛する生き方は、料理に用いられる塩の役目に似ています。塩は料理を引き立てるために用いられる調味料の一つです。けれども、それほどたくさん使われることはなく、塩が自己主張するような使い方をするなら、その料理は台無しになってしまうでしょう。

私たちがこれからもイエスを愛し、イエスを主として歩んで行こうとする時、こうした生き方が求められています。これがイエスの弟子になることではないでしょうか。

2016 5月22日
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「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」                                             Uコリント3:18

見失った羊のたとえと、なくした銀貨のたとえですが、私たちがこの物語を聞く時、この話の直接の聞き手だった徴税人や罪人、ファイリサイ派の人や律法学者の立場で聞くことがあります。

徴税人の立場で聞くなら、自分はまさに見つけられた羊や銀貨のような存在だと聞くでしょうし、律法学者の立場で聞くなら、本来なら誰もが神のもとに立ち返るべき存在なのに、悔い改めの必要のない者として(7節)聞くのかも知れません。
 またもう一つには、ここに二度出てくる「一緒に喜んでください」(6、9節)のみ言葉に注目して聞くなら、このたとえでイエスは、私たちも共に喜ぶことを願っておられるのかと思います。

共に喜ぶことは、徴税人にとっては難しいことではないと思いますが、不平を言っている律法学者たちにとっては困難な事だったと思います。けれども、そうした態度をとる彼らにも、イエスがこのたとえを話されたのは、彼らにも共に喜びの食卓に加わってほしいとの願いがあるからではないでしょうか。

そもそも羊飼いや女性は、なぜ見失った羊や銀貨を探したのでしょうか。見失った羊や銀貨は特別に価値のあるものではなかったでしょう。それでも彼らが探すのは、彼らにとってなくてはならない大切な1匹の羊であり、1枚の銀貨であったからだといえます。

そして、彼らのこの思いは、イエス自身も持っている思いです。イエスにとって、私たちが見失った者となるのは、どうでも良いことではありませんでした。私たちを見つけ出す(救う)ために、イエスは十字架に向かわれるのです。私たちが、このイエスの愛を知り、救われた喜びで満たされる時、「一緒に喜んでください」のみ言葉のままに生きている私たちがいるのです。
 そして、この「一緒に喜ぶ」生き方こそ、上記のみ言葉の「主と同じ姿に造りかえられていく」ことと同じといえるのではないでしょうか。

2016 5月29日
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父の愛、神の愛
「すると、父親は言った。『子よ、お前はいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは全部お前のものだ。だが、お前のあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」 ルカ15:31、32

放蕩息子という題で知られるたとえ話ですが、内容は「福音の中の福音」とも言われるほどに、神が私たちをどれほど愛しているのかを教えてくれる物語です。
弟は父親からもらった財産すべてをお金に換えて、遠い国へ行き、放蕩の限りを尽くし、食べるにも窮し始めた時に、父の元に帰ることを決意します。

家に帰ってきた息子をいち早く見つけた父親は、彼に一番良い服を着せ、指輪をはめ(権威を示す)、履物を履かせました(雇い人ではないことを示す)。そして、肥えた子牛を屠って食べて祝おうとまで言うのです。

こうした父親のやり方に兄は怒るのですが、私たちは兄の怒る気持ちは少なからず理解できます。また「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(19節)と言った弟の言葉の方が、怒りもせずに歓待する父親のやり方よりも、自分のわがままで放蕩三昧をするならどうなるのかを知るのに、筋が通っているように思います。

けれども、このたとえ話が神の愛を教える「福音の中の福音」の物語として受け取り直すなら、父の非常識ともいえる愛し方の方が理解しやすいのではないでしょうか。

御子イエス・キリストをこの世に遣わす神の愛は、私たちの常識をいともたやすくひっくり返す神の常識なのです。また、私たちの常識に沿って神の愛がなされますなら、誰も救われないことにも気付かされます。父親は同じ愛をもって兄のもとへも近づかれます。神の愛から誰も漏れていないことも教えてくれます。

2016 6月5日
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本当に価値あるもの
「だから、不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか。」              ルカ16:11

  このみ言葉には、書いていることをそのままに受け取り、行おうとしますなら、 不正を働いた管理人だけでなく、その抜け目なさ、賢さをほめる主人について  も、戸惑いを覚えるみ言葉が多くあります。

管理人がしている不正は決してほめられたものではありませんが、彼がしていることに曖昧さはありません。一貫性があります。また、彼は今の仕事を辞めさせられても、自分を迎えてくれる人を作ることを考え、人を利用しました。人を利用するというと聞こえが悪いのですが、人を当てにするといったら良いでしょうか。管理人は自分一人だけでなく、また、主人にだけではなく、他にも頼るところがあることを知るのです。

私たちは信仰を守っていくという時、この二つのことを忘れがちになります。一貫性ということでいうと、いつも心の中心に信仰()を置いておくべきなのに、心の隅の方に追いやってしまうことがあるかも知れませんし、また、頼るべき信仰の先輩方や神がおられるのに、自分だけで抱え込むようなことがあるのではないでしょうか。

またイエスは、富への忠実な態度も求められますが、これは小さなことだと言われます。というのも、あらゆる富は神からの賜物と信じているからです。けれども、神からの賜物である富を、不正なものとして変えてしまいやすいのも私たちの現実の姿です。

だからこそ、イエスはこの管理人の一途なほどまでの一貫した態度を神に対して持つことを、また、神からの賜物である富を正しく用いて、信仰の友を得ることを願っておられるのです。そうした信仰生活をしていく中で気付かされるのは、光の子として生きる絶大なる価値です。私たちは、本当に価値あるものを見極めつつ歩む者とさせていただきたいと思います。

2016 6月12日
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心を知っておられる方
「そこで、イエスは言われた。「あなたたちは人に自分の正しさを見せびらかすが、神はあなたたちの心をご存じである。」          ルカ16:15

パリサイ人たちをはじめとする、当時の人たちは、誰もが力ずくで、何としてでも神の国に入りたいと、また、そうすれば入れるものだと考えていた時代です。そうした考えをもっている彼らに対し、イエスは「否、それでは神の国に入ることはできない」と言われるのです。神の国を待ち望むことは悪いことではないのですが、その待ち方、その心がふさわしくないと、彼らの心を知るイエスが言われるのです。

彼らは自分の身勝手さを守るために、律法を曲解し、利用しました。「それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」(16節)このみ言葉は、パリサイ人たちの自分の力で神の国に入れるものだとする心を、指摘する言葉ですが、「誰もが皆、神の国に激しく招かれている」とも言い換えることができる言葉です。

こうした意味で受け取り直すなら、主体はこちら側にはありません。招く方がおられるからです。招く方、主イエスです。イエスが私たちを神の国に入れさせようと、激しく招き、力を注いでくださっている。

激しく招くという言い方はあまりない表現ですが、そう言わねばならないほどに、イエスの招きは強烈なものでした。それはイエスの贖いの十字架に表わされています。イエスの十字架を通しての神の国への招きから、外れている人は誰もいません。今ここで、イエスをあざ笑うパリサイ人も、また、あの奇妙な裁判でイエスを十字架の死に追いやろうとする人たちをも、イエスは神の恵みの中へと激しく招くのです。

それ故、イエスは彼らの罪を指摘します。真実に神に立ち返る(悔い改め)ために、罪を指摘しなければならなかったのです。そうした悔いた心をもって神の前に進み出る時、その心を知ったイエスは喜んで、神の国へと招き入れてくださいます。

2016 6月19日
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心の貧しい者の幸い
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」                                           マタイ5:3

これまでイエスは、ガリラヤ全土を巡り歩き、福音を宣ベ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されました。そして、大勢の群衆がイエスに従ってきました(4:23〜25)。

それを見たイエスは山に登り、彼らに話を始められます。5章から始まる「山上の垂訓」は、7章まで続きますが、私たちがこれらのみ言葉を聞く時、一番の土台としたいみ言葉は、上記の「心の貧しい人々は、幸いである、天国はその人たちの者である」のみ言葉です。

イエスがここで言っている「貧しさ」とは「心の」と言っているところから、お金があれば豊かで、なければ貧しいというような「貧しさ」ではなく、また、意地悪な心の持ち主であるとか、誰かが喜んでいるのに一緒に喜べないでいるといった「心の貧しさ」でもありません。
 では、どういう貧しさなのかというと、「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」(イザヤ57:15)。このみ言葉に根差した「貧しさ」です。

かつての信仰者モーセやギデオン、イザヤなどは、まさにこのみ言葉のままに、真実に主の御前にへりくだって、「心の貧しさ」の中に生きました。

私たちも7章までにある数々の戒めの中に立たされる時、そのすべてを完全に守るのは困難でしょう。
 だからこそ、「律法を完成するために来た」(17節)と言われるイエスのもとにへりくだり、「心の貧しい者」の歩みをこれからもさせていただきましょう。

2016 6月26日
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神の助けを覚えつつ
「アブラハムは言った。もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう』」                                         ルカ16:31

 生前、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた金持ちは、陰府に落とされ苦しみを受け、また、貧しく生きていたラザロは、信仰の父アブラハムのそばで慰めを受けます。

 何故、両者の間に、このような違いが生じてくるのかというと、この話に出てくる「ラザロ」という名前に答えがあるように思います。というのも、イエスがこのような話をされる時、名前を出して話されることは、とても珍しいことだからです。

「ラザロ」という名前には「神は助ける」という意味があります。ですから、ラザロは神さまの助けを感じながら生きていたのです。実際には、金持ちの食卓から落ちてくるもので空腹を満たしたいと思い、犬が体のできものをなめるほどの状況に置かれていたのですが、ラザロは、常に神の助け、恵みが注がれていることを実感して生活していたのです。

  反対に金持ちは毎日遊び暮らすことができるほどの富が得られていたのに、 そこに「神の助け」があることを忘れていたのでしょう。毎日とは日曜も、平日も  ない毎日です。豊かに恵みを注がれる神へ感謝をささげる礼拝の時を、他の日 と同じように過ごすのです。両者の神に対してのこうした違いが、前述のことを  招くのです。

死後のことを教えてくれるみ言葉ですので、死後のことに心奪われるのかも知れませんが、そこに目を向けるようにとはイエスは教えられません。私たちが、日ごとの歩みをする中で、どこに目を向けているのかが問われるのです。「神の助け」を覚えつつ、歩む者とさせていただきましょう。

2016 7月3日
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信仰を増してください
「わたしどもの信仰を増してください」「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」
         ルカ17:5、10

「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(4節)との言葉をイエスから聞いた弟子たちは、今の自分の信仰ではとても全うし得ないと思い、「わたしどもの信仰を増してください」(5節)とイエスに願いました。
 こうしたことを言った弟子たちの心中は、自分の信仰が十分ではなく、小さいものだと考えていたのでしょう。また、大きくなるものだとも考えたのでしょう。

それに対し、イエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば」(6節)というのです。からし種は本当に小さく、砂と混ざるなら見分けのつかないほどですが、砂とは訳が違います。砂を土の中に埋めても何の変化もありませんが、からし種を土に蒔くなら必ず芽を出し成長します。からし種には命が宿っているからです。
 イエスは、このたとえを通して本物の信仰には命があることを示そうとされます。そして、その真実な信仰のあり方として、「わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです」(10節)とのみ言葉をも示されました。
 弟子たちは信仰を人と比べるようなものと考えていたのかも知れません。誰かと自分の信仰とを比べて、大きければ喜び、小さければ憂えてしまう。そんな一喜一憂を繰り返していたのではないでしょうか。

けれども、イエスは信仰は人と比べるものではなく、神との間で築き上げられていくものだと言います。たとえるなら私たちの内にある鏡にイエスが映っているかです。心にある鏡にイエスを映しつつ、歩む私たちとさせていただきましょう。

2016 7月10日
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神を賛美する信仰
「その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。」  
                                    ルカ17:15、16

 10人の重い皮膚病を患っている人を癒されるイエスですが、癒された10人の内、イエスのもとに戻ってきたのは一人のサマリヤ人だけでした。また、他の9人はイエスのもとに戻らずに、祭司のところに見せに行くのですが、こうした彼らのすることは、当時の考え方では当たり前のことでした(レビ記14章)。

イエスのもとに戻ってきた一人に注目すると、癒されたことを知った彼は、大声で神を賛美しながら戻ってきました。

癒されたこの人は、この出来事の中で他にも声を上げています。他の九人と共に「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」という声です(13節)。この二つの声は、同じ声ではありますが目的の違う声です。一つは神に感謝する声、もう一つは神に助けを求める声です。

この二つの声を自らのこととして受け止め、思い返してみるなら、どちらの声が大きいでしょうか。考えてみると、神に助けを求める声の方が大きいことが多いのではないでしょうか。もちろん、私たちは神に感謝をいたします。「主の御名はほむべきかな」と賛美をささげる私たちなのですが、このサマリヤ人のような大声で神を賛美することは少ないように思います。

さて、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言って、サマリヤ人の信仰を喜んでいるのですが、ここでの信仰とは神を賛美する信仰です。聖書全体から信仰を言い表そうとするなら、さまざまな言い方ができますが、このみ言葉での信仰は神をほめたたえる信仰です。イエスによって救われた者だからこそ、その御業を覚え、大きな声で神を賛美する者とさせていただきましょう。

2016
7月17日
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神の国は、ただ中に
「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ。」    ルカ17:20、21

  イエスは「神の国はあなたがたの間にある」と言われました。ここでの「あなた がた」というのは、イエスからこの答えを導き出したパリサイ派の人たちです。パ リサイ派の人というと、イエスに敵対していたような立場の人です。イエスを計略 にかけ、陥れようとしていた人たちです。

このことを私たちが思うなら、そうしたイエスの敵ともいえる人の間に、神の国が実現するはずないと考えます。もっとイエスに忠実な人の内に、神の国はあると考えます。

けれどもイエスは、「あなたがたの間に」と言われるのです。この「間に」というのは、その人の心の内にとも訳せるのですが、時に私たちは、「心の内に神の国はある」と考える方が、気持ちが楽になります。目の前の現実に神の国があるとは思えない時があるからです。

けれども、イエスは「あなたがたの間に」と言われるのです。それは「あなたがたの間に」(パリサイ派の人たちにとっても、私たちにとっても)神の国そのものであるイエスがおられるからです。

  このイエスの言葉は、イエス・キリストを信じる私たちにとって、新しい気付き  を与えてくれます。神の国の平安は、私たちの心の中に確かにあるのですが、 その恵みはそこに留まるだけではなく、もっと広がりのある恵みです。クリスチャ ン同士の交わりの中に、神の国の平安があるばかりではなく、福音を携えて私 たちが遣わされていくところ、私たちと、まだクリスチャンとされていないどなた  かの間にも、神の国の平安は確かにあるのです。
2016 7月24日
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主が再び来られる時のために
「ノアの時代にあったようなことが、人の子が現れるときにも起こるだろう。」 
                                        ルカ17:26

  イエスは、20、21節に続いて、神の国、ここでは主イエスが再び来られる再 臨について教えています。終末とも言われる主の再臨ですが、しばしば世の中 が考えるような、希望のない恐ろしい世の終わりとはまったく違うものです。

というのも、イエスが教え、また聖書が語る終末は必ず神の国とくっついて教えておられるからです。そして、再臨はあるかも知れない、ないかも知れないという曖昧なものではなく、イエスのご降誕(初臨)の約束以上の確かさをもって、必ずあるのだということを弁え知っておくべきです。

私たちは確実にある主の再臨に備えて関心を持っておくべきです。26節以降には、関心を持たなかったがために滅ぼされてしまった2つの物語が記されています。1つはノアの時代に生きた人たちです。神の命令に従って箱舟を造るノアですが、他の人は食べたり飲んだりし、明日もきっと今日と変わらない1日があるのだと関心を持たず、結果、滅ぼされてしまうのです。また、ロトが移り住んだソドムの町も、同様に関心を示さなかったために滅ぼされてしまいました。

このみ言葉を通して、私たちに関心を持つようにとイエスが語るのは再臨についてです。では、どんな関心をもって主の再臨に備えるのでしょうか。一つには、危機感を持つことです。それはかつてイエスが「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言われたことです(12:35〜48)。もう一つには、待ち望むことです。確かにある主の再臨を心からの喜びの時であることを信じて待ち望むのです。

   イエスのこれらの言葉は、一見厳しい言葉のように受け取れますが、私たち  を愛するが故の言葉なのです。愛していないのなら、こうした言葉すら言わな  いはずです。こうしたみ言葉を覚えつつ、主の再臨を待ち望むなら、心からの  感謝をささげられる「その日」となるに違いありません。
2016 7月31日
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 絶えず、祈ろう
 「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」    ルカ18:7

不正な裁判官に訴える一人のやもめのたとえです。この裁判官は自他共に認める不正な裁判官でした。彼の不正は良く知られているところで、彼女もまた、彼の噂は良く耳にしていたことでしょう。
 この裁判官に訴え出たところで、きっと門前払いになることは、承知していたはずです。案の定、彼女の訴えにしばらくは耳を貸しませんが、彼女がひっきりなしにやって来て訴えるものですから、彼の心が変化します(5節)。「さんざんな目に遭わす」というみ言葉は、殴るという意味がありますので、彼女は殴り掛かろうとするほどに訴え出ているのです。その熱意が裁判官の心を変えていくのです。

やもめには、この裁判官のところに行くしか、自分の助かる道はありませんでした。だから彼女は固い決意をもって、彼を悩ませるほどに、また殴り掛かろうとするほどの覚悟で訴えるのです。また、彼女の心には、自分は「選ばれた人」(7節)という自覚もあったでしょう。
 やもめということで彼女を見れば、とても弱い存在ですが、神に選ばれた民として彼女を見るなら、とても強い存在です。この自覚に根差して彼女は訴えるのです。ですから、彼女の眼差しは不正な裁判官をも用いようとされる神に向けられているといえます。

このたとえを通してイエスは気を落とさず、絶えず祈ることを教えようとされました。私たちは神と出会える最良の時である祈りの中でも、神のなさることに気を落としてしまうことがあります。絶えず祈る必要を知っていながらも祈れなくなることも知っています。けれども私たちが信じている神は、この不正な裁判官のようではなく、必ず最善に導かれる方であることも、それ以上に良く知っています。

神は気落ちせず、私たちの祈りを絶えず聞こうとされ、耳を傾けておられるのです。私たちが常に神に目を向け、叫び、また祈るのを待っておられるのです。神に出会える特別な時として、私たちの日ごとにささげる祈りを大切にしてまいりましょう。

2016 8月7日
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イエスの御名によって祈ろう
「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください。』          ルカ18:13

神の前に出る時(祈る時)の2人の様子(ファリサイ派の人と徴税人)が、たとえで描かれています。ここに出てくる二人の内、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下し、高ぶっている者はファリサイ派の人であり、へりくだり、義とされた者は徴税人であることが分かります。そして、どちらの態度をイエスが喜ばれたのかというと徴税人です。

ファリサイ派の人が祈っている、週に二度の断食や全収入の十分の一を献げるといったことは、いい加減に考えてはいけませんが、何故するのかというと、神が自分たちを忘れずに顧みられて、祝福を与えられたことを覚えるためにするのであって、彼がそうしたように、人と比べたり、誇ったりするためにするのではありません。

それに引き替え、徴税人の「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」という姿勢は、当時の祈りの姿勢とはかなり違うものですが、真実にへりくだった姿勢で主の前に進み出ているといえますし、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」という言葉も、自分の罪深さをよく知った上での祈りといえます。

私たちも日々、神の前に出て祈るのですが、イエスが喜ばれた徴税人のような祈りをささげることもあり、ファリサイ派の人のような祈りをささげることもあります。
 そこで、私たちが立ち返らねばならないのは、祈りで最後に言う「イエス・キリストの名によって」という言葉です。私たちが神に目を上げて祈れるのは、イエス・キリストによってなのです。イエスがなさった罪の赦しの十字架を通して、私たちは神に近づくことができますし、また、祈ることができるのです。イエスの御名によって祈れる恵みを覚えつつ、私たちに託されている聖なる務めである祈りをささげる私たちとさせていただきましょう。

2016 8月14日
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 幼な子のように
  「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはで きない。」                      ルカ18:17

イエスに祝福してもらうために、乳飲み子たちが連れて来られました。それを見た弟子たちは、彼らをたしなめます。イエスのもとにはイエスの言葉を聞くために、たくさんの人が押し寄せており、「ここは、乳飲み子が来るべき所ではない」と、弟子たちは考えていたからです。

  それに対し、イエスは乳飲み子をご自分のもとに来させるようにと言います。 また、「神の国はこのような者たち(乳飲み子)のものである。」という言葉を思い ますと、私たちに一つの思い違いがあることを知らされます。それは、神の国は 大人のものであり、ついでに子どもたちのものでもあるという考えです。けれども 、イエスは「神の国はこのような者たち(乳飲み子)のものである。」と言われる  のです。

そこで、イエスは「子供のように神の国を受け入れる」ようにと言います。「子供のように」とは、ここでは特に「乳飲み子のように」ということでしょう。
 乳飲み子は本当に無力な存在です。一人なら今日生きることすらできないほどの無力さです。それ故、乳飲み子はすべて親に任せきりです。乳飲み子には、まだ、その自覚すら芽生えていないのでしょうけれども、それでも、ただ親だけを養い育ててくれる人として、無心になって親を頼りにして生きるのです。

大人である私たちも「子供のように」、ただ神だけを頼りとして生きることを願って、イエスは、このように言っておられるのです。私たちを肉的にも、霊的にも養い育ててくださる、唯一、真の神に絶大なる信頼を寄せて、「子供のように」なって、これからも歩む私たちとさせていただきましょう。

2016 8月21日
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 神にはできる
 「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエ  スは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」                                               ルカ18:26、27

「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねるある議員の問いに、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」と答えられるイエスです。

「持っている物をすべて売り払い・・・」こうした答えを聞いた議員は悲しみます。大変な金持ちだったからです。この議員ほどではないとしても、それなりの持ち物を持っている私たちにとっても、このイエスの言葉は大変厳しい言葉です。また、私たちに与えられている富はお金に限らず、29節で言うように「家、妻、兄弟、両親、子供」といったものも大きな富ですが、それらをも捨てるようにとイエスは言うのです。

こうしたみ言葉をいただき、このみ言葉が教えるままに生きようとする私たちですが、その歩みを振り返ってみるなら、なかなかみ言葉のように歩めていないのが実際のところです。言うなれば、この「すべてを捨てて」というイエスの言葉に、生涯を通して向き合っていく必要があるみ言葉です。

そうした私たちの心を知ってか知らずか、その思いを代弁するように、当時の人々は「それでは、だれが救われるだろうか」と言ってくれています。その言葉に対し、「人間にはできないことも、神にはできる」とイエスは答えられるのです。

  時に私たちはこうしたイエスの厳しい言葉の前に立たされます。けれども、こう したみ言葉でなければ、見えてこない自分の信仰の姿もあります。「神にはで  きる」という励ましと慰めのみ言葉をいただきつつ、信仰の歩みを進めさせてい ただきましょう。

2016 8月28日
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 イエスの十字架予告
「人の子は異邦人に引き渡されて、侮辱され、乱暴な仕打ちを受け、唾をかけられる。彼らは人の子を、鞭打ってから殺す。そして、人の子は三日目に復活する。」                             ルカ18:32、33

イエスによる3度目の十字架とよみがえりの予告です。弟子たちは、イエスが言った言葉の意味は理解できましたが、どうしてイエスがこうしたところを通らねばならないのかが分かりませんでした。

それは、「彼らにはこの言葉の意味が隠されて」いたからです(34節)。弟子たちが、イエスが歩まれた十字架とよみがえりの歩みの意味を、真実に理解できるようになったたのは、聖霊降臨のペンテコステの出来事以降といえますし、また、この時、彼らがイエスに思い描いていた救い主の姿は、かつての英雄、ダビデ王のような力強い救い主でした。

ですから、弟子たちはイエスの受難の言葉を聞きながらも、しっかりと受け止められず、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(マルコ10:37)と願い、自分のことばかりを考えてしまうような始末です。

聖書から、こうした弟子たちの様子を思うなら、彼らよりは、私たちの方がよほどイエスの十字架やよみがえりの意味は理解しています。とはいえ、弟子たちと私たちとの間にある、イエスの十字架とよみがえりの理解に、それほど大きな差があるといえるでしょうか。というのも、私たちも祈りの中で、弟子たちのような求めをしてしまうことがあるからです。

そこで私たちが覚えたいのは、イエスの十字架への道行きのすべては、他の誰でもなく、私のための道行きだと受け取ることです。私たちが、こうした信仰に立って、このみ言葉に向き合う時、イエスが成し遂げられた十字架の恵みの御業に、心からの感謝と喜びをおささげできるのではないでしょうか。

2016 9月4日
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 「彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか。』盲人は、『主よ、目が見えるようになりたいのです』と言った。 そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』」 ルカ18:40〜42
 
 イエスが目の見えない人を癒されたみ言葉ですが、このみ言葉を、どの立場で読むかによって、私たちの受け取り方は違ってきます。 
 例えば、イエスの立場で読むなら、ここでのイエスの隣り人を愛するなさり方に感動し、イエスを信じる私たちもまた、イエスの愛に倣う者とさせていただきたいと受け取ることができますし、また、神を賛美する民衆の立場でみ言葉を読むなら、時に、喜ぶ者と共に喜べない自分がいることにも気付かされるでしょう。

こうした受け取り方も大切ですが、何よりもの受け取り方は、この目の見えない人の立場に立って受け取ることです。目の開かれた者として歩ませていただいている私たちですが、高ぶった思いや不安や恐れなどで心がいっぱいになってくると、目が閉ざされたようになって、見るべきものに目を向けられなくなることがあります。
 見るべきもの・・・、イエス・キリストです。この目の見えない人は、イエスを見ることができたのです。イエスが信頼に足る方であること、また救いがあることを見たのです。それ故、癒された彼は神をほめたたえ、イエスに従うのです。

私たちのイエスを見る目は、どうでしょうか。真実に頼るべき方、確かな救いを与えてくださる方とのまなざしで、イエスを見ているでしょうか。目を開かせていただいた者として、イエスから目をそらすことなく、なおはっきりとイエスへの信頼を確かにしつつ、イエスに従わせていただきましょう。

2016 9月11日
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ザアカイの回心
  
しかし、ザアカイは立ち上がって、主に言った。「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」            ルカ19:1〜10
  
 ザアカイは徴税人の頭(かしら)でした。徴税人は罪深い者と同様にみられていました。仕事 柄、異邦人との付き合いがあり、ローマ政府の下で働いていたからです。
 ザアカイが「頭」となるためには、それなりの長い年月を徴税人として働いていたと思います。ということは、それだけの同じ期間、不正をしていたとも考えられます。ザアカイが実際に、不正をしていたのかは別としても、周囲のザアカイを見る目は、「不正をする罪深い者」とみなしていたでしょう。
 長年、ザアカイをそのような者と見ていた周囲の人です。そのザアカイが、イエスに会っただけで、しかもたった一度会っただけで、ザアカイが宣言している「主よ、わたしは財産の半分を貧しい人々に施します。また、だれかから何かだまし取っていたら、それを四倍にして返します。」(8節)という言葉を、周囲の人が素直に受け入れることは、難しかったのではないでしょうか。

けれどもみ言葉は、ザアカイの真実な姿を示します。ザアカイはイエスに出会うことで、新しく生まれ変わったのです。本当に回心したのです。
  
み言葉が示す確かなこの事実を、私たちが受け入れ、またはっきりと信じる時、ザアカイの身に起こったことが、私たちの身にも起こってくるに違いありません。今、私たちも、聖書を通して、イエスに出会うことが許されているのですから。

2016 9月18日
 背の低いザアカイ
  イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子  なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」                                          ルカ19:9、10

ザアカイが住んでいるエリコの町は大きな町です。大きな町だということは、それだけ多くの人が出入りしているでしょうし、そういう人たちを相手に商売する人も大勢いたでしょう。いろいろな商売、いろいろな仕事のある町に住んでいたザアカイです。なぜ、ザアカイはいろいろな仕事のある中から、徴税人という仕事を選んだのでしょうか。

徴税人の仕事に就けば、罪人と同様にみられることは、ザアカイも知っていたはずです。エリコほどの町なら、何も徴税人にならずとも良かったはずですが、ザアカイは徴税人の仕事に就くのです。

この手掛かりとなるみ言葉があります。ザアカイは「背が低かった」(3節)のです。背が低いことは、ザアカイにとって大きな悩みだったと思います。このことが理由で子どもの頃、いじめられることもあったでのはとも想像できます。こうして積み重ねられてきた劣等感が、ザアカイを徴税人に就かせたともいえます。徴税人といわれようと、罪人といわれようと、この仕事をしていれば、多くの人の上の立場になれ、これまで自分を見下げてきた人たちを、今度は自分が見下げることができると考えたのでしょう。

そうしたザアカイのもとに、イエスが訪ねてきます。イエスは、ザアカイのことを、徴税人、背の低い者とは呼ばず、「アブラハムの子」、「失われた者」(9、10節)と呼びます。イエスにとって、ザアカイが徴税人であるとか、背が低いことは問題ではないのです。イエスが「ザアカイ」とその名を呼んだとき、ザアカイが喜んでイエスを迎えるかが問題なのです(6節)。

イエスは今も、み言葉を通して、私たちの名前を呼ばれます。その時、私たちはどのように応答するでしょうか。喜びをもってイエスを迎える者とさせていただきましょう。

2016 9月25日
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預けられたムナを用いよう
 「イエスは言われた。「そこで彼は、十人の僕を呼んで十ムナの金を渡し、『わたしが帰って来るまで、これで商売をしなさい』と言った。」   ルカ19:13 
 イエスが再び来られる再臨(神の国の完成)までを、どのように過ごすかを教えるみ言葉です。み言葉は、預けられられたムナを用いて「商売をしなさい」と言います。

 ムナとは何でしょうか。1人1ムナずつ与えられていることを考えると、誰にも一律に与えられています。あの人には、他の人と比べて少し多く与えられていたり、自分には少なく与えられていたりするのではなく、公平に、また平等に与えられているのです。 
 またムナとは、「神の言葉(聖書)」や「救い」、「信仰」、また「祈り」などを示すものだといわれており、「商売をする」とは、伝道することを意味します。それぞれが置かれている生活の場で、1ムナ(聖書、救い、祈り)を用いて商売(伝道)をする。
 これらのことは、これまでも教会の大切な使命として、取り組んできたことですが、そこで私たちに求められているのが、「忠実」(17節)であることです。忠実とは、真面目にその務めを果たすことであり、また元のものが持つ雰囲気を損なわず、写し伝えることです。この忠実さをもって、1ムナで商売をするのです。
 そのためには、預けられているムナの素晴しさをきちんと知っていなければなりません。知るというのは、知識として知っている以上に、ムナの恵みの中で生きることです。「神の言葉」の恵みに生き、「祈り」の交わりに生き、「救い」の喜びに生きるのです。
 その時、預けられているムナの何にも代えがたい価値に気付かされるでしょうし、その価値に気付いた者だからこそ、ムナが持つ雰囲気を損なわず、「ムナ」を用いて、「忠実」に「商売(伝道)」ができるのではないでしょうか。

2016 10月2日
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 主がお入用なのです
  「もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と 言いなさい。」                         ルカ19:31
  
 最期の一週間を迎えるイエスがエルサレムに入城する際、用いられたのが、まだ、誰も乗ったことのないロバの子でした。 
 ロバは、戦争のために用いられることはなく、またその気性は気まぐれで、強情な動物だそうです。こうしたところでは、役に立つとはいえませんが、反面、飼い主に慣れていくなら、地力を活かして荷物の運搬や農作業など、とても役 に立つ動物でもあるようです。
 イエスはそのロバに乗ります。またイエスの乗ったロバは、まだ誰も乗せたことがないのですから、人を乗せることに慣れてもいないでしょう。エルサレムの急な坂道を、そんな小さなロバに乗るなら、役に立つどころか、かえってケガをする恐れもあります。
 イエスがエルサレムに入城したのは、十字架に向かうためです。私たちに罪の赦しを得させる十字架に架かるためのエルサレム行きなのですが、そこで、イエスは真実な平和を届けるために、ロバの子の背に乗って、 子ロバを用いるのです。ロバの子を「入り用」とされたのです。
 「主がお入り用なのです。」 イエスのこの言葉から、誰も逃れることはできません。また、イエスを信じる者とされた私たちは、すでに、イエスを持ち運ぶ者とされているのです。平和の君なるイエスを持ち運ぶとは、自身をもって神の栄光をあらわすことです。自分の話す言葉やすることで、真実な平和を知らない方に主の平和を届けていくのです。
 「主がお入り用なのです。」というイエスの言葉の確かさを、自己評価の確かさよりも確かなものとして、主の栄光をあらわすために用いられる者とさせていただきましょう
2016 10月9日
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イエスの悲愛の涙
 「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いて、言われた。『もしこの日に、お前も平和への道をわきまえていたなら……。しかし今は、それがお前には見えない。』」        ルカ19:41、42

エルサレムに近づき、都が見えた時、涙を流されるイエスです。なぜ、イエスは泣かれたのでしょうか。
 一つには、人々の神への愛がなかったためです。人々は、平和への道を望んでいながらも、真実な平和をもたらす方(神)が見えず(42節)、また、これまでのイスラエルの歴史の中で、神はさまざまな人を立てて、時に励まし、慰め、叱責していたにも関わらず、その声に耳を傾けず、聞こえないかのようなことをしていたために(44節)、イエスは涙を流されるのです。
 さらに、神殿で人々が繰り広げていた光景は、なおイエスを悲しませるものでした。彼らのささげる祈りが形だけのものになっていたからです(46節)。

 イエスが涙を流す、もう一つの訳は、そうした彼らを愛するが故です。神殿を「わたしの家」と言うほどに愛していたイエスですが、その滅びを告げます。そして、事実、イエスの予告されたとおりのことが起こるのですが、それでも人の歩みはまったく打ち倒されることはなく、綿々とつながれて、その歩みが守られています。
 それは、イエスの贖いの十字架のためです。また、彼らを愛するが故です。ただ一人流されるイエスの涙が、彼らや私たちの罪を赦し、その歩みが守られてきたのです。 
 永遠の滅びから、永遠の命につなぎとめられているイエスの愛の涙に感謝するとともに、「わきまえていたなら・・・」(42節)、「祈りの家でなければ」(46節)というイエスの言葉に、耳を傾ける者とさせていただきたいと願います。

2016 10月16日
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権威ある方のもとに
 「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」   ヤコブ1:21

祭司長、律法学者、長老たちは、イエスに「何の権威によって、このようなことをするのか。」と尋ねます。イエスが神殿で教え、福音を告げ知らせていたからです。彼らがなぜ、こうしたことをイエスに尋ねたのかというと、彼らは神殿を、自分たちが自由に振る舞える場所としていたからです。

こうした立場の人たちは、民衆に神殿での所作のみならず、日常生活の規範も指導していましたから、そこに同じようなことをするイエスの登場を迷惑に思うのです。彼らは、自分が自由に振る舞えるように築き上げてきた「城」が、イエスの現れによって脅かされると感じたのでしょう。

そこでイエスは、バプテスマのヨハネを例として、彼が天からのものか、人からのものかと尋ね返します。このイエスの質問は、どちらの返答をしても彼らの立場が危うくなるものでしたから、答えに窮した彼らは「分からない」と答えるのです。

時に私たちも、み言葉を通してのイエスの問いかけに、祭司長といった人たちと同じように「分からない」と答えることがあるかも知れません。私たちも自分だけの「城」を持っているからです。聖書を読んでいると、そこに土足で入ってくるように感じられるみ言葉に出会うことがあります。
 けれども、そういう時にこそ、私たちが再確認しておきたいのは、み言葉の権威、またイエスの力です。み言葉には、私たちの「魂を救うことができます」という、み言葉の力を知っておく必要があります。
私たちを真実に生かし、命を与えるみ言葉の権威、また、私たちをサタンの力から引き離し、救いの恵みに引き寄せるイエスの十字架の力を覚えましょう。

2016 10月23日
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隅の親石、イエス
「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。」     ルカ20:17
 ぶどう園で雇われた人のたとえです。イエスはこのたとえを通して、神が神を信じる者にとって、どんな方なのかを教えます。

 神は、私たちを信頼し、私たちが生きる場所を用意してくださいます。というのも、ぶどう園の主人は、ぶどう園を「作り」、「貸して」おられるからです。主人は何も整えられていない荒れ地ではなく、ぶどう園という生活できる場所を作ってから貸すのです。また、貸した後も監督として居座ることなく、農夫に任せて出かけていきます。主人の農夫への信頼が見受けられます。
 生きる場所が与えられ、信頼された農夫は、その与えられた自由の中で何をしたのかというと、ぶどう園を自分のものとしました。そして、彼らのしたことは、自分が主人の座に着くようなことをするのです(10〜15節)。
 このたとえは「家を建てる者の捨てた石」(17節)を教えるものですが、このみ言葉には続きがあります。捨てられた石が「隅の親石」になるというのです。イエスはこれらの言葉を通して、これからイエスが歩もうとされる道を伝え、前述のように神がどんな方なのかを宣言するのです。
 イエスの地上での最期は、エルサレム城壁の外、ゴルゴダの丘で、まさに捨てられた石となられたのですが、けれども、それが私たちの生きる確かな「隅の親石(=救い)」となったのです。
 私たちが救われるためには、このことを抜きにして考えることはできません。罪からの救いはすべて、神がこの世を愛して送ってくださったイエスの贖いの御業にかかっているのです。

2016 10月30日
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 神のものは神に
「イエスは言われた。『それならば、皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。』」                            ルカ20:25

 皇帝に税金を納めるべきかどうかを尋ねられたイエスは、「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい」と答えます。
 皇帝に税金を納めることは、ユダヤの民にとって屈辱的なことでした。銀貨には皇帝カイザルの肖像が刻まれていたからです。皇帝はこの銀貨を使用させることで、その地域が皇帝の権威の下、ローマの支配下にあることを確認させようとしたのです。ですからユダヤの民にとって、納める額の多少に関わらず、銀貨を使用する行為そのものに嫌悪感を持っていたのです。
 それに対しイエスは「皇帝のものは皇帝に」と答えられます。これは税金を納めていれば良いということを教えるものではなく、社会への責任を教えるものです。社会とは家庭、地域、職場などでの人との関わりです。そこで自分のなすべきことをしていくのです。
 
 またイエスは、「神のものは神に」とも言われました。「神のもの」とは何かというと、すべては神のものと考える私たちですが、皇帝が刻まれた銀貨を皇帝にとの関わりで考えるなら、神が刻まれたものを神にということになります。神が刻まれたものとは創世記1:27によれば、「神は御自分にかたどって人を創造された。」とありますから、神に返すものは私たち自身といえます。さらに言うなら、私たち自身が持っている個性や才能を、神から与えられた信仰をもって管理することです。
 こうしたことは、確かに教会内でなされていることですし、神も喜ばれているのですが、なお神が喜ばれるのは、カイザルという社会で用いていくことです。自分の置かれている世の中で、信仰をもって自分に与えられたものを用いていく。私たちクリスチャンの神に喜ばれるあり方ではないでしょうか。

2016 11月6日
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神の真理に生きよう
「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。すべての人は、神によって生きているからである。」          ルカ20:38

復活を否定するサドカイ派の人々が、復活を明言するイエスに次の世(=天国)での人間関係について尋ねます(29〜33節)。

そこでイエスは「次の世ではめとったり、嫁いだりすることもなく、天使に等しい者とされ神の子とされる。」と私たちの常識をはるかに超える祝福を示され、さらには、サドカイ派の人々が信仰の指針としていたモーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)からもみ言葉を引用し、かつて神に仕えていた信仰者たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)は今も神の臨在の中、神との親しい交わりの中に生きていることを告げるのです。

サドカイ派の人々が、こうした質問をイエスにしたのは、復活の真理を探究するためでした。そして、彼らはこうしたことをしていくことが信仰深さにつながるものだと考えていたのでしょう。

私たちは、復活はあると答えられたイエスの言葉を、聖書から知ることができるのですが、サドカイ派の人々のように、知識として探っていくというだけでは十分とはいえないと思います。では、どうすれば良いのかというと、復活の恵みの中で生きていくことです。

イエスの十字架での贖いの死と、死を滅ぼされたよみがえりの力は、私たちに命を与えました。救いと希望と平安を与えました。その祝福を知り、その喜びに生きる者がクリスチャンです。福音の真理に生きる者とさせていただきましょう。

2016 11月13日
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ダビデの子、イエス 
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」                ピリピ2:6〜8

民衆はイエスをダビデの子と呼びます。それは、イエスがダビデの子孫だからであり、また、救い主メシアはダビデの末から生まれると信じられていたからです。民衆に聖書に基づいて信仰の導きをする律法学者たちも「メシアはダビデの末から」と教えていたので、今、ダビデの「子」として生まれたイエスが、各地で驚くべき御業をしていることを見ますなら、自分たちが待ち望んでいた理想のメシアの姿をイエスに重ねるのです。
 彼らが思い描く理想のメシア、それはダビデが治めていた頃のイスラエルの繁栄をもたらすメシアです。百戦錬磨の軍隊、難攻不落の城、豊かな農産物など、ダビデの時代に実現されていた繁栄が、イエスによって再び実現されるだろうと期待するのです。

けれども、イエスはその民衆の期待を否定されます。イエスは確かにメシアなのですが、続けてイエスは詩編のみ言葉を引用し、ダビデにとってもイエスはメシア(救い主)であることを告げられます。

イエスがもたらした救いは、過去、現在、未来といった時間に制限を受ける救いではなく、どの時代にも行き渡る救いです。だからこそ、イエスが生まれる以前の人たちにとっても、今を生きる私たちにとっても、イエスの十字架は救いなのです。 
  「ダビデの子」イエスは、今は、神の右に座し、私たちのためにいつもとりなしておられます。そのとりなしに支えられて、私たちの歩みを全うさせていただきましょう。

2016 11月20日
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レプタ二つのささげもの
 「ある貧しいやもめがレプトン銅貨二枚を入れるのを見て、言われた。『確かに言っておくが、この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。』」 
                                      ルカ21:2、3 
 律法学者に食い物にされた貧しいやもめが(20:47)ささげるレプタ2枚の献金と有り余る中から多額(マルコ12:41)の献金をした金持ちをご覧になったイエスは、「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。」(21:3)と言われました。

このイエスの言葉を思い、どちらのささげ方をイエスが喜ばれたのかというと、やもめのささげた献金です。金持ちが献金をささげる時、心は神には向かず、周囲の評価、評判ばかりを気にし、見栄のためにささげていたからですし、やもめの心は神に向いていたからです。

金持ちの多額の献金は、確かに神殿の経済を潤沢にしたのですが、前述のようなささげ方をしているのであれば、神がそれを喜ばれるとは思いません。けれどもやもめの心は神に向いています。神に向く時、誰よりも多くささげたといって誇ったり、どうしてこれだけしかささげられないのかという卑屈になったりすることもなく、まったく自由な思いからささげていたでしょう。また、生活費という言葉には人生とか、命という意味もあることから自分自身をささげる=献身と受け取ることもできます。
 献身とは牧師や伝道師だけの言葉ではなく、主を信じる者皆への言葉です。日曜ごとの礼拝に集められた者が、喜びの福音を携えてそれぞれの場に遣わされていくのです。
 また、献金も献身の具体的なあらわれの1つです。そして、そのささげものを通して、神がなさろうとされる栄光の御業に、私たちも加わっていくのです。またさらには、聖霊の宮である私たちひとり一人にも神の御業があらわされていくのです。

2016 11月27日
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終末の時、再臨の時
 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、
  人々は見る。」                        ルカ21:27

世の終わりについて語られるイエスです。
 壮麗な神殿に見とれている人々を見て、イエスは神殿の滅びを告げられます。人々は、今、この目で見ている神殿が崩れ去る時が来るとは思いもしていませんでした。永遠に続くものだと信じきっていました。

けれども歴史が教えるのは、都エルサレムの陥落(滅び)です。イエスはそれを予告されるのです。イエスはまた、神殿の崩落に重ねるように、世の終わりについても語ります。み言葉が教えるさまざまな天変地異、人々の様子を思うと、とても信じがたい、恐ろしいことが、終末に起こると予測できますし、これまでの人類の歴史で、繰り返されてきたことともいえます。

そうした世の終わりに備えるために、イエスは忍耐するようにと言います。忍耐というと目の前の嵐(困難)が速やかに過ぎ去るのを願い、その先にある静けさを待つことのように思いますが、聖書が教える忍耐は少し違います。それは、嵐の中での静けさです。嵐という困難、不安、恐れのただ中にあっても、私を支える静けさ(安心、平安)です。
 そのためイエスは、神の守り、導きの確かさを示すために「あなたがたの髪の毛の一本も決してなくならない。」(18節)とのみ言葉を言われるのです。

今は「かしこより来られるイエス」を待ち望む時です。アドベント(来臨の意)の時、キリストの初臨(クリスマス)を喜びつつ、主の再臨にも思いを傾けて、この時を過ごすことは、クリスチャンの私たちにはふさわしい過ごし方といえるのではないでしょうか。

2016 12月4日
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インマヌエル〜神、我らと共に在ます〜

「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」                                         イザヤ7:14
 アハズ王が治める南王国は、敵を目の前にしていました。北王国がアラムと同盟を結び、攻め込もうとしていたのです。このため王をはじめとする北王国は、森の木が風に揺れ動くように動揺します(2節)。

その不安を取り除くために、アハズ王がしたのは、眼前の敵より強大な力を持つアッシリヤでした。しかも本来なら持ち出してはならない神殿への奉納物を持ち出して、貢物としてささげ、アッシリヤに頼るのです(U列王16章)。アッシリヤによって敵は滅ぼされますが、南王国はなお、罪を重ねます。アッシリヤが信奉していた偶像の神殿を築き、神として崇め始めるのです。
 そこで、神の預言者イザヤは、アハズ王に「インマヌエル預言」を語るのです。イザヤの語ったインマヌエル(=神我らと共にいます マタイ1:23)が真実に実現されたのは、イエス・キリストのご降誕によってでした。真の神であるイエスが、真の人としてお生まれになることで、「我らと共にいる」方となられたのです。
 神が共におられることで、私たちは救われます。罪より贖い出されて、命の書にその名が記されるのです。これこそが、インマヌエルの恵みです。イエスによって、私たちにもたらされたインマヌエルの恵み、また救いの喜びを覚えつつ、歩ませていただきましょう。

2016 12月11日
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救い主の系図
「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった。」マタイ1:16

イエス・キリストの系図が記されているみ言葉です。その系図の一人一人に注目すると、名の通った人物もいますし、無名の人もいます。また、後世に語り伝えられるような偉業を成し遂げた人もいますし、逆に悪行によって「ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるが、それはマナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。」(U列王24:3、4)とまで言われてしまう人物もいます。
 全ての人を罪から救う、救い主の系図なら、どの人も救い主を子孫とするのにふさわしい人であってほしいと願う、私たちなのかも知れませんが、聖書が記す救い主の系図は、そうではありません。
 どの人もと言っても良いほどに、私利私欲に生きてきた人たちが名を連ねているのです。思いますのに、それが、人の世の現実だといえます。この世に救い主を送るために、こうしたなさり方をする神を思うと、クリスマスに生まれた救い主イエス・キリストは、まさに、罪の歴史のただ中に、分け入るようにして来られたのだと実感します。
 神はアブラハムに「祝福の源となる」、「あなたの子孫は大地の砂粒ほどになる、星の数ほどになる」との約束を与え、また、神のために家を建てようと考えるダビデには、「神があなたのために家を建てられる」(Uサム7章)との祝福を約束します。
 これらの神の言葉が、完全に成し遂げられたのは、イエスの降誕によってです。神が語られた言葉の一つ一つは、必ず成し遂げられます。その神の言葉に唯一の希望を置く私たちとさせていただきましょう。

2016 12月18日
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信仰の人、ヨセフ
「ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。」
                          マタイ1:24、25
 ヨセフは、エリサベツやシメオンのように、神の戒めに忠実に従う正しい人でした。そうしたヨセフが、試みにあいます。婚約中のマリヤが身重の体になるのです。普段の暮らしも忠実なヨセフですから、マリヤのことを聞いた時も、当時の規則に従い、彼女の罪を問い、石打ちにしても良かったのですが、ヨセフはそうしません。「マリヤのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうと決心」するのです。

 ヨセフのこの決心を思うと、正しい信仰に根差して決めることは、さばきが先立つのではなく、あわれみが伴ってくるものであることと思います。ヨセフの正しさには、自分を守るためではなく、マリヤのことを案じる正しさがあるのです。
 これが最善の決断だろうと思い決心したヨセフですが、神の判断は違うところにありました。夢枕に立った神のみ使いは、マリヤを迎え入れるようにと告げます。

その後、ヨセフはマリヤと共に歩み始めます。み使いが告げる言葉の通りに生まれてきた子にイエスと名付け(25節)、また、エジプトに逃げるようにとの声を聞くなら、すぐにエジプトまで去っていきます。いつイスラエルに戻るのか、どこに居を構えるのかについても、告げられる神の言葉に忠実に従うヨセフです(マタイ2:19〜23)。

賛美にあふれたクリスマスで、ヨセフは賛美することもなく、何かものを言うこともありません。ただ、神の言葉に忠実に従っていくヨセフが描かれているだけです。けれども、正しい信仰とは、そういうものなのではないでしょうか。語られた神の言葉に逡巡するのではなく、疑念を持つのではなく、忠実に従う者とさせていただきたいと願います。

2016 12月25日
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思い巡らすマリヤ
「マリアはこれらの出来事をすべて心に納めて、思い巡らしていた。」

                               ルカ2:19
 マリヤは、「これらの出来事をすべて心に納めて」いました。すべてとはすべてです。このみ言葉でいえば、馬屋で出産することになったこと、羊飼いが訪れてきたこと、また、この前後の出来事も含めますなら、み使いガブリエルとの出会い、エリサベツとの関わり、ヨセフが夫となったこと、エジプトへの避難などのすべてです。

「心に納めて」とは、その起こってくる一つ一つを大切な宝物のようにして、心に蓄えていくことです。
 マリヤはまた、それらのことを思い巡らしていました。思い巡らすとは、つなぎ合わせるという意味もあります。このみ言葉の中では、多くのことを語らないマリヤですが、この沈黙は腹を立てて不愉快になっている沈黙ではなく、上記のように「心に納めて、思い巡らす」ための沈黙です。

マリヤの身に起こったすべてのことは、本当に思いがけない出来事だったはずです。これまで思い描いていた理想の生き方とは、かけ離れたものだったと思います。けれどもマリヤは、そうしたことをすべて心に納めて、つなぎ合わせていくのです。
 イエスを主と信じる信仰生活は、こういうものだと思います。私たちの身にも実に様々なことが起こります。その状況の中で心に納め、思い巡らすのです。そして、そこで見えてくるのは、神の恵みです。神の愛に捕えられている自分に気づくのです。「主はあなたを守って、すべての災を免れさせ、またあなたの命を守られる。主は今からとこしえに至るまで、あなたの出ると入るとを守られる」(詩編121:7、8 口語訳)という主の恵みを覚えつつ、この時を過ごさせていただきましょう。

2017 1月1日
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み言葉と祈りの信仰
「わたしの言葉は決して滅びない。」  「いつも目を覚まして祈りなさい。」                                     ルカ21:33、36

 イエス・キリストが再び来られる再臨を待ち望む私たちが、平安のうちに備えるために、イエスは2つのことを言われます。「わたしの言葉は決して滅びない。」と「いつも目を覚まして祈りなさい」です。
 「わたしの言葉」とは、イエスの言葉、聖書の言葉ですから、「聖書の言葉は決して滅びない」ということになります。そして、この「滅びない」も戦乱などによって聖書という書物が焼かれても、信仰者の心に残るから滅びないという程度での滅びないのではなく、聖書は「神の言葉」であるから、滅びないのです。
 ですから、私たちが聖書を読む時、それは、生ける神に相見える時といえます。私たちが、そうした心でみ言葉に向き合う時、全能の神からの約束の故に、確かな平安を得ることができ、また、信仰による新しい一歩を踏み出せる生き方ができる者に、整えられていくのです。
 また、祈ることを勧めるイエスですが、私たちを祈りから遠ざけるいくつかのことにも注意するように告げます。放縦や深酒、生活の煩いです。これらのことが心を鈍くさせ、私たちを祈らなくさせるのですが、深酒は泥酔(口語訳)とも訳されていますが、このことは、何も酒に酔うことだけに限りません。罪に酔うこともあるかも知れません。罪に酔うとは、罪に鈍くなることです。罪に鈍くなるとは、聖書を神の言葉として受け止めないことなどもあるでしょう。
 だからこそ、私たちは祈るのです。神の言葉の確かさに根差して、「人の子の前に立つことができるように」祈るのです。この一年を通じて、み言葉を、また祈りを身近なものとしていきたいと願っています。

2017 1月8日
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イエスの準備、人々の準備
「ユダは承諾して、群衆のいないときにイエスを引き渡そうと、良い機会をねらっていた。」 「二人が行ってみると、イエスが言われたとおりだったので、過越の食事を準備した。」
               ルカ22:6、13
 ここで、イエスが予告してきた受難がより切迫してきます。イエスを殺す計略が、イスカリオテのユダと祭司長たちとの間で明確に進められていくのです。「彼らは喜び」(5節)と非常に嫌な響きがする言葉ですが、こうした準備ができた彼らは勝利を確信します。
 人々のイエス殺害準備が進められている時、イエスも準備をします。過越しの食事の準備です。過越しの食事は、かつてイスラエルの民が、エジプトでの暮らしを強いられていた時、神の命令に従い、小羊を屠り、その血を家の門柱と鴨居に塗っておくなら、災いが過ぎ越されたこと(出エ12章〜)から、神の御手による救いを記念する食事です。
 これまでも、イエス一行は、過越しの食事を共にしていたと思いますが、今回に限っては誰にも邪魔されず、遂行せねばなりませんでした。というのも、これから後、歴代のキリスト者が綿々と受け継いでいくことになる聖餐の制定を、この時にされるからです。そのため直前まで弟子の誰にも教えず、また、依頼する時も弟子の二人だけに頼むのです。
 この両者が進めている準備の行きつく先を思うと、イエスの死ということでは、同じ方向に進んでいます。そして、イエスが十字架に架かり死ぬことは、人々が画策したことが完成し、彼らを喜ばせる時といえますが、イエス自身が考え、また私たちが知るイエスの十字架の意味は、まったく違います。
 それは、赦しの十字架です。私たちの罪を赦し、さらには、イエスを十字架につけようとする者の罪を赦す十字架です。これこそが、イエス・キリストの救いの恵みです。救いの完成のために弟子を用い、イエスを陥れようとする者をも用いようとするイエスを、私たちは信頼し、私たちを通しても救いのみ業が進められていくことを信じる者とさせていただきましょう。

2017
1月22日
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聖餐の恵み
「これは、あなたがたのために与えられるわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい。」                        ルカ22:19

イエスが弟子たちと共に過ごしたいと切に願い、準備された過越しの食事が始まります。この時、イエスは、これから後、歴代の使徒(キリスト者)たちが受け継ぎ、執り行っていく聖餐を制定されます。そして、これが私たちとの新しい契約だといわれるのです。これまで神はイスラエルの民との間で幾度も契約を交わしてきました(ノア、アブラハム、モーセなど)が、そうした数ある契約をはるかに上回る新しい契約だと、イエスはいいます。

イエスは、これから進んでいく自身の十字架を契約という言葉を用いて、十字架の意義、また、十字架にこそ罪からの救いがあることを話しますが、それはただ伝えるだけなのではなく、自らが十字架に向かわれる固い決意のあらわれでもあります。
 だからこそ、イエスの十字架に救いを見出し、十字架を信じる者とされたクリスチャンがあずかれるのが聖餐であり、「記念として」とのイエスの言葉のように、聖餐の恵みにあずかるごとに、十字架で流されたイエスの血に救いがあることを思い起こすのです。
 そして、さらに言いますなら、聖餐はこうした「かつて」なされたイエスのみ業を覚えるだけではなく、「今」救いにあずかっていることを感謝する時です。

また、「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」とのイエスの言葉には、すべての人が神の国の食卓に着くことを願うからこその言葉ですし、クリスチャンにとっては「これから」神の国の食卓に着ける喜びを思うのが聖餐にあずかる時なのです。
 それ故、私たちは主の聖餐を聖なる時と明確に位置づけなければなりませんし、なお一層大きな喜びと感動をもって、この時を迎える者とさせていただきましょう。

2017 1月29日
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主を賛美しよう
 「詩編と賛歌と霊的な歌によって語り合い、主に向かって心からほめ歌いなさい。」     
                       エフェソ5:19 
 聖書にみられる賛美のささげられ方は、出エジプトを果たした時のイスラエルの民、ミリアムをはじめとする女性たちが、タンバリンを叩きながら、踊り歌うことがあったり(出エ15:20)、イエス・キリスト降誕の場面で多く見られたりするのですが(マリヤ、ザカリヤ、み使いの賛歌)、神がなさる大いなる御業を目撃した時に、生まれてくる感激と喜びを、み言葉を源にして歌われるのも賛美です。また、賛美のささげられ方は、メロディーに合わせて歌われるばかりではなく、礼拝などで詩篇のみ言葉が読まれること(交読など)、それ自体も賛美といえます。

 神がなされた恵みの数々を覚える時に生み出されてきて、さまざまなささげられ方がある賛美ですが、私たちのささげられる賛美(その対象)は、ただ神だけに向けられているのですから、細かいことですが、賛美は「する」ものではなく、心から尊敬する相手に、自分の持てるすべてを惜しみ無く投げ出すという意味がある「ささげる」という言葉をもって賛美はなされるべきです。

こうした心で賛美がささげられるのなら、神はその賛美を喜んで受け入れてくださいます。それは私たちに「・・・主イエス・キリストの名により・・・」というみ言葉が与えられているからです。イエス・キリストが、神と私たちの間を取り持つ、仲保者として立たれているので、私たちは神の御名をほめたたえる賛美をささげられるのです。
 神は、私たちの口に賛美を授けてくださいました(詩40:4)。私たちは、その口を神に喜んでいただける使い方をしたいものですし、イエスの十字架によって救われたクリスチャンのなすべきことではないでしょうか。

2017 2月5日
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主イエスに祈られて

「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」 ルカ22:32

イエスが準備し、始められた最後の晩餐の席で、弟子たちは誰が一番偉いのかと議論を始めます。この議論はこれまでも彼らの中で繰り返されてきました。何度も繰り返されるということは、いくら話しても答えが出てこない議論ということです。なぜ答えが出てこないのかというと誰もが引かないからです。誰もが一番偉いと思っているからです。
 そこでイエスは、自身が食卓の準備をする姿を見せて、仕える者の生き方が真実な偉さなのだと教えられるのです。
 弟子たちがこうした議論をしている時、ペテロも議論の中にいましたが、それでも彼は少し高いところから、この議論を眺めていたと思います。というのも、これまでのペテロは弟子たちが発言する時、いつもペテロが代表となって発言していたからです。また弟子の中でもペテロを含めた3人だけが特別に目撃できたイエスの御業もあるからです。

イエスは、そのペテロに「信仰がなくならないように祈る」のです。この言葉に反発するようにして、ペテロは「自分には死ぬ覚悟すらあります」と答えます。またイエスは、「鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言う」とも告げられます。イエスの言葉とペテロの言葉、この後、どちらが実現していくのかというと、イエスの言葉です。
 聖書が教える、その後のペテロはどうなったのかというと、信仰をなくしたままではなく、イエスが言われたとおり、「立ち直り、兄弟たちを力づける」者として用いられる器となりました。それは、イエスに祈られていたからです。ペテロ自身の頑張りで、信仰を取り戻し、立ち直ったのではなく、イエスの祈りがあったからです。
 このイエスの祈りは、今私たちのためにもささげられています。イエスの祈りに支えられて、これからも信仰の歩みを続けさせていただきましょう。

2017
2月12日
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「これまで」と「これから」
  「そこで彼らが、『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』と言うと、イエ スは、『それでよい』と言われた。」  ルカ22:38

各地でさまざまな奇跡をしたり、権威ある教えをしたりしてきたイエスは、人々に大いに注目される存在となりました。弟子たちも、イエスに言われるままに何も持たずに出掛けていった時には、何も不足したものがなかったと答えるほどの祝福でした。

イエスも弟子たちも、これまでは順風でしたが、これからは逆風が吹いてきます。イエスは自らの決意からでもありましたが、律法学者等の謀略によって犯罪人のひとりに数えられる道(十字架)を進んでいきますし、そうした道を進むイエスに落胆する弟子たちは、イエスが言われたように、生活するのに必要な財布や袋、身を守るための剣を手にすることになります。弟子となる前に就いていた仕事、漁師を再開するのです。

イエスが十字架に架かることで、彼らの前からいなくなってしまうのですから、心細く、不安で仕方なかったのでしょう。これまでイエスに絶大な信頼を寄せていた弟子たちでしたが、これからはイエスを頼れなくなり、財布や袋、剣を頼るようになっていくのです。

そうした彼らのこれからを予告されるイエスは、「それでよい」とも言います。イエスのこの言葉、良くも悪くも受け取れますが、この言葉にはイエスの弟子たちをあわれむ気持ちが込められていると思います。

そして、弟子たちもまた、これらのものをもう一度手にした時、初めてこれらの頼りなさに気が付くのです。私たちも弟子たちのような歩みをしてしまうことがあります。その時、「それでよい」と言われるイエスの言葉には、どんな気持ちが込められているでしょうか。イエスという真実に頼るべき方を見失うことなく、歩ませていただきたいと願います。

2017 2月19日
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起きて祈っていなさい
「なぜ眠っているのか。誘惑に陥らぬよう、起きて祈っていなさい。」
                                        ルカ22:46
 ゲッセマネの園にて、イエスは「この杯を取りのけてください。」と祈ります。取りのけてくださいとは、「この杯」を受けるのを嫌がっているということです。弟子たちに語った誘惑ということでいうなら、この杯を受けたくないという誘惑にあっているといえます。
 「杯」とは、目前に迫っている十字架です。ですから、イエスは神の裁きとしての十字架を拒んでいるのです。

 なぜ、イエスは十字架を拒むのでしょうか。それは神に裁かれ、捨てられ、神から離れることの苦しみを痛感しているからです。また、「苦しみもだえ」という言葉には戦い抜くという意味もありますから、イエスにとってこの誘惑はどうでも良いものではなく、必ず勝たねばならない誘惑だと承知していたので、苦しみもだえるのです。
 イエスは弟子たちに「誘惑に陥らないように」と告げます。誘惑に陥らないためには、眠らず、起きて祈ることが大切です。「眠る」とは疲れるために眠るのでしょう。また眠ってしまえば感覚は鈍くなります。誘惑に対しても繰り返し襲ってくる誘惑に疲れてしまい、感覚も鈍くなることもあるでしょう。そうならないために、眠らずにと告げるのです。また「起きて」とは立ち上がることです。地に足をしっかりと着けて、前を向き、胸を張る。誘惑に毅然とした心で立ち向かう、そうした心が祈る時に求められていることですし、イエスはまさに、ここでその祈りを実践しているのです。
 私たちもイエスと同じ心をもって、祈りがささげられていくのなら、その祈りの先には必ず、神の御業、祝福が備えられていることに気付かされます。そして、私たちが祝福されることは、教会の祝福にもつながってきます。祈りを通して、神の栄光を見させていただく教会でありたいと願います。

2017 2月26日
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「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」  ルカ22:53
「死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。」  
                                   ヘブル2:14、15

 イエスを捕えるために、ユダを先頭に祭司長たちがやってきました。彼らを見たイエスは「今はあなたがたの時で、闇が力をふるっている」と言い、彼らが闇の力に支配されていることを告げます。
 ユダはイエスに接吻をもって近づきました。これは暗闇の中、間違うことなくイエスを捕縛するため、ユダと祭司長たちとの間で取決めされていたことですが、こうしたユダに対し、イエスは「あなた接吻で人の子を裏切るのか」と言います。接吻は親しい者の間でなされる友愛の行為です。そうした愛をもってユダはイエスを裏切るのです。これこそ、ユダが闇に支配されていることの証しです。
 また、イエスを捕えに来た人々は、祭司長だけでなく、律法学者、パリサイ人、サドカイ人といった様々な人もいました。イエスが現われる前の彼らは、立場や意見の違いから衝突を繰り返してきた人々です。その彼らがイエスを捕える時には、一致するのです。イエスのいることで、自分の立場や名誉が脅かされるからです。イエスを恐れ、脅威に感じた彼らは武器を手にし、群衆でやって来るのです。これも闇の支配といえます。
 またイエスの弟子たちにも闇の支配を見ることができます。それは彼らも武器を手にしているからです。弟子たちはやってきた群衆に何をされるのか分からないという恐れから剣を振り回します。これもまた、闇の力に捕われているといえます。
 イエスの周囲にいる誰もが闇の力に支配される時、イエスはその闇の中に入っていかれます。上記のヘブル書のみ言葉に見られるように、ご自分の死によって闇を滅ぼされました。このイエスへの確信に裏付けされた信仰をもって、歩ませていただきましょう。

3月5日
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イエスの眼差し
主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。                                        ルカ22:61

ペテロは、上記のイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました(62節)。なぜ、彼が涙を流すのかというと、最後の晩餐の時、「牢に入っても、死んでも良いと覚悟しています」(33節)と豪語していたのに、実際にはイエスが告げられたことだけが実現したからです。また、イエスの自分を見つめる眼差しもありましたから、ペテロには、恥ずかしさや情けなさ、くやしさや悔恨、さまざまな思いが入り混じって、泣くのです。

また、ペテロのことで思うのは、イエスのペテロを見つめる眼差しを、彼がどう受け止めたのかです。イエスの眼差しは、「ああ主の瞳」(新聖歌221)にあるように、確かにペテロを赦す眼差しでしたが、彼自身はすぐに、そう受け止められなかったでしょう。
 たとえば、子どもがいたずらをして親に見つかった時、子どもにとっての親の目は怖いものです。「怒られるだろうな」と思うものです。親にそうした気持ちはなかったとしても、子どもから見る、親の目はそう映るでしょう。そして、親の眼差しの本当の意味が理解できるようになるのは、自分が親の立場になってからともいえます。
 ペテロが、イエスの眼差しの意味を本当に理解できるようになったのも、きっと同じです。ペテロが、イエスの十字架とよみがえりにこそ、唯一の救いと寄る辺があることを見出した時に初めて、イエスの眼差しに赦しがあることを気付いたのでしょう。また、イエスは「振り向いて」ペテロを見つめますが、振り向くというのは、気になるから振り向くでしょう。振り向いた先にいる人のことを大切に思い、愛しているから振り向くのです。

イエスの眼差しは、私たちにも注がれています。時に、その眼差しが怖く見えることもありますが、このことも罪を自覚するために必要であり、その先に、赦しを与える愛の眼差しを見出すなら、尚、はっきりとイエスに救いがあることを知るのではないでしょうか。

3月12日
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主の語りかけを聴く者
「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」 
                         ローマ10:17

イエスの裁判が始まります。この裁判は有罪か無罪かをきめるような裁判ではなく、イエスを陥れるための悪意ある裁判です。こうした裁判ですから、長老、祭司長、律法学者たちは、答えるイエスの言葉を聞くはずもなく、その言葉尻をとらえるような聞き方をするのです。
 審問する彼らが、イエスの口から聞き出したかったことは、「わたしがそうだとは、あなたたちが言っている。」(70節)という言葉でした。この時代、自分が神と同じ権威があり、神と同等の存在だと言うことは、十戒によって厳しく禁じられ、神を冒とくすることになります。そして、こうしたことをする人は死罪に価することになっていました。
 このように不当に進められていくイエスの裁判を思うと、イエスを尋問する彼らは、イエスの言葉を聞いてはいるのですが、イエスを信じていないために、自分に都合の良いことしか聞いていないといえますし、この裁きがイエスを十字架刑へと進ませていくことになるのです。

私たちも、イエスに対し、イエスを裁く人々と同じような態度をとることがあります。それは、神の言葉である聖書を読む時にです。み言葉に対してのこうした態度は、結局は、ここでイエスを裁いている人々と同じように、イエスを裁き(み言葉を信頼できないために)、ついにはイエスを十字架に向かわせることにもなってくるのではないでしょうか。
 私たちがみ言葉に真摯に向き合うためには、み言葉を繰り返し味わう必要があります。どのみ言葉も私たちを生かすみ言葉として聞き、信頼するのです。そこから私たちの信仰は始まります。

3月19日
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お答えにならないイエス
「それで、いろいろと尋問したが、イエスは何もお答えにならなかった。」                                            ルカ23:9 イエスを不当に裁く裁判は続きます。イエスの身柄はピラトに移されていきます。ピラトはイエスに何の罪も見出しませんでしたが、保身のために、自分で判断することを避け、ヘロデに任せようとします。ヘロデもイエスのことが気になっていたので、イエスに会うことは、彼を非常に喜ばせました。けれども実際に会ってみると、ヘロデはイエスに失望しました。いろいろと尋ねてもイエスは何も答えないからです。

 こうして進められていくイエスの裁判ですが、この裁判で自身の生死が決められようとしているのにもかかわらず、イエスはほとんど喋らずに沈黙しています。確かにこの裁判での判決によって、イエスが十字架に向かってくださらなければ、私たちの罪の贖いは成し遂げられません。けれども、なぜ、イエスはこんなに悪意に満ちた裁判の中、沈黙を貫かれているのかと思います。
 イエスが沈黙されるのは、そこにいる誰もがイエスの話を聞こうと耳を傾けている時ではありません。誰もが自分の主張を通そうとしている時に、イエスは沈黙するのです。考えてみますと、こうした状況では、イエスが何を語ろうとも、彼らの耳には入ってこないのではないでしょうか。

そこで、私たちが覚え、また見習いたいのが、ここでのイエスです。イエスは沈黙されます。沈黙の中、イエスが何をされていたのかというと、神の前に静まっていたのかと思います。神の言葉(聖書)を聞きもらさないために、一方的にこちらが喋るのではなく、またこちらの願いを通そうとするのでもなく静まる。神の言葉を聞く、ただそのことだけに心を傾け、黙する。クリスチャンが神に目を向ける時に、大切なあり方ではないでしょうか。

2017 3月26日
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イエスの居られないところ
 そこで、ピラトは彼らの要求をいれる決定を下した。そして、暴動と殺人のかどで投獄されていたバラバを要求どおりに釈放し、イエスの方は彼らに引き渡して、好きなようにさせた。                   ルカ23:24

イエスの裁判が終わる時です。この裁判で、イエスの十字架刑が決まるのです。ピラトは何度もイエスに罪がないことを民衆に告げますが(14、15、20、22節)、民衆はそれを聞き入れず、「イエスを十字架につけろ」と叫び続けます(18、20、23節)。ユダヤの民に弱みを握られていたとはいえ、自分の考えを曲げてまで、民衆の声に従ってしまうピラト、祭司長といった指導者たちにそそのかされたとはいえ(マルコ15:11)、「イエスを殺せ」と叫ぶ民衆。

今、イエスを取り囲んでいる人たち、特に民衆のことを思うと、彼らはイエスがエルサレムに入城される時、イエスをほめたたえた人たちです。中には、イエスによって癒された人、イエスが語られた言葉に感銘を受けて、イエスに従う者とされた人もいたかも知れません。そのようにして、イエスをほめたたえていた口が、ここではイエスを罵る口に変わっていくのです。
 これを思うと、なんと愚かで、悲しく、情けない人たちなのかと思うのですが、なぜ、こうしたことが起こってくるのかというと、彼らの内にイエスが居られないからではないでしょうか。人々はそこに立つイエスを、目で見てはいましたが、イエスに真実な救いがあるのを見出せず、イエスから離れているのです。 イエスから、またみ言葉から離れる時、見えてくるのは罪の現実だけです。
 こうした罪深さをみ言葉から知る私たちだからこそ、私たちは、罪から遠ざかるために、イエス(み言葉)から離れずに、イエスと共に歩む者とさせていただきましょう

4月2日
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 イエスの十字架を背負って
 人々はイエスを引いて行く途中、田舎から出て来たシモンというキレネ人を捕まえて、十字架を背負わせ、イエスの後ろから運ばせた。   ルカ23:26

ゴルゴダの丘まで、イエスは十字架を背負っていかれます。途中、体力の限界を超えたイエスの代わりに、キレネ人シモンにイエスの十字架を背負わせます。
 この時、シモンはイエスが救い主であることは知らなかったと思いますが、十字架そのものの意味は知っていたでしょうから、十字架を背負う自分を思うと、無様で、情けない思いになったろうと思います。けれども、その後のシモン、また家族の様子を聖書に見ると、イエスを信じる教会の群れに加わっているのです(ローマ16:13)。シモンにとって思いがけない災いが、救いの時となったのです。 
 また、ヴィア・ドロローサ(悲しみの道の意)を歩くイエスを嘆き悲しむ女性たちには「泣きなさい」と言うイエスです。
 泣いている者に泣きなさいと言うのもおかしな感じがしますが、それは、泣く目的が違うことを教えるものであり、「自分のために泣くように」とイエスは言います。なぜ、自分のために泣く必要があるのかというと、今イエスが背負っている十字架は「私」の罪を贖うためだからです。イエスに「悲しみの道」を歩かせてしまった「私」を悲しむために泣くのです。「私」の罪をイエスに背負わせてしまったことを悔いる、悔い改めの涙を流すのです。
 イエスはここで、自分が背負う十字架の苦しみを共に担ってほしいとは言いません。ただ、イエスが背負う十字架の真実な意味を知ってほしいのです。
 「私」を罪から救うためのイエスの十字架、このことに私たちがはっきりと気付かされる時、私たちは真実にイエスのもとに立ち返り、イエスのもとにひざまずき、イエスを仰ぐ者とされていきます。

4月9日
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他人を救うイエス
 そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」                                  ルカ23:34

 イエスが十字架に架かられるみ言葉です。福音書全体から見ても、かなりの分量を用いて書かれているのが、イエスの十字架の場面ですが、起こってくる出来事が淡々と述べられているように思います。この刑による肉体的な痛みは、私たちの想像を絶する痛みであるはずですが、それにはほとんど触れられずに十字架刑は進められていきます。
 それは、イエスが人々に罵られ、あざけられて十字架につけられたことと、「彼らをお赦しください。」と祈られたイエスに、福音書読者が集中してもらいたいからです。
 イエスは確かに十字架にはりつけにされました。十字架刑は犯罪者の中でも特に重い罪を犯した者に処せられる極刑です。この刑が処せられる者は、人々から見捨てられた者とみなされるだけではなく、神にも見捨てられることを意味します。その十字架にイエスは架かられたのです。

また、イエスはその十字架の上で上記のみ言葉を言われます。これは、まさにイエスを十字架につけ、イエスを罵る人々の赦しを神に求める祈りですが、この祈りは時代を超えて、すべての人の赦しをイエスは祈っているのです。
 クリスチャンとされている私たちは、時に、このイエスの言葉に倣おうとします。エフェソ4:32などのみ言葉が教えるように、振る舞おうとします。けれども、私たちがまず、第一に覚えておかなければならないことは、このイエスの祈りに支えられている者であるとの自覚です。「他人を救った」と議員たちは言いますが、この「他人」に含まれていない人は誰もいません。「彼らをお赦しください」と祈るイエスを仰ぎ見つつ、歩ませていただきましょう。

4月23日
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共にパラダイスに
はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる。                                          ルカ23:43

自身も死の間際という切迫した時に、イエスは同じ十字架にかかる犯罪人のひとりに「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との平安の約束を届けられます。およそ救いから一番遠い存在ともいえる者を祝福する。イエスの1人でも多くの人を救おうとする情熱と深いあわれみを感じます。
 はじめは犯罪人の二人とも、他の人と同様にイエスを罵るのですが、1人はイエスには罪がないこと、神の権威があること、救い主であることに気付き、告白します。また自分には罪があり、罪の裁きとしての十字架を受け入れています(40、41節)。

そうした彼に、イエスが話されたのが上記の約束なのです。この言葉のうち、私たちがどこに重きを置いて受け取るのかは大切です。「今日」や「楽園」も大切ですが、何よりも大切なのは「あなたは・・・わたしと一緒に・・・いる」という約束です。
 「楽園」はエデンの園にも用いられていますが、園で暮らしていたアダムとエバにとって祝福だったのは、好きなものを好きなだけ食べられる環境ではなく、神が共にいることが何よりもの祝福だったはずです。

十字架の苦しみの中にあった犯罪人ですが、同時に彼はイエスと共にいるという楽園(パラダイス)にいたのです。命の泉の源であるイエスというオアシス(楽園の意)に憩っていました。
 十字架とよみがえりのイエスが「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」と、今も私たちに「はっきり」と約束しておられます。このあわれみと恵みの言葉を覚えつつ、イエスと共に歩む者とさせていただきましょう。

4月30日
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イエスの死と葬り
 イエスは大声で叫ばれた。「父よ、わたしの霊を御手にゆだねます。」こう言って息を引き取られた。・・・遺体を十字架から降ろして亜麻布で包み、まだだれも葬られたことのない、岩に掘った墓の中に納めた。   ルカ23:46、53 
 ユダヤ議会の議員(マリマタヤのヨセフ)、ローマ軍の士官(百人隊長)、女性たちや群衆といった多くの証人が見届ける中、イエスは十字架の上で息を引き取られました。イエスが死なれた時、神殿の垂れ幕が裂けましたが、これは、聖所が聖所でなくなり、誰もが神のもとに自由に行き来できるようになったことを示すものです。

 これまでは、神との交わりを持つために様々なささげものがなされていましたが、神殿よりも偉大な者(マタイ12:6)であるイエスが十字架で死なれることで、より豊かな神との交わりが始まるのです。人の罪によって隔てられていた神との交わりが、イエスの死によって垂れ幕が取り払われ、その道が開かれたのです。

イエスの死を目撃した人たちの心は、変わっていきます。兵士たちと同様にイエスを侮辱していたであろう百人隊長は「この人は正しい人だった」と証言し、イエスの正しさ、きよさを認める心に変わり、群衆はイエスを罵ったことを悔い改め、胸を打ちつつ、その場を後にします。また、議会の決定に反対しながらも、行動に移せなかったヨセフも真実に行動できる者へと変えられ、イエスを墓に納めました。 
 このようにして、一粒の麦として十字架で死なれたイエスの栄えある御業は、人々の思いを変え、多くの実を結ぶようになるのです(ヨハネ12:23、24)。
 聖書を通して、私たちもイエスの十字架を目撃するなら、主に喜ばれ、用いられる器に必ず変えられていきます。百人隊長やヨセフのように。

5月7日
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イエスの復活を知らされた女性たち
 まだガリラヤにおられたころ、お話しになったことを思い出しなさい。人の子は必ず、罪人の手に渡され、十字架につけられ、三日目に復活することになっている、と言われたではないか。」そこで、婦人たちはイエスの言葉を思い出した。ルカ24:6〜8

十字架につけられ、墓に葬られたイエスは3日目によみがえられました。この知らせが最初に届けられたのは女性たちでした。四福音書どれもに記されている、この出来事ですが、共通している事柄の1つは、このことです。イエスのよみがえりの第一発見者は女性でした。
 女性の人権や立場、発言などの一切が無視されてきた時代にあって、これほど大胆にイエスのよみがえりを証言する女性たちがいること、また、その証言の信憑性を持たせるために、権力や権威のある者に挿げ替えられることなく、後世に語り伝えられてきた事実が、イエスのよみがえりをより確かなものとさせているといえます。
 このようにして、キリスト教の要の1つ、イエスのよみがえりを世界に伝え、広めていくために、神はまず、女性を用いられるのです。神のこのなさり方は、イエスの降誕からそうでした。イエスの誕生の知らせが、はじめに届けられたのは、身分の低い羊飼いでしたし、イエスの弟子として迎え入れられたのは、罪人と同じように扱われていた徴税人のマタイでした。

 上述のように、私たちも自分に対し、また他者に対し、こうした立場の者がイエスの役に立つはずがないと、決めつけてしまっているところは少なからずあります。その私たちの決めつけてしまう心を覆す物語が、ここに記されているのです。
 イエスのよみがえりも、私たちの常識を超えたものですが、その証人としてはじめに女性を用いられたことも驚くべきことです。神はどんな立場の人も、神の御業がなされるために用いようとされます。私たちも、自分に対し決めつけてしまう心から自由にされ、神の御業に加わる者とならせていただきましょう。

5月14日
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わたしの羊を飼いなさい
「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していることを、あなたはよく知っておられます。」イエスは言われた。「わたしの羊を飼いなさい。」                                     ヨハネ21:17

 よみがえられたイエスとペテロが対話するみ言葉です。このみ言葉の前に、ペテロは漁に出ていますが、ここは、かつて彼がイエスの弟子として召し出される場面を思い出させます。どちらの場面でも、ペテロは一晩中漁をしていましたが、一匹の魚も獲れぬまま朝を迎えます。そこにイエスがやって来て、イエスの言われるままに網を降ろすなら、舟に載せきれないほどの大漁を得て、驚いているペテロに、イエスは「わたしに従いなさい」との言葉をかけられます(ルカ5:1〜11、ヨハネ21:1〜6、19)。
 またイエスは3度、「ヨハネの子シモン、私を愛しているか」とペテロに尋ねたことも、イエスが十字架への裁判を受けている時、ペテロが3度「イエスを知らない」と否んだことをも思い出させますし、ペテロもそうした自分を思い出し、悲しみます(17節)。イエスに対しての自分の至らなさを、ペテロは自覚していたため、「私はあなたを愛しています」と胸を張って言うことができず、悲しみつつ「わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」という言葉しか出てこないのです。
 自分のしてしまったことの故に、見捨てられても仕方がない者だという思いの中、それでも、「私の心はあなたがご存知です」という言葉をもって、イエスに一切を委ねる心が、ペテロにはあると思います。
 そのペテロに、イエスは「わたしの羊を飼いなさい」と話し掛けるのです。イエスを愛すること、すなわち、それが私の羊を養うことだとイエスは言うのです。
 私たちはイエスを愛しています。イエスとのつながりを何にも代えがたいものだと大切にしています。そのイエスを愛する心は、何もイエスだけに向けられるものではなく、「イエスの羊」といわれる私たちの隣り人にも向けられるべきです。そうした歩みをしていくことが、クリスチャンの何よりもの歩み方です。

5月21日
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共に歩むイエス
「話し合い論じ合っていると、イエス御自身が近づいて来て、一緒に歩き始められた。」                                ルカ24:15

 
 2人の弟子がエマオへの道中、イエスに出会う物語です。大変美しい物語として、多くの人に愛されていますが、ここでなされているやり取りを見ると、思った以上に激しいやり取りが交わされています。弟子たちの間では、言い争っていますし、イエスに対しても「あなただけが」と言って(18節)、小馬鹿にしたような口調です。またイエスも、「物分かりの悪い」との厳しい言葉(25節)で話し始められます。
 彼らはイエスがよみがえられたことを口にしながらも、今話している相手がイエスだと気付きません。彼らの目が遮られていたからです。なぜ、彼らの目は遮られたのでしょうか。それは暗く悲しい顔をしていたからです。愛し、尊敬してやまないイエスが十字架で殺されてしまい悲しくなったのです。また彼らのイエスへの期待が外れたからです。彼らがイエスについて話す言葉は、どれもが過去形です(19、21節)。ということは、イエスが死んでしまわれた今は、そう思っておらず、イエスに失望するのです。そのため、彼らの目は遮られるのです。
 そうした彼らに、イエスは聖書を、またご自分のことを話されるのです。聖書では短いひと言ですが、実際はそうではありません。エルサレムからエマオという(約11q)の間、聖書の専門家からではなく、よみがえりのイエスご自身から、遠く離れたところからではなく、手を伸ばせば触れることができるほどの近さから、彼らの目が開かれるのを願って話されるのです。
 死んでしまわれたイエスに、文句の1つも言いたい彼らに近づくイエスです。悲しみ落ち込んでいる彼らと共に、イエスは歩まれるのです。この後彼らの目は開かれます。心が燃やされてきます。彼らの熱意ややる気が目を開かせたのではなく、イエスが共に歩まれたからこそ、目が開かれていくのです。

 み言葉にあらわされているイエスのこの真実が、私たちにとっても慰めとなり、励ましとなり、救いとなります。共に歩まれるイエスに揺るぎない期待をいたしましょう。

6月11日
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平和があるように
 こういうことを話していると、イエスご自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。                                   ルカ24:36
 これまで、よみがえられたイエスは、エマオ途上の弟子やペテロ、女性たちといった個人にご自身をあらわしてきましたが、ここでは、イエスの弟子という群れ(共同体)にあらわれます。

 イエスを信じる者たちの共同体、教会です。この時には、まだ、キリスト教会は、明確には築かれていませんが、その前身としての教会は始まりつつある時です。そこに、イエスがよみがえられたことを示されたのは、大変意義深いことといえます。それは、この後、歴代の教会(礼拝)で脈々と語り継がれてきたことの1つが、イエスのよみがえりだからです。
 信仰が揺るぎないものとなるために、ヤボクの渡しでの出来事(創世記32:23〜33)のような神と一対一で向き合う大切さが言われることがあります。こうしたことは確かに必要ですし、ぜひ実践していただいたいのですが、これと同程度に大切なことは、イエスを信じる者の共同体(教会、礼拝)に集うことです。礼拝に集うことで、個々の信仰が尚、整えられ、正しくあり続けることができます。
 また、イエスが魚を食されている場面には、イエスが確かによみがえられたことを示しますが、同時に弟子たちの日常にイエスがあらわれたことを示すものでもあります。弟子たち(私たち)の日常とは、さまざまなことが起こってくる日常です。うれしく、楽しい日常もあり、不安で押し潰されそうになったり、悲しみに打ちひしがれたりする日常です。
  その日常にイエスがあらわれ、「平和があるように」と告げられるのです。このイエスの言葉には、「あなたがたに平和を届けることができる」という確固たる自信があります。私たちが信じるイエスは、日曜日だけのイエスではなく、私たちの日常にもいてくださるお方です。平和を届けられるイエスへの信仰を、これからも持ち続ける私たちとさせていただきましょう。

6月25日
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新しい時代の夜明け
 メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる。                                     ルカ24:46、47

 よみがえられたイエスは、弟子たちが集まっている所にあらわれました。エマオから2人の弟子が戻ってきてからのことですから、日が暮れ、静かな夜を迎えようとしている時です。
 けれども、弟子たちの心は穏やかではありません。自分たちもイエスと同じように捕縛されてしまうのではという恐れの中、夜を迎えていました。
そうした彼らのもとに、 「平和があるように」との言葉と共に、イエスはあらわれたのです。真の光であるイエスがおられる時(ヨハネ1:9)、夜は必ず明けてきますし、恐れは取り払われます。
 
 また、イエスによってもたらされる夜明けは、弟子たちがこれまで考えもしなかった新しい時代の幕開けでもありました。

 それは、福音が「あらゆる国の人々に宣べ伝えられる」(47節)ことです。イエスによって、弟子たちの心の目は開かれ、イエスが歩まれた十字架と復活に救いがあることを見出しました。そして、これこそが福音(喜びの知らせ)だと、彼らは受け入れるのですが、その救いに与かれるのは、自分たちだけだと考えていました。けれどもイエスは、「あらゆる国の人々に宣ベ伝えられる」と言われます。
 私たちも心の目を開かせていただき、聖書に記されているイエスにこそ救いがあることを確信させていただきましょう。そして、この福音があらゆる人たちに伝え広められていくことを願って、主がなさる救いのみ業に加わる者とさせていただきましょう。

2017 7月2日
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神をほめたたえる者
 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。             ルカ24:52、53

よみがえられたイエスが天に上げられる場面です。イエスは弟子たちを祝福し、弟子たちは神をほめたたえるという、愛の交わりが、ここにはあります。「祝福」と「ほめたたえる」は原文では同じ言葉が使用されているので、イエスが弟子をほめたたえ、弟子が神を祝福するとも訳せるのですが、この二つの言葉の語源は「良い」と「言葉」という二つの言葉が合わさってできているので、平たくいえば、イエスと弟子たちは互いに「良い言葉」を語り合っているのです。
 天地創造の時、神が「言葉」をもってすべてを造り、「良し」とされたように、今、弟子たちにも「良い言葉」が語られるのです。また、救い主誕生の知らせを聞いた羊飼いが喜んだように、弟子たちもイエスの御救いにあずかっている喜びに満たされて「良い言葉」を語ります。

弟子たちが神に賛美をささげているのは神殿です。神殿は、弟子たちだけがいた訳ではなく、他にも多くの人がいたはずです。まだイエスのことを知らず、神をほめたたえる喜びを、知らされていない人たちです。また、弟子たちの多くがガリラヤ出身ということで蔑まれることもあったかもしれませんが(ヨハネ1:46)、それでも弟子たちは、誰にはばかることなく、「絶えず」神殿で神をほめたたえるのです。
 こうした弟子たちの姿にイエスを証しする心を見つけます。彼らは神をほめたたえることで伝道するのです。私たちもイエスが授けられた救いに、かけがえのない喜びを見出し、真実に神をほめたたえる者とされていく時、そのことそのものが、キリストが伝えられていくことになるのではないでしょうか。

7月9日
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使徒ペテロの信仰
あなたがたは、父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、""によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。                 Tペテロ1:2

 
 ペテロは、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアといったエルサレムから離散し、仮住まいをしているクリスチャンに向けて、彼らがクリスチャンの歩みをこれからも続けられることを願って手紙を書きます。
 彼らは、神に引き抜かれた(選ぶの意)者です。イエスが十字架で流された血によって、罪赦され、救われた者です。また、聖霊によって聖なる者とされています。
 ペテロが彼らのことを思うと、こうした言葉をもって、クリスチャンとしてのアイデンティティを表現するのですが、実はこれらのことは、ペテロ本人も、イエスに従う歩みをしていく中で実際に経験したことでした。
 ペテロは、イエスに声が掛けられ、弟子として従っていく中で、時にイエスから離れ、弟子になる以前の生活に戻ることもありましたが、そのペテロにもイエスは再び近づかれ、キリストを宣ベ伝える使徒に任じました。そして、使徒の働きをしていく中で、さらに自身の信仰理解が深められていきます。父なる神があらかじめ立てられた計画に基づいて自分を選び、子なるイエス・キリストの血が神との関係を修復し、聖霊の助けによって聖なる者とされていくことに、ペテロは気付かされます。
 信仰の真理に目覚めたペテロは、同じ信仰をもつ彼らを励まし、力づけます。福音に生きる喜びを知ったペテロは、信仰をもつことで得られる恵みと平和を、彼らにも尚はっきりと経験してもらうことを願って、この手紙を書き始めるのです。
 このみ言葉は手紙の挨拶部分ですが、ここにもペテロに与えられた信仰が凝縮されています。私たちも、この手紙を読み進めていく中で、私たちに与えられている信仰の豊かさを、聖霊の助けによって、気付かせていただきましょう。

7月16日
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 生き生きとした信仰
 神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、また、あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。          Tペテロ1:3、4

生き生きとした希望と、そうではない希望について教えるみ言葉です。生き生きとした希望とはいえない希望とは「朽ちるほかない金」(7節)をはじめとする富です。富は生きていくのに必要で、価値のあるものです。
 けれども、これらのものは朽ちてしまい、使う人によっては汚れたものとなり、価値がなくなってしまうこともありましょう。また、希望を失わせる死を身近に感じますなら、富だけでは解決しようにもできないこともあるでしょう。
 けれども、み言葉は死を前にしても失われることのない希望が、イエスの復活にあることを教えます。クリスチャンとされる以前は、キリストと関わりなく、神を知らず、希望を持たずに(朽ちてしまうものに希望を置いて)生きていました(エフェソ2:12)が、クリスチャンとされ、新しく生まれてからは、イエスの復活に生ける希望を見出す者とされました。また、み言葉は、生き生きとした希望から離れさせようとする試練があることも教えますが、神の力によって守られていることも約束します。
 イエスの十字架の救いと復活の力は、世界の価値観を大きく変えました。その生き生きとした希望(福音)が受け継がれてきたのが、私たちの教会です。私たちに届けられている希望の価値をはっきりと確認すると共に、朽ちてしまう希望に価値を置いている方に、生き生きとした希望を、神の力によって、手渡していくことができる者となれたら幸いです。

7月23日
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見ないで信じる者
 あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。 
                                    Tペテロ1:8 
 ポントス、ガラテヤ、カパドキアといった地域に住む彼らの信仰は、イエスを見たことがないのに、イエスを愛していました。イエスに会ったことがないのに、言葉では言い尽くせない喜びにあふれていました。また、魂の救を得ていました。

 イエスに会って、その御業を見たたことがないのに、また、神や救いについて学者になれるほどに学んだわけでもないのに、どうして、これほどの喜びの信仰に生きることができたのでしょうか。
 それは神(聖霊)によって救いの確信をいただいていたからです。神や罪、救い、イエスの十字架の意味など、信仰の要となる事柄について学ぶことは、自分に与えられている信仰を整理するためには大切なことです。

けれども、こればかりでは見たことのないイエスを愛し、救いを得ている喜びに満ちた信仰を確実に自分のものとすることはできません。当時、最高の学問を修めたパウロも、彼の記した手紙に「それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3:5〜8)と告白します。
 言葉で言い尽くせない喜びとは、これまでの知識や経験を総動員しても表現できず、常識をはるかに超えた喜びということです。この手紙の受取人である彼らは、こうした喜びの信仰に生きていたのです。
 私たちも、彼らのように、真実に救いの喜びに生きる信仰を得るためには、イエスの懐に飛び込むという私たちの決意、決断が必要なのもさることながら、何よりも確信へと導かれる神に頼むより他ありません。私たちの信仰が、尚はっきりと喜びに満ち溢れた信仰とされていくために、自分の力を頼るのではなく、神の力を頼る者とさせていただきましょう。

7月30日
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福音の恵み
 天から遣わされた聖霊に導かれて福音をあなたがたに告げ知らせた人たちが、今、あなたがたに告げ知らせており、天使たちも見て確かめたいと願っているものなのです。                    Tペテロ1:12

福音の恵みについて語られるみ言葉です。旧約聖書の時代に生きた預言者たちを代表とする信仰者たちは、キリストの苦難と栄光が、誰に、何時、どんな時にあらわれるのか、長い年月をかけて、熱心に求め、調べ、また探し続けました。
 その熱い思いが頂点に達した時、真の救い主イエス・キリストがこの世に遣わされてくるのです。また、イエスによる救いの恵みは、天使たちも見て確かめたいと願っていることでした。
  「見て確かめたい」とは、天使たちにも知らされていなかったともいえますし、さらには、それほどまでに、不思議で、あり得ないことがイエスの苦難と栄光によってもたらされた救いなのです。

預言者たちが長年、求め続けた救い、天使たちもそんなことが、本当にあるのだろうかと不思議がるほどの救い、その救いが、今や私たちに告げ知らされているのです(12節)。
 クリスチャンとされて、しばらくの時が経つと、救われた喜び、福音の恵みにあずかることが、どれほどの奇跡であり、素晴らしい出来事なのか、その感動が薄れてきてしまうこともあるかも知れません。
 私たちに手渡されている福音の素晴しさに、救われた時以上の驚きと感謝をもって、救いの喜びに生きる者とさせていただきましょう。

8月6日
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だから、聖なる者となる
 召し出してくださった聖なる方に倣って、あなたがた自身も生活のすべての面で聖なる者となりなさい。                               Tペテロ1:15

 イエス・キリストの復活によって生き生きとした希望が与えられ(3節)、言葉では言い尽くせない喜びに満ちあふれ(8節)、救いにあずかっているクリスチャンに向けて、聖なる者となるようにと告げるみ言葉です。
 また、心を引き締め、身を慎み、待ち望み、欲望に引きずられることなくと、み言葉は続いていますが、どれもがクリスチャンに求められている生き方です。

けれども、自らを振り返ると、これらのみ言葉を真摯に受け止め、み言葉が教えるままに生きようとするものの、時に心を引き締めきれないこともありますし、身を慎むことを忘れてしまうこともあります。また、イエスがクリスマスに生まれ、現れてくださったという確かさに根差して、栄光の主が再び来られる時を待ち望んではいるのですが、「ひたすら」待ち望んでいるのかというと、そうでもないこともあり、神を知らなかった頃の欲望に引きずられてしまうこともあるのが、私たちです。
 自己評価をすれば、そう判断せざるを得ない私たちですが、そうした私たちを救い出し、召し出してくださったのは神です。召し出すとは救い出すことであり、さらには、救われた者として、神を礼拝するために、教会へと召し出されることでもあります。
 ですから、今、クリスチャンとされた私たちが、日曜ごとに教会で神をほめたたえていますなら、その人は聖なる者だといえます。それも自分で聖なる者と決めるのではなく、召し出してくださった神が、私たちを聖なる者だと宣言してくださいます。この恵みに押し出されて、私たちのささげる礼拝を、なお聖別してまいりたいと願います。

8月20日
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この方を畏れて
 
あなたがたは、人それぞれの行いに応じて公平に裁かれる方を、「父」と呼びかけているのですから、この地上に仮住まいする間、その方を畏れて生活すべきです。   Tペテロ1:17
 
 神は公平に裁かれる方です。その人が真実に神をおそれているかによって、分け隔てなく判断します。イスラエルの民は、代々受け継がれてきた選ばれた民としての誇りに安心しきって、神をおそれることを忘れていました。
 神をおそれることができるのは、神を信じ、義とされた者だけです。神を知らず、自分が義とされる必要すらないと考える人には、神をおそれる心すら生まれてこないでしょう。
 また、私たちは、神を父と呼ぶことができます。それは、きずや汚れのない小羊のようなイエス・キリストの尊い血によって、神を父と呼ぶことができるのです。
 イエスが私のために成し遂げられた贖いの十字架の御業に驚きと感謝と喜びを見出すなら、イエスをこの世に送られた父なる神をおそれずにはいられなくなるはずです。
 神をおそれるとは、神が怖くて、びくびくするような「恐れ」ではありません。真実に神をおそれるとは、この「畏れ」です。心から崇め敬う方として、崇敬の思いを持つ「畏れ」です。
  私たちは、常に神への畏れの心を持ちながら、神から離れてしまうのではなく、なお神に近づいて、義とされ神に受け入れられた者の歩みを全うさせていただきたいと願います。

8月27日
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 神の計画の確かさ
 あなたがたは、キリストを死者の中から復活させて栄光をお与えになった神を、キリストによって信じています。従って、あなたがたの信仰と希望とは神にかかっているのです。                                                          Tペテロ1:21

神は天地創造の前から救い主キリストをこの世に送ることを準備し、計画しておられました。この神のご計画は、私たちの常識をはるかに超えた救いの計画であり、私たちを何としてでも救おうとする、神の愛の眼差しが注がれていることを思います。
 そして、神が考えられた救いの計画が、より明確にあらわされたのが、イエス・キリストの誕生です。私たちは五穀豊穣の神や、子孫繁栄の神など、自分なりの神を思い描き、作り上げてしまうため、真の神の全体を知り得ることはできません。事実、イエスがこの世にあらわれた時にも、自分の願いをイエスに期待しましたから、その人々の思いがイエスを死へと向かわせることになるのです。
 しかしながら、そうした人々の思いをも神は用い、神が天地創造の前から建てられた救いの計画を完成させるため、イエスを十字架につけ、死なせ、そこから栄光の身体によみがえらせるのです。
 したがって、私たちはイエスが歩み通された十字架の御業によってでしか、神の愛を知りようがないのです。
 このみ言葉を通して、私たちは、神がどのような方なのか、またイエスが、私たちのために何をされたのかに、目を向けたいと思います。このお方こそ、真実に私たちを罪から自由にしてくださる方なのですから。

9月3日
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生ける神の御言葉
 あなたがたは、朽ちる種からではなく、朽ちない種から、すなわち、神の変わることのない生きた言葉によって新たに生まれたのです。 Tペテロ1:23

この手紙の受取人は、教会に行っているクリスチャンです。兄弟意を抱き、互いに愛し合う人たちです。けれども、彼らはイエスを信じる信仰の故に、迫害の中に置かれていたので、偽りのない愛をイエスからいただいたのに、真実な兄弟愛に生き切れなくなっていました。また、たとえ、兄弟愛をあらわそうとしていても、それは役者が役を演じる(偽りの意)かのように、内実の伴わないものになろうとしていました。
 その彼らに信仰の気づきを与えるため、「あなたがたが新たに生まれたのは、変わることのない神の生きた言葉による」と告げるのです。
 私たちも神の言葉(聖書)は、変わることのないものだと信じていますし、生きた言葉だと信じています。聖書のみ言葉で救われ、新たな命をいただいた者だからです。
 神の言葉はさまざまなものが変化しやすい世の中にあって、唯一変わることのないものです。命のあるものです。また、神の言葉は聖書に留まるだけではなく、救われた私たちの内にも留まります。
 私たちの内に留まる神の生きた言葉は、私たちを罪から救うだけではなく、偽りのない兄弟愛に生きられるように変えていくほどの力や命もあるはずです。私たちに届けられた神の生きた言葉(福音)の確かさを信じる者となり、真実な兄弟愛に生きる者とさせていただきましょう。

9月10日
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霊の乳、霊の家、霊のいけにえ
 あなたがた自身も生きた石として用いられ、霊的な家に造り上げられるようにしなさい。そして聖なる祭司となって神に喜ばれる霊的ないけにえを、イエス・キリストを通して献げなさい。                Tペテロ2:5

 
  霊の乳を慕い求め(2節)、霊的な家を造り上げ、霊的ないけにえを献げる(5節)ように勧めるみ言葉です。霊的な家を造り上げるとは、教会を大切にすることです。そして、生きた石であるイエスを隅の親石とする教会を、しっかりと建て上げていくために求められていることは、私たちが聖なる祭司となって、霊的ないけにえを献げることです。
 霊的ないけにえを献げることで、いろいろに考えるのかも知れませんが、何よりもの霊的ないけにえは、聖なる祭司とされた者が、教会でなされる礼拝を重んじることです。イエスの十字架を信じ、贖われた者が、その救いに真実な喜びを見出し、礼拝で神の御名をほめたたえること、さらには、先に祭司とされた者たちが、これからイエスの救いにあずかる人たちの代わりとなって、礼拝をささげていくこと、これが教会でなされる礼拝の本質といえます。
 霊の乳を慕い求めるとは、み言葉による養いです。乳飲み子が母乳によって健やかに成長するのと同じように、何にも揺るがされたり、ぶれたりしない確かな基準となる聖書を慕い求めるのです。教会生活を大切にし、礼拝で心から神をほめたたえ、み言葉による魂の養いをいただく時、私たちは決して失望せず(6節)、暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れられたことを知り(9節)、神の民とされ、神の憐れみを受けている者であることに気付き(10節)、そして、神が真実に恵み深い方であることを知るのです(3節)。

9月24日
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神の僕としての自由
 自由な人として生活しなさい。しかし、その自由を、悪事を覆い隠す手だてとせず、神の僕として行動しなさい。             Tペテロ2:16

  イエスの十字架によって救われたクリスチャンは、世を統治する皇帝(13節)、主人、夫から自由な者とされていると言われることがあります。実際の世に目を向けるなら、良い統治者ばかりではなく、クリスチャンを迫害する統治者もいますし、無慈悲な主人(18節)もいれば、み言葉を信じない夫(3:1)もいます。
 クリスチャンがそうした人と関わりを持つ時に、神から授けられた自由の意味を、時にはき違えて理解し、彼らを救いに与っていない人たちとして重んじず、救われた自分を少し高い位置に置いて見てしまうことがあります。そして、そればかりではなく、迫害する者や無慈悲な人たちにされたことと同じことをもって、彼らを陥れようと目論むのが現実の私たちの姿です。
 み言葉はそうした肉の欲から遠ざかり、立派な生活をするようにと勧めます(11、12節)。立派とは悪をもって悪に報いず、祝福を祈る(3:9)ような美しく魅力ある生き方です。そのような美しく立派な生き方の何よりもの模範は、イエス・キリストです。十字架上のイエスは、自分を死に追いやる人たちの罪の赦し、また祝福を祈りました。
 私たちが、こうしたイエスの立派な生き方を少しでも真似て、生きていこうと願い、祈り始める時、神を崇める人がおこされてきます(12節)。神の僕としての自由さをもって、私たちが祝福の基とならせていただきましょう。

10月1日
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義に生きるために
 そして、十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担ってくださいました。わたしたちが、罪に対して死んで、義によって生きるようになるためです。そのお受けになった傷によって、あなたがたはいやされました。   
                                   Tペテロ2:24

イエスの歩みは罪を犯したことがなく、偽りのない歩みでした(22節)。そのイエスが罪ある者とされ、十字架に架けられるのです。十字架に釘づけにされる痛み、苦しみは言葉に絶するほどの痛みでしょう。けれども、イエスにとってより苦しい受難は、罪無き者が罪ある者とされることであったと思います。
 というのも、イエスは罪から最も遠いお方であるからです。罪から最も遠いというのは、罪に陥る恐ろしさや罪の醜さを最もよく知っているということです。しかも、その罪は自らの罪ではなく、人の罪のために罪ある者とされたのです。 イエスの歩みはまた、私たちが罪に死に義に生きるための歩みでした(24節)。そのために、イエスは人の罪の中に無理やりのようにして分け入ってこられ、その罪をご自分のものとされ、十字架に架かられたのです。
 この手紙の著者ペテロは、心痛む深い傷がありました。イエスから離れてしまったことです。ペテロにはそうした過去があっただけに、イエスの十字架の意味や罪の痛みをより深く考えたでしょう。羊のようにさまよっていた自分を義に生きる者とし、イエスの十字架が傷を癒し、イエスとの愛の交わりに生きる者とされていることを知るのです。そして、さらにその愛の交わりは、イエスとの間だけにあるのではなく、人との交わりをもつ時にも築き上げられていくことをも知るのです。
 私たちもそうした受け留め方をして、十字架のイエスを仰ぐとき、私たちにとって身近な勧め(17、18節、3:1)にも向き合っていくことができます。 

10月8日
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 命の恵みを受け継ぐ者
 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命 の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。          Tペテロ3:7

妻や夫という具体的な立場にある人に向けて書かれたみ言葉ですが、ここで勧められている一つ一つは、そういった限定された人たちだけが受け取るべきではなく、誰もが受け取るべきみ言葉です。それは、すべての人がどなたかとの関わりで生きているからです。
 無言の行い(1節)、きよく純真な振る舞い(2節)、何事も恐れない生き方(6節)などが、勧められていますが、自らを振り返りますと、これらのみ言葉が教えるままに、ずっと生きてこられただろうかと言わざるを得ません。

また、この手紙を直接、受け取った当時の女性たちは、何事も男性中心の社会で生きることを強いられていましたから、何事も恐れずにと言われた時には、私たち以上の驚きをもって、この手紙を読んだことでしょう。
 そこで、サラが夫アブラハムに従ったことが例に挙げられますが、はじめからサラがアブラハムに、また神に従えていたのかというとそうでもありませんでした(創世18章)。同様に、アブラハムもサラが命の恵みを共に受け継ぐ者として認識していたかというと、そうでもありませんでした(創世20章)。
 けれども神が願うことは、誰もが命の恵みを受け継ぐ者となることです。誰もが信仰に導かれることです。そして、誰もが共に祈り合える関係になることです。祈りが妨げられるような関係になるのではなく、お互いにイエスによって生きる者とされ、共に命の恵みを受け継ぐ者の関係を築き上げさせていただきましょう。

10月15日
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 幸いな日々を過ごそうと願う

命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。                         Tペテロ3:10、11

幸いな日々を過ごしたい人(10節)とありますが、このことは、誰もが願っていることで、願わない人はいないでしょう。そこで、考えたいのは、何をもって幸いとするかです。何か目に見えない運命の力にもてあそばれているような気持ちになって、目の前に起こってくる出来事に自分の判断で良いか悪いか、幸いかそうでないかを決めることは、ごく自然なことだと思うのですが、神の私たちへの態度を見ると、祝福を受け継ぐために、私たちを召してくださっているのです(9節)。
 また、神が決意をもって私たちを祝福されるのですが、具体的には、必要なものが備えられたり、数的に増えたり、力や使命が与えられたり、きよめられたりすること、いわば、これまでとは違うある変化がもたらされることです。ということは、日常で起こってくるさまざまな出来事(変化)に一喜一憂する私たちですが、その変化は神が私たちを祝福しようとする決意の表れといえます。ですから、一見悪いと思えるような出来事も、いつもとは違う変化といえますから、それは、神が備えられた祝福といえます。
 このようにして、私たちに神の祝福が備えられていることを知る時、私たちがどう歩むのかというと、悪をもって悪に報いず、かえって祝福を祈ることです。侮辱する相手の祝福を祈る(9節)。こうしたみ言葉に出会う時、本当にこのみ言葉のままに生きられるのかということに心奪われてしまうかも知れませんが、これらのみ言葉が私たちを生かす大切なみ言葉だと思うのなら、大切なように受け取るべきです。 
 私たちの信仰に新しい気付き(変化)を与えるみ言葉の前に、真摯に向き合う者とさせていただきましょう。

10月22日
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キリストを主とあがめなさい
 心の中でキリストを主とあがめなさい。あなたがたの抱いている希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい。
                                    Tペテロ3:15

善いことに熱心でありなさい(13節)といいます。この熱心さは、熱心党と同じ言葉が用いられていますので、善いことの熱心党であれとも受け取れる言葉です。
 熱心党というのは、熱狂的な愛国者です(イエスの12弟子の内シモンもその一人だった)。そのためにはあらゆる手段を用いて、自国を守ろうとします。武力行使もいとわず、命を投げ出すことも惜しまず、唯一の神に従おうとします。熱心さについて、こうした理解をして善いことに励むことを考えると、大変重く、簡単なものではないものになってきます。
 そこで考えるのは、善とは何かです。15、16節(希望について弁明できる用意をしていること)、あるいは、8、9節(侮辱する者のために祝福を祈ること)などのみ言葉から、さまざまに善いことを考えますが、何よりもの善いことは、キリストを主とあがめることです。あがめるとは、この上ないものと尊敬し、聖なるものとすることです。聖なるものとするとは、過去、現在のみならず、将来にも確かな希望を与えられるキリストの御業を何にもまさって重んじることです。キリストの御業、それは救いです。本来なら罪のために神のもとへ近づくことすら許されていない私たちを、神のもとへ導かれたことです(18節)。
 したがって、私たちのなすべき何よりもの善いことは、神の御前に進み出ることが許された者として、礼拝することです。熱心党のような熱心さをもって、神に近づくことです。私たちの信仰が、なお新しくされていくために、神礼拝を大切にしていく者とさせていただきましょう。

10月29日
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神のもとへ導くために
キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。Tペテロ3:18 
                                       (口語訳)

 上記のみ言葉は、前後のみ言葉のより良い理解のためには、とても大切なみ言葉です。「善を行って苦しむ方が、悪を行って苦しむよりはよい。」(17節)とありますが、私たちもこの世にあって生きていく時、確かにこうしたことが起こってきます。私たちも善いことを行ったのに、どうしてこんな目に遭わねばならないのかという経験をしたりするのですが、それでも、そこで目を向けるべきなのは、イエスの歩まれた姿です。イエスは救いという善いことをされたのに、十字架による死の苦しみを味わわれたからです。
 また、イエスは捕われていた霊たちのところへ(下って)行き(19節)、天に上って神の右に座しました(22節)。このようなイエスのなさり方、また、「我、天に上るとも、汝かしこにいまし、我、我が床を陰府にもうくるとも、見よ、汝かしこにいます。」(詩編139編)という神の遍在の約束は、私たちがどのようなところに置かれていても、神のおられる天に通じる道を開かれたことを教えてくれるものです。
 「キリストも、あなたがたを神に近づけようとして、自らは義なるかたであるのに、不義なる人々のために、ひとたび罪のゆえに死なれた。」
 イエスの十字架の死とよみがえりの命は、陰府の力に打ち負かされてきた私たちを天へと引き上げる力となりました。イエスの成し遂げられた贖いの御業を仰ぎ、ここにこそ、私たちの救い、平安、喜び、恵みがあることを覚え、ただ、イエスのなされた御業だけをほめたたえる者とならせていただきましょう。

11月5日
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神の御心に従って
 もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。                                         Tペテロ4:2
 肉における残りの生涯(地上の残された時)を、神の御心に従って生きるようにと勧めるみ言葉ですが、3節にある偶像礼拝をはじめとする、好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲は、神の御心からは一番遠いことといえます。
 また、これらのことから遠ざかり、神の御心に従っていこうとしますなら、人々はクリスチャンを不審に思い(4節)、驚きあやしみ(口語訳)、悪口を言うのです(新改訳)。不審に思うや驚きあやしむという言葉は、もともとは外国人(よその人)という言葉から生まれてきた言葉なのですが、クリスチャンであることが、周りのクリスチャンではない人に知られますなら、時に外国人のようにみられたりすることがあります。
 どうして、そのようにみられるようになるのかというと、イエスのなさってくださった御業に何にも代えがたい価値を見出して、これまでの価値観とは違う生き方を始めたからです。
 
 イエス・キリストの福音を信じ救われた者は、きっとどこか変えられてくるはずです。クリスチャンは、まだ、クリスチャンとされていない人から見たら、外国人のような存在にされてくるはずです。 
 これらのことを、私たちは真摯に受け止めねばなりません。前述した事柄から離れれば神の御心に従っているというような消極的な向き合い方ではなく、神の御心とは、きよくなること、神の子とすること、御国を下さることなどですから、これらのことを積極的に求めていくことが、神の御心に従って生きることといえます。内住のイエス・キリスト本来の恵みの大きさのままに、委ねつつ歩ませていただきましょう。

11月19日
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神を崇めるために
 それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して、神が栄光をお受けになるためです。栄光と力とが、世々限りなく神にありますように、アーメン。                                      Tペテロ4:11

万物の終わりとは、神が聖書の中で約束されたすべてのことを完成される時です。そして、その最大の約束は、「一人も滅びないで皆が悔い改め」(Uペテロ3:9)て、神に立ち返り、救われることです。この神の約束を、私たちは疑わずに信じて、思慮深く、実を慎んで(7節、分別と責任の意)、祈りと愛に生きるようにといいます。
 祈りについては、普段私たちが祈る、自分や家族、友人のためだけに祈るのではなく、神が栄光を受けることをも祈るようにといいます(11節)。
 また、愛については、もてなすことです(9節)。もてなすとは来客があった時に、心を込めて応対し、茶菓や食事を供することですが、そればかりではなく、当時のことを考えると、どこにでも宿屋があった訳ではありませんから、たとえ見ず知らずの人が申し出てきたとしても、無下に断らず、泊めてあげることもあったようです。
 そうした愛の行いに忠実に生きようとするクリスチャンを当てにして、旅人は彼らを利用するばかりではなく、家に迎え入れられるなら、強盗に早変わりしたということも時々あったようです。けれども、たとえ、そうしたことが起こっても不平を言わずにといいます。
 愛し合うことで、さらにみ言葉が教えることは、罪を覆うともいいます(8節)。罪を覆うとは、許し合うことです。また、互いの賜物を生かして仕え合うことです。

 神がすべてを完成される万物の終わりに備えて、こうした生き方をするようにと勧められるのですが、自らを振り返ると、こうした生き方に徹しきれない私たちがいます。だからこそ「イエス・キリストを通して」(11節)のみ言葉が、私たちにかけがえのないものとなってきます。全ての罪を赦し、この私こそが、イエスの大いなる愛に覆われている者であることに気付くからです。神の栄光があらわされるために、神の御名が崇められるために、私たちの賜物を生かさせていただきたいと願います。

11月26日
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栄光の霊がとどまるため
 あなたがたはキリストの名のために非難されるなら、幸いです。栄光の霊、すなわち神の霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。Tペテロ4:14
 キリストの体なる教会(私たち)は、かしらなるキリストと一体です(エフェソ4章)。一体ということは、私たちが苦しむ時には、キリストも共に苦しみ、喜ぶときには共に喜ぶという愛の関係が築かれますから、心安らぐイエスを思い浮かべます。
 けれども、一体であることのもう一つの側面は、頭が行くところには、体は必ずついて行かなくてはならないことです。切り離れて、別の所に行くことはできません。そして、その真髄があらわされているのが、上記のみ言葉です。クリスチャンとして歩む時、キリスト者であるがための苦しみがあるのです。
 もともと苦しみ(争い、労苦、堕落、死等)は、神が甚だ良かった世界を造られたところに罪が入りこんできたために伴ってきたものであって、この世的な苦しみです。クリスチャンは、そうした苦しみに加えて、信仰ゆえの苦しみをも味わうのです。キリスト者故の試錬を通して、私たちの信仰は錬られていきます。不純なものが混ざっていたところから、ただ神だけを仰ぐ純粋な信仰へと整えられていきます。
 こうした信仰ゆえの苦しみの後、喜びに満ちあふれ、栄光の霊が宿るとも教えてくれますが(13、14節)、このことも苦しみの後には喜びがあると、単純に受け取るのではなく、錬られた信仰をもって、神の約束として受け取るべきです。
 私たちを贖われたイエス・キリストへの信頼を確かにし、私たちの日ごとの暮らしを聖別しつつ、これからも歩ませていただきたいと願います。

12月3日
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エッサイの根株より
 エッサイの株からひとつの芽が萌えいで、その根からひとつの若枝が育ち、その上に主の霊がとどまる。知恵と識別の霊、思慮と勇気の霊、主を知り、畏れ敬う霊。                           イザヤ11:1、2
 
 救い主はエッサイの子孫から生まれることを教えるみ言葉です。その救い主には、主の霊がとどまっているともいいます。そして、主の霊も具体的な働きをするものだとも教えます。どういった働きかというと、知恵と識別です。モーセの時代に授けられた律法を凌駕する(完成させる)神の知恵をもって、人々を言いくるめるのではなく、すべての人を神のもとへ招く霊で、救い主は満たされているのです。
 また、救い主には思慮と勇気(力)が備わっています。何かの問題(課題)を抱えている人を前にした時、ただ眼前の課題を解決するだけではなく、その後のことまでも深く考えて、実際に行動させる力をも持ち合わせています。
 救い主には、主を知り、畏れ敬う霊にも満たされています。人々が救い主に対して、どんな期待がされているのかを知りながらも、その思いに迎合するのではなく、ただ神のみ心を行うことだけに専心するのです。
 
 神からこうした働きを委ねられて救い主は、エッサイの根株から生まれてきます。根株とは、もうこれ以上の進展はないともいえる状況に置かれていることですが、そうした所から、若枝としての救い主イエス・キリストが誕生するのです。四福音書を見るなら、こうした霊の満たしを受けて働かれるイエスが、確かにおられます。
 また、私たちが覚えておきたい、もう一つのことは、聖霊の満たしは、イエスの上にだけなされるのではなく、イエスを信じる私たちにももたらされていることです。イエスのような全き愛に生き切れない私たちですが、こうした働きをする聖霊で満たされることを願って、アドベントを過ごすことは、何にもまさるクリスマスの迎え方ではないでしょうか。

12月10日
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星に導かれて
 彼らが王の言葉を聞いて出かけると、東方で見た星が先立って進み、ついに幼子のいる場所の上に止まった。学者たちはその星を見て喜びにあふれた。      マタイ2:9、10

星に導かれて東方の博士たちは、イエスのもとにやって来ました。東方は異国です。彼らは、ユダヤの民とは違う文化、習慣で生きています。また、何よりもの違いは、信じている神です。ユダヤの民は、そうした異邦人を神の救いから外れている者と見なしていました。
 その異邦人の博士が星に導かれて、イエスのもとにやって来るのです。占星術は異教の教えですし、また、マタイの福音書は、もともとはユダヤの民に向けて書かれた福音書だといわれていますが、そうした福音書の始め、救い主イエス・キリストの誕生の場面に異邦人が登場してくるというのは、神の導きとしか言いようがありません。また、異教の神をも、神の御手の中に用いられ、すべての人に救い主の誕生を知らせようとする神の御心を覚えます。
 そうした中で、この知らせを快く思わない人がいました。ヘロデ王と民衆です。ヘロデは自分の立場を脅かす者が現れたのですから、不安を抱くのも当然でしょう。民衆はなぜ、不安になったのでしょうか。それは、彼らはヘロデ王の残忍さを知っていたからです。ヘロデに取って代わる者が現れるなら、ヘロデが何をしでかすか分かりません。民衆はそれを恐れたといえます。また、律法学者たちも、彼らの信仰基盤とする聖書に、救い主が生まれる場所を見出しますが、実際には、その場に行きません。救い主を受け入れていないといえます。
 東方の博士たちは、星の導きを信じてイエスのもとにたどり着き、イエスを拝します。また、彼らが家路につく時、今度は星の導きには頼らず、神の「お告げ」を頼りにします。星以上の寄る辺に気づいたのでしょう。私たちも、私たち自身と、まだイエスに出会ったことのない方をもイエスのもとに導きかれる神に、これまで以上の確信をもって信頼を置く者とさせていただきましょう。

12月17日
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シメオンの賛美
 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。      ルカ2:25

 ヌンク・ディミティスと呼ばれるシメオンの賛美がささげられるみ言葉です。彼は、イスラエルの慰められるのを待ち望んでいました。信仰者にとって、待ち望むことは、祈ることと直結しています。シメオンは神の僕として、祈りに徹していたのです。
 彼の前をささげものをする人が行き交います。多くの人は、神と向き合う神聖な時としてささげものをしますが、中には他者から自分がどう見られるのかばかりに心が向いていて、神としっかり向き合うことを忘れてささげものをしているような人を、シメオンは見つつ、祈り続けるのです。真剣な祈りから遠ざけるような人も目の前を通り過ぎて行く中、祈り続けることは、神から託された尊いつとめとはいえ、大変厳しいつとめです。
 それでも、シメオンは、そうした祈りの生活を、聖霊の助けをいただいて続けたのです。だからこそ、シメオンは、貧しいイエス家族の姿に、イスラエルを慰める方(救い主)と見定められたのでしょうし、さらには僕としてのつとめを全うしたとの確信が与えられたので、「安らかに去らせてくださいます。」と、神をほめたたえることができたのでしょう。
 私たちも、こうした賛美がささげられたら感謝です。けれども、こうした賛美をささげられるようになるには、一朝一夕にはいかないでしょう。私たちの日ごとの暮らしで、祈りに重きを置いた暮らしをし、またその祈りは、すべての人の救いを祈るのです。こうしたことを覚え、私たちも祈り始める時、私たちの心にも、シメオンがささげたような賛美をささげる者へと整えられていくはずです。

12月24日
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アンナの祈り
 彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。                                     ルカ2:37、38
 アンナは、若い時嫁いでから7年間夫と暮らしていましたが、死に別れ、84歳になっていました(36、37節)。一人暮らしとなってからは、夜も昼も神殿を離れずに、断食と祈りをもって暮らしていました。こうした暮らしを続けるアンナを見守る周囲の人たちは、はじめは同情する人がほとんどだったでしょう。寂しく、つらい日々を送る彼女をいたわる思いで声をかける人も多かったと思います。
 けれども、アンナの祈りの生活が10年、20年と続くうちに、また、当時の一般的な結婚年齢から考えると、60年以上神殿での暮らしを続けていたことになります。それだけの間、アンナが暮らしていますなら、しだいに彼女のことを知らない人も出てくるでしょうし、彼女の身なりも決して豪華なものではなかったはずですから、アンナには近づかず声をかける人も少なくなり、遠巻きに見る人も増えていったのかと思われます。
 したがって、アンナは、いつも神殿にいるということでは良く知られているのですが、周囲の人から忘れられた存在になっていたともいえます。
 そうしたアンナが祈り続けるのです。彼女が何を祈っていたのかは分かりませんが、していることを見れば(38節)、エルサレムの救いを祈っていたといえます。アンナのひたむきな祈りが積み上げられることで、神は応えられ、彼女の前にイエスを連れてくるのです。アンナはエルサレムの救い、すべての人の救いを祈っていたのですが、実際にイエスにお会いすることで、彼女自身も救いの恵みに与かっていることに気付き、神を賛美するのです。
 私たちは、身近な人の救いを祈ります。そして、その祈りに神が応えられた時、心から喜びます。その時、同じようにして、自らの救いの確信も与えられますなら、私たちも心からの賛美を神におささげできる者とされていくでしょう。

2017 12月31日
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謙遜を身に着けて 
 皆互いに謙遜を身に着けなさい。なぜなら、「神は、高慢な者を敵とし、謙遜な者には恵みをお与えになる」からです。                        Tペテロ5:5
 ペテロには苦くまた、恐れ多い経験がありました。彼の苦い経験は、イエスを三度否んだことです。また、恐れ多い経験は、よみがえられたイエスが、ペテロのもとにあらわれ「私の羊を飼いなさい」と告げられたことです。このイエスの言葉によって、彼のこれからの歩みが明示され、事実、ペテロは教会に連なる者たちを養い、イエスに言われた言葉と同じ言葉をもって、長老たちに「神の羊の群れを牧しなさい」(2節)と勧めます。
 牧するとは、権威を振り回さず、献身的に世話をし、模範となることです。そして、また、何よりも大切なことは、皆互いに謙遜を身に着けることといえます(5節)。
 謙遜になることは、聖書でよくいわれることの一つですが、そのためには、自らを神の御前に持ち出す必要があります。神の御前に立つ時、罪人の一人に過ぎない自分に気付きますが、それ以上に気付かされるのは、神の恵み、祝福、栄光を目の当たりにしてきたことです。こうした神との深い交わりをもつ時にこそ、初めて謙遜を身に着けることができると思います。
 そこで、一つ覚えておきたいことは、謙遜を「身に着ける」といっていることです。身に着けるとは、身に着けようとするものは、もともと自分には備わっていなかったものです。衣服や教養などもそうといえますが、謙遜も同様です。
 では、謙遜はどこにあるのかというと、イエスにあります。謙遜の体現者はイエスの歩みにあります。したがって、私たちが真実な謙遜を身に着けるためには、イエスを愛することといえます。謙遜が身に着いたと思えるような時、身に着けた自分を誇るのではなく、授けられたイエスを、私たちは喜ぶのです。

2018 1月7日
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信仰に堅く立って
 あなたがたの敵である悪魔が、ほえたける獅子のように、だれかを食い尽くそうと探し回っています。信仰にしっかり踏みとどまって、悪魔に抵抗しなさい。         Tペテロ5:8、9
 吠えたける獅子が食い尽くすべきものを探し回るほどの勢いをもって、悪魔が私たちを狙っているといいます。
 悪魔の働きといったら、私たちを惑わし、不義の道に引きずり込み、罪を犯させようとする力と考えることがありますが、その本質は、私たちを神から引き離そうとする力といえます。私たちを神から離し、神を崇めなくさせ、賛美させないようにし、悪魔の働きの一端を担わせる。それが悪魔の本質です。そして、その執拗さは獅子が獲物を狙うほどのしつこさがあるのです。私たちは、こうした悪魔の働きの実力を見くびってはなりません。
 み言葉は、その悪魔に抵抗しなさいと告げ、身を慎み、目を覚ましていなさいともいいます。このようなみ言葉が語られる時、きっとすべてのキリスト者は、真摯に向き合って、み言葉のままに歩めるよう努めるのですが、実際に普段の暮らしの中で、何に気をつけ、目を覚ましていなければならないのかというと、悪魔からの執拗な働きかけに目を配ることも大切ですが、それ以上に大切なのは、神から離れないために、唯一、真の神をほめたたえる礼拝を重んじることです。
 礼拝を守る。イエスにつながる者とされて、しばらくの時が経っている方にとっては、このことは日常的になされていることと思いますが、毎週の礼拝を神に近づく時として、なお、はっきりと私たちが聖別していく時、悪魔に抵抗する者とされていきますし、信仰に堅く立つ者とされていきます。

2018 1月14日
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この恵みに立つ
 この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。         Tペテロ5:12
シルワノやマルコの助けを得て、書き始められた手紙を終えるのにあたり、総括として「この恵みにしっかり踏みとどまりなさい。」といいます。
 「恵み」は、教会でよく用いられる言葉の1つで、神さまはさまざまな恵みを備えていてくださいますが、私たちにとって何よりの恵みは、私たちのもとに福音が届けられたことです。福音も恵みと同じように、教会ではよく耳にする言葉ですが、福音とは勝利、喜びであり、イエスの十字架によって全ての人に救いの道が開かれたという「喜びの知らせ」です。また、福音には義認、新生、聖化といった救いに関するすべての事柄も含まれます。
 私たちが神の恵みを思う時、目で見えるもの、手で触れることができるものが満たされた時、また、物理的、経済的に豊かになったような時に、神の恵みがあらわされたと感じることがあります。もちろん、これらも神の恵みに違いはなく、何かが満たされた時には、それを満たされた神に感謝すべきなのですが、神の「恵み」の何よりもの中心は、救いという喜びの知らせが、私たちに手渡されたことなのです。
 み言葉は、その「恵みにしっかり踏みとどまりなさい」といいます。しっかり踏みとどまりなさいとは、中心とすべき恵みの理解を見紛うことなく、その恵みの中で生きていきなさいということです。
  私たちのもとに届けられた「救い」を、何にも代えがたい恵みとして受けとめ、救われた喜びに満たされて、歩む者とならせていただきましょう。

1月28日
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福音の初め
 神の子イエス・キリストの福音の初め。マルコ1:1
 イエス・キリストの福音を伝えることに専心するペテロと親しい間柄にあったマルコが、より広く、より多くの人たちに福音が伝えられることを願って、この福音書を書き始めます。
 マルコは、福音書を書くのにあたり、「神の子イエス・キリストの福音の初め」との言葉で、書き始めるのですが、この言葉には、マルコ自身が福音に出会ったという喜びにあふれた思いが込められていると思います。
 イエスによって始められ、ペテロたちによって伝えられた喜びの訪れ(=福音)が、今、自分(マルコ)のもとにも届けられている、その恵みの中を生きる者とされている。自分の身になされた神の御業を思うと、喜びがあふれ出てきて、筆を執るのです。
 そして、イエスによってもたらされた救いは、過去のものではなく、今、この福音書を書くマルコも与かる者とされているし、これから先、この福音書を読む人たちも、共に同じ恵みに満たされると確信するのです。
 厚木教会が創立されて、まもなく50年を迎えようとしていますが、マルコがこうした感動をもって書き始める福音書のことを思うと、厚木教会の歩みは、もうこの時から始められているといえます。
 イエス・キリストが始められた福音をマルコが語り、脈々と受け継がれて、今私たちもその恵みに与かる者とされています。私たちが、その恵みを深く実感し、感銘を覚える時、福音が過ぎ去ったものではなく、今も、生き生きとした輝きのある福音とされていくでしょうし、さらには、福音の恵みのうちに生きる人が、おこされてくるに違いありません。

2月4日
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み言葉の成就 
 預言者イザヤの書にこう書いてある。「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの道を準備させよう。荒れ野で叫ぶ者の声がする。『主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ。』」                                                マルコ1:2、3
 福音の喜びに与かる恵みを知ったマルコが、イエスの生涯を記すのにあたり、まず、洗礼者ヨハネの物語から始めます。

 イエスの先駆者、道備えとして知られるヨハネですが、ラクダの毛衣を着、イナゴや野蜜を食べ、荒野という過酷な環境で暮らしている姿を思うと、眉間にしわを寄せた厳しい顔が思い浮かばれます。それに引き換え、この後に記されるイエスは、いつも優しく微笑む顔が思い描かれるのではないでしょうか。
 両者の対照的なこの姿は、喜びの訪れそのものであるイエスを、より際立たせる引き立て役として、ここに、ヨハネを登場させているのかというと、そうではありません。
 ではなぜ、まず洗礼者ヨハネが、紹介されているのかというと、み言葉の成就であるからです。旧約聖書で語られ、長年にわたって待ち望まれてきたイエスの道備えが、ヨハネによって成し遂げられたからです。起こってくる出来事に相応しいみ言葉が、後から選ばれたのではなく、み言葉が先にあるから出来事が起こってくるのです。
 そのようにして、神の言葉がまさに実体化したともいえるヨハネが、この後に来られるイエスが、どんなに気高いお方であるのかを告げるのです(7節)。
 ヨハネから、この言葉を聞いた人たちは、ヨハネの存在と共に、イエスに大きな喜びを見出したでしょう。今、私たちも彼らが抱いた心を、私たちの心とさせていただきましょう。そうした時に、私たちがイエスに出会い、救われた喜びが、さらに深められていくことです。

2018 2月11日
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イエスのバプテスマ  
 イエスはガリラヤのナザレから来て、ヨルダン川でヨハネから洗礼を受けられた。
                                                マルコ1:9

 洗礼者ヨハネのもとに集まる多くの人たちと同じように、ヨハネのもとにやって来たイエスは、自身に与えられた救い主としての使命に生きるのにあたり、まずヨハネから洗礼を受けることから始めます。
 イエスにとって、洗礼をうけたことは、救い主として歩む決意の時であり、罪のないイエスが罪人の1人に数えられる時でした。また、イエスの決意を、神に受け入れられる時でした。
 私たちが、こうしたみ言葉から受け取りたいことは、前述のように、ヨハネから洗礼を受けるために、各地から集まる多くの人に列にイエスも並んでいること、そして、その姿をご覧になった神が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」と言われたことです。ここに私たちの受け取るべき恵みがあります。
 神がイエスに「あなたはわたしの愛する子」と言ったことは、イエスと同じ列に並ぶ人たち、また、私たちにも告げる言葉といえますし、「わたしの心に適う者」という言葉をもって、イエスの歩みを後押しする神は、同じ言葉をもって、私たちの歩みをも導こうとされる神がおられます。
 洗礼を受け、罪赦された者の歩みを始めている私たちですが、イエスのような神のみ心にかなう歩みを、十分に成し得ない私たちですが、この時、イエスのもとに留まった同じ聖霊が、私たちの内にも満たされることを信じる時、私たちも、神のみ心にかなった者の歩みを全うさせていただけるはずです。

2月18日
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荒野のイエス  
 それから、""はイエスを荒れ野に送り出した。イエスは四十日間そこにとどまり、サタンから誘惑を受けられた。その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。マルコ1:12、13 
 イエスが、御霊に押し出されて、40日間過ごされた場所は、荒野でした。荒野は、人が住むのに適していない過酷で厳しい環境です。また、「捨てる」という意味もあることから、人から見捨てられた所が荒野という場所です。

 そして、さらに荒野の意味が多義になり、人に対しても使われるようになっていきます。荒野が人に用いられる時、それは、荒んだ心の人ということになりましょうし、人から見捨てられた人ということにもなろうかと思います。聖書では、病人や徴税人、遊女や罪人が荒野のような人といえますが、イエスが、これから、このような人と向き合う時に、まず、自然の荒野の厳しさを経験するようにと、御霊によって送り出されるのです。そして、実際に彼らに出会うなら、彼らだけでなく、会う人誰もが絶望や不安に駆られ、心が自然の荒野以上に、荒んで暮らしているのを、イエスは知るのです。
 また、「その間、野獣と一緒におられたが、天使たちが仕えていた。」ともいいます。イエスが荒野で過ごす間、野獣と天使が一緒にいたというのです。本来、野獣は人を襲うものでしょう。敵ともいえる存在が野獣のはずです。けれども、ここでは、共にいるのです。共存、共生しているのです。イザヤ11:6〜8でも、その様子が描かれていますが、荒野で過ごされたイエスの姿は、このみ言葉の成就と受け取れますし、楽園の回復の時ともいえます。楽園は、人が失ったものです。罪の故に楽園(エデンの園)から追放されたのが人類です。壊された神と人の関係が、イエスがおられることで築き直されていくのです。
 3つの誘惑に打ち勝たれたことで良く知られる、荒野のイエスですが、マルコの福音書では、誘惑の内容には触れず、こうした恵みを伝えようとします。私たちも荒野に置かれることがあります。荒野の厳しさ、冷酷さを経験することがあります。けれども、そこにイエスが共にいてくださること(臨在)を信じる時、その場所は、真実な平安で満たされる楽園とされていきます。私たちのもとにも神の祝福が届けられていることを知るのです。

3月4日
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 神の国は来た
 「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」と言われた。 マルコ1:15
 
 イエスが伝道を始めるにあたり、上記のみ言葉を宣言されました。「時が満ち」とは、神の時が来たということです。これまで、イスラエルの民は、神が遠く離れ、近くにいるのを感じられずに待ち続けていましたが、イエスは、神のみ業が始められる「時が満ちた」と告げるのです。
 また、「神の国は近づいた」とも言われました。近づくとは、神の国とイスラエルの民(=神の恵み、イエスと私たち)の距離が狭まるだけではなく、両者の関係性をあらわす言葉でもあります。イエスが近づくのは、相手が気になるからです。何が気になるのかというと、罪から救われているかいないかが気になるのであって、そのためにイエスは、関わりを持とうして近づかれ、この世にお生まれになったのです。
 そのようにして近づかれたイエスに、私たちも近づこうとする時には、背を向けていてはいつまでたっても近づくことはできません。私たちも、イエスにきちんと向き直して、正対し近づかねばなりません。それが悔い改めです。イエスに近づくために、一歩前へと進み出るのです。
 イエスはこうした言葉を宣べ伝え、伝道を始められました。宣べ伝えるとは、王の意思が布告される時に用いられる言葉です。神と同じ権威を持つイエスが、神から遣わされて、「宣べ伝え」られているのですから、この言葉は、私たちにとって大変重い意味を持ってきます。私たちは、いつも神の前に進み出て、悔い改めつつ、イエス・キリストの福音の恵みに生きる者とさせていただきたいと願います。

3月11日
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イエスの後について行く
 また、少し進んで、ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネが、舟の中で網の手入れをしているのを御覧になると、すぐに彼らをお呼びになった。この二人も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った。                   マルコ1:19、20

イエスは、弟子を選ばれる時、特別に神や聖書について学んだ人や身分の高い人ではなく、ごく普通の日常を送り、生活している人に声をかけ、弟子とされました。シモンをはじめとする彼らは、イエスの声を聞き、その言葉に従い、後について行く者とされました。
 人の目から見ると、彼のしていることは、なんと軽率なことなのかと思えます。彼らの中には、一家の大黒柱もいましたから、残された家族はどうなるのかと思えてきます。また、彼らがイエスの後について行くのを決心する時に、彼らの心の葛藤や逡巡も、聖書には描かれておらず、本当にイエスの「従ってきなさい」という言葉に、すぐについて行ったことしか分かりません。
 そこで、私たちもイエスの後について行く(=クリスチャンとなる)ことを考える時、私たちにも、こういうことがあっても良いと思うのです。今の時代、イエスについて調べようとすれば、いくらでも調べることはできます。イエスの知識を増やすことはできます。けれども、イエスの知識の多少が、その人をクリスチャンとさせるのかというと、そうではありません。理性で受け止められ、納得してから、イエスの後について行こうとするなら、きっと、いつまで経っても、イエスの後について行くことはできないでしょう。
 4人の漁師たちは、イエスを良く知りませんでした。ほとんど初対面にもかかわらず、イエスの後について行くのです。そして、イエスの背中を見て、つき従っていく中で、イエスの価値と従うことの恵みを見出していくのです。
 すべてを捨ててイエスの後について行った彼らですが、この後、シモンの姑の病を癒されるイエスがおられます(30節)。彼らの家族をも忘れずに顧みられるイエスがいるのです。イエスの後について行く恵みは、癒されるということだけではありませんが、その恵みは今も変わらずに、イエスの後についていく者に注がれています。

3月18日
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権威ある教え
 人々は皆驚いて、論じ合った。「これはいったいどういうことなのだ。権威ある新しい教えだ。この人が汚れた霊に命じると、その言うことを聴く。」     マルコ1:27

イエスが、律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたことに驚く人々ですが、律法学者も、人々に律法を教えていたのですから、それなりの権威はあったはずです。けれども、律法学者は自分たちが教える律法を、自分たちが生み出したかのごとく、また、自分が神にでもなったかのように、権威を笠に着て、振る舞っていたといえます。ですから、人々も律法学者も権威主義に陥っていたといえます。
 そこに、権威そのものであるイエスが現れ、教えられるのです。イエスが教えたのは、律法学者が教えたのと同じ律法(=旧約聖書)でしたが、教え方が違いました。律法学者は律法遵守を教えますが、イエスは悔い改めと回復の恵みを教えるのです。
 そして、さらにいうなら、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(15節)のみ言葉が教えるように、悔い改めが先にある回復(=赦し、救い)ではなく、赦しが先にある悔い改めです。
 また、イエスは、ご自身の権威をもって「黙れ。この人から出て行け。」と語られると、悪霊は出ていくのですが、汚れた霊に取りつかれていたこの人は、悪霊のために神の前に出ることができず、神と向き合うことすらできない状態でした。
 イエスが語られたことと、この出来事を結び付けますなら、イエスが回復の恵みを語られる時、その言葉が出来事として起こってくるといえます。その事実が人々を驚かせたのです。
 今、私たちもイエスの言葉(=聖書)の権威を認め、信じたいと思います。そして、私たちが、聖書のみ言葉にこそ、回復の恵みがあると信じる時、神の救いのみ業は、現実の出来事として、今の時代においても起こってくるはずです。

3月25日
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イエスの宣教
 イエスは言われた。「近くのほかの町や村へ行こう。そこでも、わたしは宣教する。そのためにわたしは出て来たのである。」                           マルコ1:38

イエスの弟子となり、イエスの後について行ったシモンたちは、ほぼ一日の間に、多くの奇跡を目撃します。イエスの噂を聞きつけて、癒しを求める人が多数やってきたのです。弟子たちにとって、目の前に起こるすべてが初めて目にする光景でしたので、気持ちが高ぶった興奮状態だったでしょう。
 さらに、この日を忘れられない一日にした出来事がありました。シモンの姑の病が癒されたことです。仕事も家も家族もすべてを投げ出して、イエスに従って行った彼らですが、先頭に立って、シモンを彼の家に連れ戻したのはイエスでした。そして、ただ家に戻るだけではなく、病に苦しむ家族を癒し、もてなす(仕えるの意)者へと変えられるのです。また、Tコリント9:5では、それ以外の家族をも救いに導き、宣教の働きに加えられていることを思うと、弟子とされた最初の頃のこの一日は、シモンにとって、特に忘れられない出来事になっただろうと思います。
 朝になっても、イエスの周りには、依然として、癒しを求める多くの人がやって来ていましたが、イエスは、さらに多くの地を巡らねばならないとの決意を言い表します。イエスは、彼らを癒したいと願っていたのでしょうけれど、そのご自身の思いをも突き抜けて、イエスの本来の使命に生きようと専心していくのです。
 また、ここでイエスのことを話そうとする悪霊を、イエスはお許しになりませんが、それでは誰が、イエスのことを話し、伝えるべきなのかというと、癒された人たちです。癒された本人が周りの人に伝え、証しするべきです。
 イエスにこそ救いがあり、イエスの架かられた十字架だけが、罪から自由にする力があり、恵みがあることを信じる私たちクリスチャンが、イエスを証ししないで、誰が証しするのでしょうか。イエスの福音の喜びを宣ベ伝える者とならせていただきましょう。

4月1日
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主に赦されている者
 イエスは言われた。「あなたに言っておく。七回どころか七の七十倍までも赦しなさい。
                                マタイ18:22

ペテロは、相手を赦す時、どの程度まで(何回)赦せばいいのかを、当時の考えに基づいて、7回くらい赦せば十分との自分の判断もいれて、イエスに尋ねます。けれども、イエスは、それ以上の赦しを答えられました。そして、イエスは赦しについて、より良く理解してもらうために、一万タラントンの借金をしていた者が、懇願するなら、王に赦され、その赦された者に100デナリオンの借金をしていた者は赦されず、牢に入れられてしまうという、たとえ話を始められます。
 なぜペテロが、こうしたことを尋ねたのかを考えてみると、現在、ペテロにそういう相手がいたのかも知れませんし、ペテロはその赦すべき相手より、自分を1つ高いところに置いて、このたとえに出てくる王のような存在になりたかったのかも知れません。
 けれども、ペテロにしても、私たちにしても赦しについて考え、イエスの前に立たされて気付かされるのは、誰もが赦す者ではなく、赦されている者であることです。そして、このたとえにあるように、借りた本人も、もう赦してもらえないだろうといえるほどの借金すら、赦してもらっている存在だということです。
イエスの十字架の死は、私たちが抱え込んでいる、それほどの借金(罪)を赦すものです。また、イエスの死からのよみがえりは、私たちを赦し(救い)の喜びの中を、永遠に生きさせる恵みです。
 私たちは、この赦しを与えるイエスを仰ぎ見つつ、また立ち返りつつ、よみがえりのイエスと共に歩む者とさせていただきましょう。

4月8日
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イエスのあわれみに近づく
 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。       マルコ1:41、42
 
 重い皮膚病が、イエスによって癒されるみ言葉ですが、重い皮膚病を患っていたため、これまでの彼は、私たちが想像もできないような、社会からの疎外感を味わい、孤独や寂しさを経験させられてきました。イエスは、その彼に近づき、手を差し伸べ、触れられました。イエスがなさったこのことだけでも、彼のことを慈しむイエスの思いが伝わってきますが、「深く憐れむ」(41節)イエスにこそ、イエスの心が見えてきます。
 深く憐れむとは、はらわたが痛むという意味があります。重い皮膚病を患っていたがために、これまで、彼が味わわされてきた悲しみ、つらさ、孤独を知ると、心が痛むといった程度の痛みではなく、自身の体までも痛くなるほどの痛みを、イエスは覚えるのです。
 また、イエスは、彼に、すぐに立ち去らせようとして、厳しく注意しています(43節)。これは、彼が、病のために住まわされていたところから立ち去らせる言葉です。彼が、住んでいたのは町の外であり、人が住むのにふさわしくないところでありました。ですから、イエスのこの言葉には、彼を人として住むのにふさわしいところへと引き戻そうとする、イエスの彼を慈しむ思いが込められているのです。
 イエスのあわれみに近づくという説教題には、二つの側面があります。一つには、重い皮膚病を患っていた人が、イエスに近づく時、ひざまずいて願ったように、私たちも、イエスこそひざまずき、拝すべきお方として、近づいていくという側面と、もう一つには、私たちクリスチャンもキリストの似姿に変えられていくという側面です。私たち自身が、イエスのあわれみを経験したものだからこそ、そのあわれみの一部でも、他の方に手渡していく者とさせていただきたいと願います。  

2018 4月15日
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 子よ、あなたの罪は赦された
 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 
                                                 マルコ2:5

中風を患っている人が癒されるみ言葉です。彼はイエスに近づくためにいくつもの壁(自分だけではイエスのもとに行けないこと、イエスの周りに多くの人がいたこと、屋根に大きな穴をあけたこと)を乗り越え、イエスから「子よ、あなたの罪は赦される」との言葉をいただき、癒され、罪赦されました。
 その様子を見ていた律法学者たちは、罪の赦しを宣言するイエスに疑念を抱きます。イエスが神の子だと理解していなかったからです。そういう彼らの心を知ったイエスは、彼らがよく知り、大切にしていた「人の子」という言葉を用いて、その疑いを晴らそうとします。また、ご自身に罪を赦す権威があることをも示すのです(9、10節)。
 イエスは、中風の者に「子よ、あなたの罪は赦される」と呼びかけますが、「子よ」というのは、当時、師弟関係にあった者の間で使われる言い方ですが、イエスにとっては、それ以上の意味合いをもって、文字通り、彼を自分の子(家族)として迎え入れる言葉でした。
 「あなたの罪は赦される」とは、罪の赦しを宣言する言葉ですが、同時に、イエスの覚悟のあらわれでもあります。イエスが、これから歩まれる先に待っているのは十字架です。中風の者の罪を赦し、私たちを罪から救い、全人類の罪を贖うため、十字架に向かう決意をイエスは表明されているのです。
 イエスの語る言葉に偽りはありません。「子よ」とか「あなたの罪は赦される」と、言葉にすることは誰にでもできますが、イエスがこうした言葉を語られる時には、その言葉を必ず成し遂げる決意、覚悟があるのです。「子よ、あなたの罪は赦される」と言われるイエスの言葉を、私たちも感謝と喜びもって、受け取りましょう。

2018 4月22日
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罪人を招かれるイエス   
 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」      マルコ2:17

アルファイの子レビ、マタイは徴税人という仕事柄、異邦人との交流もありましたので、ユダヤの民、特に律法学者などからは、罪人と同様に扱われていました。そうしたマタイにイエスは声をかけられ、ご自分の弟子とされるのです。
 マタイは自分に注がれる、イエスの眼差しに、他の人の視線とは違うものを感じ取ったのでしょう。「私に従いなさい」というイエスの言葉にただちに従いました。そして、マタイはイエスを自宅へと招き、罪人と見なされていた者たちと食卓を囲み、真実な友となられたイエスと、楽しいひと時を過ごします。
 その様子を見ていた律法学者たちは、イエスのしていることに疑問を持ち、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか。」と尋ねます。彼らは、徴税人や罪人と呼ばれる者たちと、食事でもすれば、自らも罪人の一人になってしまうと考えていたからです。
 そこでイエスは、「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」と答えますが、この言葉を聞いたマタイたちは、同じ食卓を囲むという喜びと共にこの言葉をいただくことで、さらに喜びが増したことでしょう。律法学者たちも同じように、イエスの言葉を聞いたはずですが、彼らには自分は丈夫な者、正しい人という自覚がありましたから、自分たちにも語られた言葉として受け取りません。
 私たちも、イエスの言葉を聞く(聖書を読む)時、この律法学者のような心をもって、聞くことがあります。その言葉が、これまで以上にイエスに近づくきっかけになるはずなのに、耳を傾けるのをやめてしまうことがあります。聖書のみ言葉は、どのみ言葉も私たちを建て上げます。私たちを救いに導き、命を与えます。主の前に謙遜な者とされ、聞く耳を持たせていただきましょう。

4月29日
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 新しいぶどう酒、新しい皮袋 
   新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。      マルコ2:22

「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」との問いに、イエスは3つのたとえで答えます。21節の古い服に織りたての布で継ぎ当てをするなら、古い服が破れてしまうというたとえでは、イエスによって新しい喜びの時代が始まったことを伝えます。古い旧約の時代は、罪の悔い改めや戦いに負けた時、あるいは悲しみや自らの愚かさをあらわす時に、断食していましたが、イエスが現れたことで、その時代が終わったことを告げます。
 また新しいぶどう酒は新しい革袋に入れるたとえでは、強い発酵力を持つ新しいぶどう酒のような、生き生きとした命にあふれたイエスの到来が、喜びの出来事そのものであることを教えます。 イエスが断食をせず、徴税人や罪人と呼ばれている人たちと食卓を囲んだり(15節)、ご自身に与えられた神の権威をもって罪の赦しを宣言すること(5節)は、「古い服」を着て、「古い革袋」に固執していたファイリサイ派の人々や律法学者たち、また彼らから指導を受けていた当時のイスラエルの民の目には、まったく新しいものに映ったでしょう。
 その新しさをよりイメージしやすくするために、イエスは婚礼という誰もが喜びに満たされる時に、断食する必要があるのかというたとえを話されます。それは、真実な喜びをもたらすイエスが共にいて、神の栄光があらわされているのだから、悲しみや愚かさを覚える必要がなくなったことを告げるものです。
 また、イエスはこのたとえで、ご自身の十字架をも予告します(20節)。けれども、その十字架が、悲しみや愚かさを思う必要がなくなるものとさせました。十字架のイエスが、それらをご自分のものとされたからです。私たちが、婚礼の客として教会に招かれ、集い、礼拝する者とされているのは、その幸いを覚え、神のみ業をほめたたえるためなのです。

5月20日
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安息日の主、イエス 
 安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。                マルコ2:27、28
 
 安息日にイエスの弟子たちが麦の穂を摘むことがきっかけとなって、イエスとファリサイ派の人たちとの間で論争が起こります。
 「安息日を心に留め、これを聖別せよ。…六日の間に主は天と地と海とそこにあるすべてのものを造り、七日目に休まれたから、主は安息日を祝福して聖別されたのである。」(出エ20:8、11)、「…あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである。」(申命15:15)。
 ファリサイ派の人は、このみ言葉をもって、安息日を忠実に守るために真剣に考えました。そして、安息日を大切にしようとするあまり、細かいことにもうるさくなってきたため、ここで弟子たちがしていることに疑問を持ち、イエスに尋ねるのです。

 そこでイエスは、ダビデのことを例に挙げて、人を縛るために規則があるのではなく、人を生かすためにあるのだとして「安息日は、人のために定められた。」と言うのです。そして更に、安息日の意義を、より確かなものとするために、「人の子は安息日の主でもある。」とも言うのです。イエスのこの言葉は、「真実な安息を与えるのが、私である」と受け取ることができる言葉ですし、その約束の言葉でもあります。
 私たちにとって安息日は、日曜の礼拝です。その礼拝を真実な安息が与えられる日として、私たちが聖別してまいりますなら、何にも代えがたい祝福された私たち(教会)にならせていただけます。

5月27日
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真ん中に立ちなさい
         真ん中に立ちなさい          マルコ3:3

安息日に、イエスが片手の不自由な人を癒された物語です。彼はイエスを陥れようとファリサイ派の人々によって、イエスの前に連れて来られたと考えられたりするのですが、イエスはそのことをも承知の上で、あえて、この病の人を癒されます。
 なぜ、イエスがこのようなことをされたのかというと、何よりも彼のことを考えたからです。彼にとって何よりの「善」、「命を救う」ことは病が癒されることでした。そのためには、安息日にしてはならないと決められていたことをも超えて、イエスはご自身の「善」をなさるのです。
 その様子をうかがい見ていたファリサイ派の人々は、イエスが尋ねた「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」という質問にに何も答えません。そうした彼らの態度にイエスは深い悲しみを覚えつつ、怒るのです。病の人を目の前にしても、彼のために「善を行い」、「命を救う」ために何かをしようとすることすら考えない彼らの頑なな心を嘆くのです。
 彼らのそのような心を知りつつイエスは「真ん中に立ちなさい」と言い、病の人を癒すのです。この言葉は、直接には病の人、本人に向けて言われた言葉ですが、そこにいるすべての人々、特にファリサイ派の人々にも投げかける言葉といえます。彼らの頑なで強情な心が砕かれ柔らかくなるように、イエスのもとへ彼らをも招く言葉といえます。
 イエスは今も、私たちにこの言葉を語り、「命を救う」ために、ご自分のもとへ引き寄せようとされています。「真ん中に立ちなさい(私の前に出てきなさい)」と語るイエスのもとに、近づく私たちでありたいと願います。

6月3日
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神の子、イエス  
 汚れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。 マルコ3:11、12
 
 イエスのもとに国や民族を超えて、多くの人が押し寄せてきます。彼らの思いを代弁するように汚れた霊は、イエスに「あなたは神の子だ」と言いますが、イエスはそれを言いふらさないように厳しく戒められます。当時のギリシャ・ローマの世界観で「神の子」と呼ばれる時、その人は、ここでイエスがされているような奇跡をしたり、病を癒したりする人が神の子と呼ばれることがありましたし、時の支配者ローマ皇帝を神の子と呼ばせることがありました。また、被支配者にしたら、圧倒的な武力で支配する者から解放してくれる人を神の子と呼ぶことがありました。
 イエスが厳しく戒められたのは、そうした理解が人々の中で広まっていくのを拒んだからです。では、イエスはご自分のことを何と言っていたのかというと、マルコの福音書では、「人の子」という言い方でした。そこには、マリヤという一人の女性から生まれた人、また、人が経験する喜怒哀楽をイエスも経験する意味があり、さらには、共に喜び、共に悲しむ者となられる意味も込められているのが「人の子」という呼称です。
 
 私たちがイエスを慕って近づき、祈る時、その心にあって期待するのは、具体的な問題を解決する「神の子」イエスが多いのかと思います。そうした心でイエスに近づくことは、ここで実際にその問題を解決するイエスがおられますから、悪いことではないのですが、自分の都合でイエスに近づいたり、離れたりするようなことにもなってくるでしょうから、イエスを唯一の寄る辺として信じないで、自分の暮らしをサポートする支援者の一人としてしか見なさないのかと思うのです。そこで、イエスが人々に望むのは、人生の同伴者としての「人の子」イエスです。また、同時にイエスは「神の子」としての道も歩み通されます。それは圧倒的な力でねじ伏せる「神の子」ではなく、共に悩み、共に苦しみ一つ一つの課題を共に乗り越えられる神の子の歩みです。
 私たちは、イエスへのこうした理解を見紛わないためにも、キリストの体なる教会につながっている必要があります。神の子として歩み、人の子として歩まれるイエスは、どちらにおきましても、私たちのことを常に顧みられるイエスです。私たちは、このイエスの御姿をこそ忘れずに、これからもイエスと共に歩む者でありたいと願います。

2018 6月10日
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イエスの弟子たち
 そこで、十二人を任命し、使徒と名付けられた。彼らを自分のそばに置くため、また、派遣して宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせるためであった。  マルコ3:14
 
 イエスによって選ばれた12人の弟子ですが、彼らがどんな人物だったのかを教える聖書の記述は、ほとんどありません。また、その人となりを教えてくれるみ言葉が、いくらかでもある人は、その人の良いところはあまり記されておらず、むしろ悪い部分が記されていることが多いのです。イエスを裏切った人、イエスに疑問を持った人、イエスを知らないと言った人、イエスに偏狭な期待を寄せる人、実にさまざまです。
 それに対して、他の弟子たちの素性はほとんど分かりません。けれども、この「よく分からないこと」が私たちにとって大切なことを教えてくれます。それは、彼らがごく普通の人だったということです。イエスに選ばれたというと、どれだけの素晴しい人格者なのかだとか、知識がある人なのかなどを考えたりしますが、実際には、そうした人はまったくいないのです。この事実は、誰もがイエスの弟子となれることを教えてくれます。
 そのようにして、弟子とされた者のすべきことも3つ記されています(ご自分のそばに置くこと、宣教に遣わすこと、悪霊を追い出す権能を持たせること)。宣教は、イエスの福音を宣ベ伝えることです。悪霊を追い出す権能は、イエスはまさにその権威をもって、悪霊が働くのを退けられましたが、私たちが覚えたいのは、その御業をする時のイエスの心です。イエスがその人に近づく時、どんな心で近づいたのかというと、その人を慈しみ、愛する心です。
 そのイエスの心をもって、私たちもどなたかに寄り添っていく時、今の時代にも合った悪霊を追い出す権能を持つといえるのかと思うのです。また、そのためには、イエスのそばにこの身を置き続けることが大切です。イエスのみ言葉に触れ、主が臨在される教会生活を第一にするのです。そのようにして、私たちも、イエスのそばにいる時を聖別してまいりますなら、なおこれまで以上に、イエスへの信仰が整えられてまいります。

6月24日
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キリストを心の家に 
はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。
                                              
マルコ3:28
 
 イエスが悪霊に取りつかれていることを聞いたイエスの身内が、イエスを取り押さえにやって来ることから始まるみ言葉です。なぜ、彼らがイエスを取り押さえに来たのかを考えると、これまでイエスが住み慣れていた場所、就いていた大工の仕事から離れ、方々を巡り歩き始めたからであり、他の人ならあまり近づきたがらないような人と行動を共にしたり、当時の人たちの指導的役割を担っていた律法学者に対抗することをしていたからです。
 また律法学者は、イエスのもとに集まる群衆を、イエスから離すことを画策し、イエスに悪霊が取りついていると言い出します。
 そうした人々に対し、イエスは自身がどんな存在なのかを答えられます。26節までは、悪霊に支配されている者が、悪霊を追い出せるはずがないことを論じ、27節では、強盗が家に押し入るたとえを通して、イエスがまるで強盗のように、その人の心の家に入り込むことを教えます。
 
 イエスがこれほどまでに強引に人の心に侵入しようとしてくるのは、その人を強い人(悪霊)のもとから引き離したいからです。サタンの力、罪の力に屈してしまっている私たちを、いかなる罪も赦す権威を持っているご自分のもとに、なんとしてでも引き寄せたいと思っているからです。こうしたイエスの固い決意を前にしたら、どんなに頑なともいえる人も、イエスの罪の赦しとイエスの救いを認めざるを得なくなります。
 今、私たちが、見つめ直したいのは、私たちの心にある家に誰に入ってもらっているかです。強い人ではなく、罪の赦しを与え、真実な平安を届けられるイエスを迎え、イエスと共に生きる者とさせていただきたいと願うものです。

7月1日
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イエスの家族、神の家族
 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」   マルコ3:34、35

上記のみ言葉や「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)と言うイエスを思うと、これまで共に暮らしてきた家族を否定するような印象を受けますが、そうではありません。ここでイエスは、家の中に入り、イエスの周りに座り、その話を聞こうとする気持ちが大切だということを知ってもらおうとしているのです。
 そして、その気持ちは「神の御心を行う人」という言葉に集約されます。「神の御心を行う人」とは、罪から救うために、イエスをこの世に遣わされた神の恵みに感謝するが故に、神の律法を守ることいえますが、換言すれば「神の御心を行う人」とは許しと愛に生きる人ということもできます。
 
 許しと愛・・・。これは教会でも世の中でも大切なことですが、時に、許しと愛に生きようとする時、相手(の気持ち)が中心にならず、許す自分、愛する自分が中心になりやすいのかと思うのです。けれども教会で、このことが言われる時に中心に置かれるのは、イエス・キリストです。イエスが赦し、愛されたように、私たちもまた許し、愛することです。そのようにいいはするものの、クリスチャンとされた者が、このことに生き切れているのかというと、実はそうでもない場合も多いと思います。

 だからこそ、私たちはイエスの周りに座ることが欠かせないのです。この時、イエスの家族は家の中に入らず、外に立っていました。外に立っていたのではイエスの言葉は聞こえません。たとえ聞こえていたとしても、彼らの心には残らないでしょう。
  私たちにとって、イエスの周りに座るとは毎週の礼拝です。イエスがあらわされた赦しと愛に私たちも生きられることを願って、毎週の礼拝の席に着くのです。いえ、私たちは、もうすでに、神の家族としてこの席に着かせていただいているのですから、許しと愛という神の御心を行う者とされつつある自分にも気付くのではないでしょうか。

7月8日
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イエスの家族、神の家族
 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神の御心を行う人こそ、わたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」   マルコ3:34、35

 上記のみ言葉や「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)と言うイエスを思うと、これまで共に暮らしてきた家族を否定するような印象を受けますが、そうではありません。ここでイエスは、家の中に入り、イエスの周りに座り、その話を聞こうとする気持ちが大切だということを知ってもらおうとしているのです。
 そして、その気持ちは「神の御心を行う人」という言葉に集約されます。「神の御心を行う人」とは、罪から救うために、イエスをこの世に遣わされた神の恵みに感謝するが故に、神の律法を守ることいえますが、換言すれば「神の御心を行う人」とは許しと愛に生きる人ということもできます。
 許しと愛・・・。これは教会でも世の中でも大切なことですが、時に、許しと愛に生きようとする時、相手(の気持ち)が中心にならず、許す自分、愛する自分が中心になりやすいのかと思うのです。けれども教会で、このことが言われる時に中心に置かれるのは、イエス・キリストです。イエスが赦し、愛されたように、私たちもまた許し、愛することです。そのようにいいはするものの、クリスチャンとされた者が、このことに生き切れているのかというと、実はそうでもない場合も多いと思います。
 だからこそ、私たちはイエスの周りに座ることが欠かせないのです。この時、イエスの家族は家の中に入らず、外に立っていました。外に立っていたのではイエスの言葉は聞こえません。たとえ聞こえていたとしても、彼らの心には残らないでしょう。
  私たちにとって、イエスの周りに座るとは毎週の礼拝です。イエスがあらわされた赦しと愛に私たちも生きられることを願って、毎週の礼拝の席に着くのです。いえ、私たちは、もうすでに、神の家族としてこの席に着かせていただいているのですから、許しと愛という神の御心を行う者とされつつある自分にも気付くのではないでしょうか

7月15日
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キリストの明かりを灯して
 また、イエスは言われた。「ともし火を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためだろうか。燭台の上に置くためではないか。マルコ4:21
 
 イエスはともし火と秤のたとえをされました。ともし火のたとえでは、ともし火をどこに置くのかが問われ、秤のたとえでは、自らの秤がどういった秤なのかが問われています。
 ともし火のたとえでイエスが望むのは、「私は世の光」(ヨハネ8:12)と言われるイエスのともし火を燭台の上に置くことですが、それを拒む人たちがいました。律法学者たちです。彼らは、ともし火は必要ないと考えました。自分たちはもうすでに、神の民とされ、ともし火を燭台の上に置いていると自負していたからです。
 また弟子たちも、イエスというともし火を燭台に置き続けることに、恐れを覚えつつありました。彼らの恐れの極みは、十字架に向かうイエスを見た時(14:43〜)にあらわれますが、律法学者たちのイエスへの謀略に感付きつつあった、この時にも、芽生えてきていたのでしょう。そうした弟子たちの心を知ったイエスは、ともし火を燭台の上に置きなさいと勧めるのです。
 また、秤のたとえで言われているように、私たちは自分の秤というものを持っています。その秤に従って物事を考えます。けれども、神との関わりという信仰のことで、自分の秤を持つとしたらどうでしょうか。そうすると、時にその秤のゆえに、神の働かれる範囲を狭めてしまうことがあるのかと思います。本来なら、無限の豊かさと広がりがある神の恵みが、私たちの方で限定させてしまうことがあるのではないでしょうか。
 ともし火を燭台に置くことで、安心するのは自分だけではなく、そのともし火を見る周りの人も安心します。私たちが自分の秤の枠を超えて、イエスを信じ、聖書のみ言葉を信頼する姿は、自らの平安を勝ち取るだけではなく、その信仰は周囲にも伝播していくのです。

8月5日
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神の国のたとえ
 「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。  マルコ4:26

イエスがこの世に来られたのは、神の国の到来を告げるためでした(1:15)。そして、イエスがなさる不思議な御業の数々は、やがて神の国で受ける祝福の一部があらわされたものといえますが、イエスはさらに、神の国の豊かさを知ってもらうために、2つのたとえを用いて、神の国を語ります。
 神の国、それは、地面に種を蒔けば、ひとりでに芽を出し、実を結ぶようなものです(28節)。「ひとりでに」とは、自動的にということです。芽が出るだろうか、実がなるだろうかと心配する必要などなく、「ひとりでに」実は結ばれていくというのです。また、「夜昼」(27節)ともありますが、ここには、イスラエルの民の生活習慣があらわされています。彼らの一日は、夜を迎えることから始ります。夜は休む時です。人は心配事があっては十分には休めません。
 種の成長のことでいえば、昨日(日が昇っている間)は、種を蒔くことに精を出して働き、そして、日が暮れて、新しい一日が始まる時、「さあ、どうするか」ではなく、豊かな実りについては、すべて、神に任せて、休むことから一日が始まるのです。
 また、からし種は1mmにも満たない小さな種ですが、その種が成長すれば、その枝に鳥が巣を作るほどに大きくなります(31、32節)。
 この2つのたとえを通して、イエスが語ったのは、神の国の豊かさ、祝福の大きさです。豊かな実りは、神が責任をもって「ひとりでに」実現しようと約束されているのですから、心配する必要などないのです。
 私たちが、神に対して、また神の国に対して、こうした豊かなイメージを持たせていただくなら、なおはっきりとその素晴らしさに気づかされてまいります。

8月19日
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イエスを運ぶ弟子たち
 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。マルコ4:36

「向こう岸へ渡ろう」と言われたイエスは、弟子たちと共に舟に乗り、夕方のガリラヤ湖を出発します。ところが途中、急に強い風が吹いてきて、波は高くなり、今にも舟が沈みそうになります。弟子たちは、舟が沈まないように懸命な努力をしますが、状況は好転しません。イエスは、そうした状況にも関わらず、舟の艫の方で寝ています。
 自分たちの力だけでは、どうにもならないことが見えてきた時、弟子たちは、イエスに「私たちがおぼれてもかまわないのですか」と声を掛けます。するとイエスは起き上がり、湖に「黙れ。静まれ」と言うと、湖は凪になり、弟子たちに対しては「なぜ怖がるのか、まだ信じないのか」と言われるイエスです。
 イエスは、彼らの信仰の不十分さを残念に思って、こう言うのですが、イエスが期待した信仰は、どんな信仰なのでしょうか。ここで弟子たちがしていることをしないことが、イエスが期待する信仰なのかというと、そうではないでしょう。では、どんな信仰かというと、それでも舟を前に進めようと一生懸命に努める信仰です。自分たちが乗っている舟には、イエスも乗っていることを認めつつ、安心して、今やるべきことをしていくのです。いずれにしても、舟を前に進めようと努める弟子たちの姿は、まるで「向こう岸へ渡ろう」と言われたイエスの言葉に巻き込まれるようにして、今やるべきことをしているようです。
 イエスが向こう岸へ渡ろうとした目的は、神の国の福音を宣ベ伝えるためです。ですから、弟子たちが舟を漕ぎ続けているのは、向こう岸で福音を宣ベ伝えようとするイエスの働きの一端を担っているともいえます。
 私たちクリスチャンが願うのは、イエス・キリストの福音が広く宣ベ伝えられていくことです。伝道の方法は多様にありますが、何よりもの伝道は私たちが礼拝をささげ続けることです。そうした心で、教会に集い、神の御名を賛美してまいりますなら、私たちも伝道の一端を担う弟子されていきます。福音書にあらわされている神の御業と同じ御業が、この厚木教会でもあらわされていくことを信じて、神第一、礼拝第一の歩みをさせていただきたいと願います。

8月26日
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レギオンの癒し
 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」  マルコ5:18、19
 
 悪霊に取りつかれていた人のこれまでの暮らしを思うと、墓場を住まいとし、つながれていた鎖をも引きちぎり、昼夜絶え間なく叫び、自らを石で打ち叩いていたというのですから、とても普通の暮らしとはいえません。こうした普通ではないみ言葉に出会うと、あまり身近に感じないと思います。私たちの普段の暮らしとはかけ離れたものだからです。けれどもイエスとの出会いが、これまでの生活を変え、救いの喜びに生きる者とされたという視点で、この物語をみるなら、ここに私たちの姿を見るのです。
 悪霊に取りつかれた人の救いと、私たちが救われクリスチャンとされたことに差はありません。彼の方が多く救われ、私たちの方が少ないということはなく、同じ救いです。イエスに出会う前、彼は「かまわないでくれ」(7節)という暮らしをしていました。これは「あなたはあなた。私は私」という意味合いがあり、さらにいうなら、「私は神など必要なく、神なしでやっていけるからかまわないでくれ」ともいえることです。けれども、そう言い放つ彼が、どんな暮らしをしているのかというと、まともな暮らしをできずにいるのです。
 彼が経験したことと、同じ経験をしたパウロは、「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている。もし、わたしが望まないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの中に住んでいる罪なのです。」(ロマ7:19、20)と言います。これはイエスに出会う前のパウロの心の叫びです。この叫びと重なるようにして、今悪霊に取りつかれた彼も墓場で叫ぶのです。ですから、普通とはいえないこのみ言葉にも、イエスに出会う以前の私たちの姿が重なってくるのです。
 正気を取り戻した彼は、イエスに同行することを願いますが、イエスはそれを許しません。この地に残り、自分にあらわされた主の憐れみを知らせるようにと告げます。イエス・キリストの福音(喜びの知らせ)を伝えることができるのは、イエスによって救われた者だけです。ここにも私たちの姿を重ね合わせたいと思います。神など必要ないと言っている人たちに、福音の喜びを手渡していきたいと思います。

9月2日
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主に向き合い、共に歩む
 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。…女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。マルコ5:24、33
 12年間出血の止まらない女性は、治療のために財産を使い果たしましたが、それでも病は治らず、またこの病のために人々からの偏見や差別の中、生きていました。そうした理由から、彼女は群衆に紛れて、ひっそりとイエスに近づきます、そしてイエスの着ている服に触りますなら、すっかり癒されました。
 そのことに気付いたイエスは、辺りを探します。女性もしばらく隠れていましたが、隠し切れないことが分かってきた時、そのとき初めてイエスと向き合うことになります。ひそかにイエスに近づいた時には、向き合っていたとはいえません。彼女はイエスと向き合い、自分の身に起こったことを話します。このようにして、イエスと向き合った彼女に、イエスは、救いを手渡していくのです。
 また会堂長のヤイロは、娘の癒しを求めてイエスに願い出ます。その願いを受け入れたイエスは、彼と一緒に歩き始めました。共に歩くことは、物語上は、何でもない当たり前のことなのですが、救いや信仰について考える時には、一番基本的で大切なことを教えています。イエスと共に歩く時、救いに確信が与えられ、信仰も揺るぎないものとされていきます。
 初め彼らがイエスに近付いていったのは、癒してもらいたかったからです。それは、御利益を期待するような誤った信仰心からでした。けれども、そうした彼らをも受け入れ、彼らと向き合い、共に歩むイエスがおられます。こうしたイエスとの一対一の関係が、それぞれに作り上げられていく時、「あなたの信仰が、あなたを救った」という信仰に、イエスが整えてくださいます。
 私たちも、聖書を通して、イエスと向き合い、共に歩む者とさせていただきたいと思います。その時に、私たちの信仰は、さらに強められていくはずです。

9月9日
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神の御業が始まるところ
 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。                       マルコ6:5
 イエスは故郷のナザレに帰ってきました。小さな村でのことですから、どこの家がどんな仕事をしているのかとか、誰がどこの子どもなのかは、皆が良く知っていたと思います。そうした村の人たちが、イエスをマリヤの子と言います。
 なぜ、彼らはイエスを父であるヨセフの子とは呼ばず、母である名を用いてマリヤの子と呼ぶのかというと、いろいろに考えられますが、1つには、彼らはイエスが生まれた経緯を知っていたからです。クリスマスに生まれたイエスは、聖霊によって身ごもったとはいえ、ヨセフと結婚する前のことでした。そのことを知っている彼らは、聖霊の働きを信じられず、家族を非難する思いを込めて、イエスをマリヤの子と呼ぶのです。
 ナザレの人たちがイエスを呼ぶのと、私たちが信仰をもって「処女(おとめ)マリヤより生まれ」と使徒信条で告白するのは、言葉は同じですが、その意味合いはまったく違ってきます。こうした彼らの様子を見たイエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」(4節)と言って、彼らの不信仰に驚かれます。
 イエスへの不信仰があらわれてくる時、そこで何が起こってくるのか、いえ、何が起こってこないのかというと、「そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。」(5節)です。「しなかった」ではなく、「できなかった」のです。イエスへの信仰がないところでは、イエスは働かないのではなく、働けないのです。救いのみ業は始まってこないのです。
 み言葉から、このことを知る私たちは、イエスへの信仰を確かにしなければなりません。私たちを罪より救う救い主は、イエス・キリストただ一人です。私たちが、イエスへのこの信仰をもって、真実な礼拝がささげられていく時、そこで、救いという神の御業は始められていきます。

9月30日
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弟子たちの派遣
  十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。       マルコ6:12
 イエスの弟子たちは、2人一組で各地に派遣されます。見知らぬ地で宣教するのは、互いに助け合い、支え合うことができますので、一人より二人で遣わされる方が良いのでしょう。また、彼らが遣わされるのにあたり、何も持たせずに派遣しました。普通の旅支度を考えたら、なんと無計画なことかと思いますが、弟子たちが遣わされる目的を考えるなら、何も持たないことも必要だったと思います。
 彼らが派遣されたのは、福音宣教のためです。神の国の恵みを宣べ伝えるためです。神を伝える彼らが、真実に神を信頼していなければ、相手には伝わらないでしょうし、話す言葉にも力は感じられないでしょう。ですから、弟子たちが各地に派遣されたのは、彼ら自身が神への信頼を学ぶときでもあったのです。そして、彼らが始めて会った人にお世話になることで、より明確に、神に信頼することの大切さを学んだはずです。
 また、弟子たちが宣教する時に語ったのは悔い改めでした。悔い改めは、神に立ち返ることです。罪を犯させる汚れた霊の支配から離れ、神に近づくことです。こうした悔い改めを語る彼らですが、悔い改めを語れるほどに、他の誰よりも神の近くにいたのかといったら、そうではありません。弟子の代表のような立場にいるペテロでさえ、この後、イエスから「サタンよ、引き下がれ」(8:33)と言われることもありました。悔い改めを語る弟子たちが、この派遣を通して、なお悔い改めが必要な者であることに気付くのです。
 イエスは、悔い改めの言葉を義人にではなく、罪人である弟子たちに託すのです。今私たちも、常に悔い改めなければならない者であることを自覚するのと同時に、神は、私たちにも、悔い改めを宣べ伝えることを委ねられているのです。

10月7日
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洗礼者ヨハネの受難 
 この福音のためにわたしは苦しみを受け、ついに犯罪人のように鎖につながれています。しかし、神の言葉はつながれていません。                  Uテモテ2:9
 兄妹の奥さんヘロディアを奪い取ったヘロデに対し、周囲の人たちはヘロデが領主という立場から、何も言えずにいましたが、洗礼者ヨハネは違いました。ヨハネはヘロデに忠告しました。ヨハネの言葉を聞いたヘロデは当惑します。彼が当惑したのは、今まで誰からも言われなかった自分の罪を、ヨハネが指摘し、悔い改めを迫ったからです。
 また、ヘロデは当惑するだけでなく、ヨハネの言葉を喜んで聞きました(20節)。自分の罪を指摘される言葉は、あまり心地良いものではないのかも知れませんが、その言葉は心の目を開かせ、本当に変わるきっかけとなるでしょうから、聞く耳を持てたヘロデは、素晴らしいと思います。
 けれども、彼がここでしたのは、ヨハネの首をはねてしまったことです。ヘロデがしたことは、本心からではありません。ヨハネを殺したいと思っていたヘロディアの助言を受けた娘の願いからヨハネの首をはねてしまいました。それは自分の威厳や体裁などを気にするばかり、ヨハネを殺してしまったのです。
 ヘロデのしたことは、福音の前進にはマイナスに働くように感じます。けれども、イエス・キリストの福音は前進していくのです。この物語の前後では、弟子たちが福音を宣教したように、福音は各地に広がっていくのです。福音宣教のために尽力したパウロも自らは捕えられ、鎖につながれていましたが、「しかし、神の言葉はつながれていません」と確信しています(Uテモテ2:9)。
 また、ヨハネに対するヘロデの態度の延長線上には、イエスと民衆との関係にも重なってきます。ヨハネの言葉を喜んだヘロデのように、民衆もイエスの言葉や行為に喜びました。その両者が、「ヨハネの首を」と願われ(24節)、またイエスが十字架刑に処せられる時には、両者とも拒否しませんでした。
 私たちが聖書を読む時、ヘロデや民衆の姿に、自らを重ね合わせますなら、私たちの内にもある罪が明らかにされてきますが、同時に、私たちの内にも神の言葉(福音)の恵みが、広がっていくのです。

10月14日
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深く憐れむイエス  
 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。マルコ6:34
 「5000人の給食」、「5つのパンと2匹の魚」ということで知られているみ言葉ですが、この奇跡の始まりは、イエスが群衆を見た時、彼らが飼い主のいない羊のような有様を深く憐れまれたからです(34節)。
 飼い主のいない羊、それは迷っている羊です。飼い主がいないために、男だけで5000人もの人がいるのに、まとまっておらず、さ迷っているのです。迷うと不安になります。平安がなくなります。また恐れも生まれてくるでしょう。彼らの恐れや不安が、どこからきているのかというと、現在の生活の苦しさや見えない将来についてもあったのでしょうけれども、何よりもの不安、恐れは、真の飼い主である神を見失い、離れていることでした。
 こうした群衆の様子を知ったイエスが深く憐れむのです。彼らの抱える不安や恐れを、ご自分の痛みとするほどまでに、憐れまれるのです。それは、神から離れ、見失うことが、どれほどの恐れを招くことなのかを、イエスご自身がよく分かっておられたからです。
 ですから、この5000人の給食の物語は、イエスが多くの群集の空腹を満たす権能を持っておられる方だということ以上に、神を見失い、不安の中、生きている人たちを、イエスがどう見ておられるのかという、イエスの心を教える物語といえます。
 み言葉から、このイエスの心を受け取る時、私たちが不安や恐れを抱える時にも、憐れんでくださるイエスがおられます。そして、その憐みは、教会にあって、主にある兄弟姉妹とされた者の間で、さらには、イエスの愛をもって地域との関わりを持たせていただく時、より具体的にあらわされてまいります。
  神は、このみ言葉に見られるように、日ごとの糧をも備えてくださるお方ですが、イエスに信頼しつつも、不安や恐れを覚えてしまう私たちの心をも知っていてくださり、そこに解決の道を備えてくださる方であることを、確信させていただきましょう。

10月21日
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イエスの神顕現
 しかし、イエスはすぐ彼らと話し始めて、「安心しなさい。わたしだ。恐れることはない」と言われた。                                           マルコ6:50
 水の上の上を歩いて、弟子たちに近づかれたイエスは、そのまま通り過ぎようとされます。弟子たちを心配しているのなら、舟に乗り込み、助けたら良いようなものの、そうはなさらずに、通り過ぎようとされるのです。このイエスの態度に、自分が神であると示されています。
 というのも、かつて、神がご自分を顕現される時、イスラエルの民のそばを通り過ぎることが、あったからです(出エ33:22)。なぜ、神が通り過ぎるのかというと、人の罪のためでした。人は内にある罪のために、神を直接見ることはゆるされておらず、そのために神は、人のそばを通り過ぎることがありました。そうした神のなさり方と同じことを、ここでイエスがなさっていること、また「安心しなさい、私だ、恐れることはない」とのイエスの言葉にも、「私は、有って有る者」(出エ3:14、口語)と言われた神の言葉に通じますし、「恐れることはない」も神がよく語られた言葉ですから、この奇跡は、イエスが、ご自分が神であることを示されている奇跡といえます。
 イエスは確かにこうした態度で、弟子たちや群衆に近づくのですが、彼らは、弟子たちでいえば「パンの出来事を理解せず、心が鈍くなっていた」ために、イエスが神であることを認めるまでには至らず、群衆も自分が抱える苦悩で心は一杯になり、ただ目の前の苦しみから解放されたい一心で、イエスを優秀な医師くらいにしか考えることができないのです。
 ですから、ここでのイエスの心と人々の思いの間には、大きな隔たりがあると思いますが、それでもイエスは、彼らの心を知った上で、彼らの目の前の困難を解決されるイエスがおられるのです。このイエスのお姿は、私たちに対しても同じです。イエスによって救われた者されたとはいえ、イエスが神であることを忘れてしまうことがある私たちであっても、イエスは「私だ。恐れることはない」とおっしゃってくださるのです。

10月28日
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イエスのさばきの言葉
 皆、わたしの言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである。       マルコ7:14、15
 イエスの弟子たちが手を洗わずに食事するのを律法学者たちが目撃し、尋ねたことから、彼らとイエスのやり取りが始まります。律法学者たちが主張するのは、弟子たちの手の洗い方が、モーセの律法に基づいて受け継いできた言い伝えによる手順と違っていたことです。彼らは神殿という聖なる場所での所作だけでなく、日常生活においても詳細な立ち居振る舞いを規定しました。こうした規定の始まりは、神から授与された律法を遵守するためでしたから、悪くはなく、むしろ良かったくらいなのですが、代々受け継がれていく中で、その規定が細かくなっていきました。
 彼らがなぜ、それほどまでに規定を守ることにこだわるのかというと、人の目が気になるからです。手の洗い方でいうと律法学者たちが定めたルールに沿ってできているなら、ほめられるし、外れているなら、まるで罪人のように扱われるからです。イエスの弟子たちが、そのルールを気にしなかったために、律法学者は師であるイエスに尋ねるのです。
 イエスはその質問に答えますが、イエスが話された「捨てて」、「ないがしろにした」、「無にしている」(8、9、13節)などの言葉を思うと、大変厳しい言い方ですし、教え諭す程度の言葉ではなく、律法学者たちをさばく言葉といえます。

聖書には、時々、私たちの心をも試されるような厳しいみ言葉があります。私たちがそのみ言葉を受け止めて、自らを振り返りますなら、そのみ言葉の通りに生きられていない自分に気付き、心は重くなると思います。それは、そのみ言葉を聞くのが嫌だというのではなく、その厳しいみ言葉に向き合う時、自らの弱さ、十分ではないことに気付かされるからです。ここで、イエスが律法学者をさばいたように、私たちもさばかれていることに気付くからです。
 さばきの言葉を聞くのは、誰もが喜びませんが、自らの至らなさに気付くことは、とても大切です。イエスの十字架の意味が、明確に分かってくるからです。私の罪の贖いとして、イエスが十字架に架かられたことが見えてくるからです。さばきの言葉に立ちすくむ私たちを、立ち上がらせるイエスの十字架を仰ぐ者とさせていただきましょう。

11月4日
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食卓の下の子犬でも
 主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。    マルコ7:28
 シリア・フェニキアの女性の娘が癒されるみ言葉です。その癒しがなされるのにあたり、イエスと女性との間で論争が繰り広げられます。イエスの論争相手と聞いて、私たちが思い浮かべる典型的な相手は、ファイリサイ派の人や律法学者たちですし、その結末も常にイエスが最善の答えで、彼らを論破しているのを思い浮かべますが、ここでの論争相手は異邦人であり、また立場が弱く名もない女性です。しかも、その論争で、精一杯の言葉をもって説得したのは女性の方でした。
 イエスが彼女に言った「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」(27節)の言葉は、一見、彼女には冷たく聞こえる言葉ですが、実はそうでもなく、「まず」という言葉は優先順位があることを教える言葉ですが、さらには、その「次」があることをも教えてくれます。まず、子どもたち(イスラエルの民)に福音を告げ知らせ、次は「小犬」(異邦人)にもその恵みが広がっていくことをも教えてくれるのが、イエスの言葉なのです。
 そして、このイエスが言われた言葉のままに食卓の光景を思い浮かべた彼女は、「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」(28節)と言います。この女性の言葉には、イエスに自分の人生を導く「主」と信頼する心があります。また、心だけでなく、イエスの足元にひれ伏すという態度にも現れています(25節)。こうした信仰をもってイエスに近づく時、民族や国籍、立場の違いを超えて、神の御業が始められていくのです。
 私たちも、真実な命につながる光を差し込んでくださるイエスに、「主よ」と呼びかけ、謙遜な者とされてイエスの前にひざまずく者とさせていただきたいと願います。

11月18日
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何もかも素晴らしいイエス
 そして、すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」      マルコ7:37
 イエスの福音宣教の旅は続きます。イエスが旅をしたティルス、シドン、デカポリス(ゲラサ人の地)、ガリラヤ湖東岸は、主に異邦人が住む土地です。そこでも、イエスは多くの人を癒し、多くの教えをされ、土地の人々からは歓迎されます。これまで、ユダヤの民が住む地域でも、同様の働きをして、人々に歓迎されますが、そこでは、いつもと言えるほどにファイリサイ派の人や律法学者たちの横槍が入っていました。けれども、今この時には、彼らの邪魔が入らずに、穏やかな旅を続けられるのです。
 その旅の途中、イエスは一人の人を癒します。聞こえない耳にご自身の指を入れ、もつれる舌に触れて癒されるのです。患部に触れずとも、癒すことができるイエスですが、ここでは敢えてそのようにされます。それは話せないことで、また聞こえないことで経験してきた彼の苦悩をご自分の苦悩とされているのです。
 この奇跡を通して、本人だけでなく、周りの人々も口を揃えて「この方のなさったことは、すべてすばらしい」とイエスの御業をほめたたえます。彼らが証しするこの言葉は、明らかに聖書のみ言葉に根差した言葉です。彼らにとって、聖書はあまり馴染みはなかったでしょうけれども、イエスから聖書の話を聞いているうちに、彼らの信仰の耳が開かれ、信仰の言葉を話せるまでにされていくのです。イエスによって福音(救い)が届けられる時、こうしたことが起こってくるのです(イザヤ35章参照)。
 私たちの耳は、確かに聞くことはできますし、口もそれなりに話すことはできます。けれども、時に、信仰の耳をもってみ言葉を聞くことができなくなり、信仰(愛)の言葉を話そうとしても、舌がもつれてしまうことがあります。そういう時にこそ、私たちはイエスの御側近くにこの身を置く必要があります。私たちの耳や口を癒し(きよめ)続けてくださるイエスに、なお近くある者とさせていただきましょう。

12月2日
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救い主の名、その働き
 ひとりのみどりごがわたしたちのために生まれた。ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。権威が彼の肩にある。その名は、「驚くべき指導者、力ある神、永遠の父、平和の君」と唱えられる。                                           イザヤ9:5
 待降節によく開かれるみ言葉の1つです。4つの言葉をもって救い主の特性を教えます。1つ目は「驚くべき指導者」です。驚くべきとは人知を超えた素晴らしさという意味があり、指導者はカウンセラー、プランナーといった意味があります。カウンセラーで考えるなら現在の良き相談相手、プランナーなら将来の道を指し示すといった印象があります。ある時、ペテロはイエスに「あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。」と言いました(ヨハネ6:68)。このみ言葉は、イエスこそ人を真実に生かす命があることを教えるものですが、イエスがそうした方でおられるからこそ、私たちにとってかけがえのない相談相手なのです。
 2つ目は「力ある神」です。当時の状況でいえば、戦いで勝利をもたらす神になりますが、イエスはその勝利にはるかに優る言葉「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」(ヨハネ16:33)を言われ、力ある神として救いを実現されました。
 3つ目は「永遠の父」。永遠とは時々刻々という意味です。救い主はいつでもどこでも、どんな時でも父であり続けてくださる方です。イエスのたとえ話に「放蕩息子」(ルカ15:11〜33)がありますが、父は、息子が外国で贅沢三昧の暮らしをしている時、そこから落ちぶれて豚と一緒に暮らすようになった時、思い直して父の元に帰ってきた時、どの時にも彼の父であり続けました。救い主にはこうした特性があるのです。
 4つ目は「平和の君」です。平和とはシャロームです。シャロームにも平和の意味はありますが、充足という意味もあります。戦いや困難の中に立たされても、揺るがない平安で満たしてくださるのが、救い主イエス・キリストなのです。イエスは「わたしの平安をあなたがたに与える。わたしが与えるのは、世が与えるようなものとは異なる。」(ヨハネ14:27、口語訳)と言われました。また「キリストこそ私たちの平和であり」(エペソ2:14、新改訳)ともあります。
 イエスは、こうした使命を託されて、クリスマスに降誕されました。待降節を過ごすこの時、私たちが信じるイエス・キリストが、こうしたお方であることを受け止め直し、なおはっきりとした信頼を寄せてクリスチャンの歩みをさせていただきましょう。

12月9日
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救いの角、主をほめたたえよ 
 ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた。                ルカ1:68、69
 ザカリヤは、その子ヨハネが授かったのにあたり、3つの範囲に及ぶ救いのみ業に感謝して、ほめたたえよとの賛美をささげます。3つの範囲、過去、現在、未来です。過去になされた救いが、現在に実現され、未来にも成し遂げられていくことを賛美するのです。
 過去において神は、アブラハムにおいては「祝福の基となる」(創世記12:2)、「空の星の数ほどになる」(創世記15:5)などの語りかけをもって「訪れ」て彼らを救い、ダビデの時代では、神はダビデ本人やイスラエル王国に「訪れ」(68節)、主の憐れみのうちに置かれました。また、預言者たちの時代でも、背信を続けるイスラエルの民を捨て置かれず、預言者たちを通して、彼らのもとを「訪れ」ました。
 ザカリヤは、こうした過去の神の恵みを思うと、その恵みが現在の自分にも、また、民全体にも届けられていることを確信するのです。特に祭司をしていたザカリヤ、エリサベツの老夫妻に男児が授けられたことは、何にも優る喜びとなりましたし、この経験がザカリヤに賛美を生まれさせたのです。そして、ザカリヤは未来にも目を向け(75節、生涯)、神の祝福が自分自身や家族、民全体のみならず、全人類にまで行き渡っていくことを信じて、救いの角である主をほめたたえます。
 私たちのもとにも、神は「訪れ」、あらゆるところから解放して(救い出して)くださいました。この恵みを覚えて、ザカリヤがささげた賛美を私たち自身の賛美とさせていただきたいと思いますし、さらには、罪赦された者として、恐れなく主に仕え、礼拝する者(74節)とされていきたいと願っています。

12月16日
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罪の赦しによる救い 
 幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先立って行き、その道を整え、主の民に罪の赦しによる救いを知らせるからである。                ルカ1:76、77 
 ザカリヤが「幼子よ」と愛のある言葉をもって呼びかけて、その子ヨハネのこれからの働きをほめたたえるみ言葉です。
 ヨハネは、この後、お生まれになるイエスの道を整えます。「呼ばれる」は任命、派遣といった意味もあるので、ヨハネが「いと高き方の預言者と呼ばれる」のは、イエスや周囲の人たちに呼ばれるだけでなく、神からの任命を受けて、預言者として遣わされることといえます。
 神から召し出されたヨハネは「罪の赦しによる救い」がイエスにあることを、人々に知らせる働きをします。新改訳聖書では、知識という言葉が加えられ、罪の赦しによる救いの「知識」とされています。知識とは、ある分野について理解していることですが、ここでは体得するといった意味もあります。それは、アブラハムが、イサクをささげよと神に命じられたとおりにささげようとした時に、神は御使いを遣わし「アブラハムの信仰を今、知った」(創世記22章)と言い、アブラハムの信仰を神が体得したのと同じように、ヨハネに託された使命は、イエスにこそ罪の赦しによる救いがあることを、人々に体得させることでした。
 ヨハネはその使命に、誠実に、また忠実に生き通したのですが、人々は彼の言葉を聞くには聞きましたが、イエスに罪の赦しによる救いがあることを体得するほどまでに知った人はいませんでした。聖書が教えるこうした真実を思うと、イエスに罪の赦しがあることを体得するほどまでに知ることが、どれほど困難であるのかを思います。イエス・キリストのご降誕を待ち望むこの時だからこそ、私たちはこのことに思いを寄せて、私たちのイエスへの信仰を整えてまいりたいと願っています。

12月23日
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平和の道に導かれる救い主
 これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く。ルカ1:78、79

ザカリヤが「ほめたたえよ」と始められた賛美を終えるのにあたり、この後、お生まれになるイエス・キリストの働きの恵みをほめたたえます。
 イエスは、暗闇と死の陰に座す者たちのあけぼのの光として、お生まれになりました。当時の人たちは、誰もが暗闇の中をさまよっているようにして、暮らしていました。その暗闇から逃れるため、ある者は木や石などで造られた偶像を神とするようになり、ある人は神秘的な事柄を心の拠り所にしようとします。そうした暗闇に座している者たちに、一筋の光を届けるために、イエスはお生まれになるのです。
 また、「座す」について考えると、どうして座っているのかというと、暗いからです。足元が見えず危なくて怖いから座っているのです。その暗闇にイエスという光が差し込んできたら、きっと誰もが安心すると思います。うつむいていたのなら、顔を上げることができます。顔を上げれば足元が明るいことにも気付きます。そうしたら、その場から立ち上がることもできるでしょう。立ち上がれば、一歩踏み出すこともできます。
 あけぼのの光としてのイエスは、その光をもって、一歩踏み出そうとする者を平和の道に導きます。平和(シャローム)には、繁栄、和解、健康、また日常生活での挨拶などにも用いられるほど、さまざまな意味があります。
 イエスの光に照らされて歩む時、平安で満たされます。心も身体も健やかに保ってくださいます。暗闇に座り込む者を立たせてくださいます。真実な平和の道に導かれる救い主、イエス・キリストを心に迎え、クリスマスを喜ぶ者とさせていただきましょう。

12月30日
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主イエスの恵み、憐れみ、慈しみ 
 主は憐れみ深く、恵みに富み、忍耐強く、慈しみは大きい。永久に責めることはなく、とこしえに怒り続けられることはない。                         詩編103:8、9
 ここのみ言葉では、4千人の給食、イエスを試し、議論をしかけるファイリサイ派の人々、イエスに戒められる弟子たちがいます。
 4千人の給食は、5千人の給食(6:30〜44)とは別の物語ですが、とてもよく似ている物語です。イエスと議論をするファイリサイ派の人々は、ここだけではなく、以前にもしていましたし、この後も同じようなことを繰り返します(3:1〜、7:1〜、10:1〜、12:13〜など)。また、戒められる弟子たちの姿も同様に、繰り返されています(4:35〜、6:45〜、8:27〜など)。
 教会に来て、礼拝に出席するようになって、また、聖書を読むようになって、気付かされることの1つに、この「繰り返される」ことがあると思います。良き訪れである福音が書かれている聖書に、なぜ、こうした「繰り返し」があるのかというと、それが歴史的な事実だからです。
 イエスは「まだ、分からないのか。悟らないのか。心がかたくなになっているのか。目があっても見えないのか。耳があっても聞こえないのか。」(17、18節)と弟子たちに言いますが、この言葉は、弟子たちだけでなく、イエスに奇跡を期待する群衆しかり、イエスを試そうとするファリサイ派の人々しかり、イエスと関わりを持つすべての人に向けて言われていると思われます。
 聖書で、こうしたやり取りが繰り返される時、私たちが覚えたいのは、この「繰り返される」ところにこそ、イエスの愛があらわされていることです。イエスの愛、それは忍耐の愛です。上記の詩編のみ言葉にみられるように、憐れみ深く、恵みに富み、慈しみ大きい愛です。イエスは、このみ言葉のままに、そのご生涯を歩み通されました。
 このイエスの愛は、私たちにも向けられていて、み言葉を通して、繰り返しご自分の愛を示してくださいます。これからも、変わらないイエスの愛に期待して、歩ませていただきましょう。

1月6日
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一人に向き合うイエス   
 イエスは盲人の手を取って、村の外に連れ出し、その目に唾をつけ、両手をその人の上に置いて、「何か見えるか」とお尋ねになった。                   マルコ8:22
 ここで、イエスは一人の盲人を癒されますが、その態度は、あくまでも一人の人に向き合い、彼を思いやる心で癒されます。
 その心がどこにあらわれているのかというと、彼を一人村の外に連れ出したことです。村の中でこの奇跡がなされたとしたら、見物人も大勢いたでしょうから、そのまま見えるようになるなら、自分を取り囲む群衆で、彼が戸惑うことにもなります。そうならないためにも、盲人を外に連れ出します。
 また、癒しの方法も、ただ彼を思うやり方といえます。イエスはご自分の唾を彼の目につけ、両手を置いて癒されます。こうしたイエスのなさり方は、まるで、小さな傷を作って家に帰ってきた子どもを思いやる母親のようです。彼自身、幼い頃、そうした母の愛を受けて育てられたのでしょう。その感覚が、今、イエスを通して自分のまぶたにも感じるのです。
 さらにイエスは、彼の目が見えるようになる時、一度ではっきりと見えるようにされるのではなく、徐々に見えるようにされました。こうしたなさり方にも、イエスのまず盲人を第一にする思いがあります。それは、一度にはっきりと見えるようになるなら、そこでも戸惑ってしまうからです。
 イエスがなさる癒しの奇跡は聖書に多くみられますが、その方法は、いつも相手を思うやり方であり、人に見せるためでもなく、ご自分の権威を示すためでもありません。
  このイエスの心は、今、私たちにも注がれています。イエスのなさり方は、人と比べるなら違うことがあることもありますが、心は常に変わらず、私たちの信仰の目が、イエスを信じることの恵みが、さらにはっきりと見えるようになることを願って、私たち1人ひとりと向き合ってくださいます。新しい年も、イエスとのこうした関わりを大切にしつつ、進んでまいりましょう。

1月13日
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イエスをキリストとして     
 
そこでイエスがお尋ねになった。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「あなたは、メシアです。」                マルコ8:29
 イエスについて「洗礼者ヨハネ」だとか、「エリヤだ、預言者の一人だ」と言う人がいる中、ペテロは「あなたは、メシアです。」との言葉をもって、イエスへの信仰を言い表わします。この信仰告白は、フィリポ・カイサリヤでなされました。そこは、ローマ皇帝の土地とされて、皇帝を崇めさせるための壮麗な神殿が建てられていた所です。
 その神殿を前にして、イエスはペテロに尋ね、ペテロはイエスに応えるのです。イエスにしたら、その答えをうれしく聞いていたでしょうし、ペテロも実に大胆な告白をしたものだといえます。
 確かにイエスは、「メシア(キリスト、油注がれた者の意)」であり、油注がれた者として祭司、預言者、王としての働きを完成させられる方なのですが、ペテロは、このことを本当に深く受け止め、彼自身の思いや考え、生き方が変わるほどの告白だったのかというと、この後、イエスが、ご自分の受難について語られるなら、それをいさめ、イエスに叱られていますので、それほどの告白だったとは言い難いでしょう(31〜33節)。ペテロが、イエスがメシアであることを知って、真実に変えられていくのは、使徒言行録に入ってからです。
 私たちも使徒信条をもって、イエスをメシアとの信仰を言い表わしますが、私たちのすべてが変わるほどの思いが込められているのかといったら、そうではないこともあります。そうした時に、注目したいのは、イエスが言われた「引き下がれ」(33節)です。引き下がれとは、どこかに行けというのではなく、「私の前に立つな」ということです。「私があなたを導くから、私の背後にまわり、私を前に置きなさい」ということです。
 イエスの前に立つのではなく、主イエスを前に置いて、私たちの歩むべき道を歩ませていただく。これこそが、イエスをメシア、キリストと知って、変えられたキリスト者の生き方です。

1月20日
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自分を捨て、自分の十字架を背負って   
 それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。           マルコ8:34
 イエスは「自分を捨て、自分の十字架を背負って」と言いますが、この言葉をそのままに受け止め、自分に活かそうとしますなら、自分の願いや欲求を抑えることと考えますし、確かにそのように教える本もありますが、これは「自分を捨てる」ことの消極的な側面を教えているに過ぎないと思います。
 では、「自分を捨てる」ことのもう一つの側面(積極面)が何かというと、イエスに満たされていることです。イエスに満たされていることが、どういうことなのかというと、自分の十字架を背負うことと深い関係があります。十字架を背負うということで思い出さるのは、何よりもイエスが背負われた十字架です。イエスが何のために十字架を背負われたのというと、人(私たち)の罪のためです。自分のためではありません。
 私たちが、こうした意味でイエスと同じ十字架を背負うことはできませんし、背負えるはずもないのですが、私たちにとって十字架を背負うことが何かというと、相手のことを思うことといえます。身近な人を思い、その人のために祈り、また、喜ぶ者と共に喜び、泣く者と共に泣く(ロマ12:15)ことが、私たちのできる十字架を背負うことといえます。
 イエスは、私たちにこうした生き方を求められるのですが、それが、なぜなのかというと、どんな代価を払っても自分の命を長らえることができないからです(38節)。また、イエスがご自分の命をもって、その代価を払うと言ってくださっているからです(31節)。イエスが、こうしたことを言われるのは、私たちにそれほどの価値を見出されているからです。
 聖書で用いられる命という言葉には、いろいろな意味がありますが、何よりも息という意味があります。神が土のチリから造られた最初の人アダムを、生きた者とするために吹き入れられた息と同じ息です。私たちも真実に生きた者とされていくために、これからも神から、またみ言葉から、常に新鮮な息を吹き入れられた者とさせていただきたいと願っています。

1月27日
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イエスの救いが見えてくる 
 また、イエスは言われた。「はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、神の国が力にあふれて現れるのを見るまでは、決して死なない者がいる。」        マルコ9:1
 イエスは、これまで、ご自身の十字架と復活を言葉で語り、予告してきました(8:31)。けれども、それだけでは、弟子たちの理解は十分なものとはいえず、そのために、2節以降の変貌山の出来事を通して、イエスはこれから進んでいこうとされる十字架と復活による救いの恵みの豊かさを示そうとされます。
 「人の子もまた、父の栄光に輝いて聖なる天使たちと共に来るとき」(38節)、「神の国が力にあふれて現れるのを見るまで」(1節)は、再臨の主を教えるみ言葉ですが、同時に、神の子とされ、救いの喜びに生きる者の幸いをも教えています。
 「決して死なない者がいる」(1節)のみ言葉も、同様に、罪のために永遠の滅び(死)に向かっていた者が救われて、永遠の命に生きる者とされた恵みを告げるみ言葉といえます。
 このようにして、イエスは、ご自身が確かに歩んでいこうとされる十字架と復活の歩みと、その先に備えられている祝福を、変貌山の出来事を通して「神の国が力をもって現れる」のを、よりはっきりと弟子たちに見させられるのです。
 私たちも、イエスの十字架と復活によって、贖い出され、神の国に国籍を置き、永遠の命の恵みにつながれて歩ませていただいていますが、時に、心配や不安、思い煩いなどが、目の前に立ちはだかると、イエスの贖いが見えなくなってしまうことがあります。喜びと感謝と信頼を見出せなくなることがあります。

 けれども、そういう時にこそ、その恵みを言葉で語られるだけでなく、ご自身が語られた言葉のままに、変貌山を通してご栄光をあらわされた主イエスを見上げ、「死なない者」とされた恵みを覚え、そこに唯一の信頼を置く者でありたいと願っています。

2月3日
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栄光のイエスと共に
 弟子たちは急いで辺りを見回したが、もはやだれも見えず、ただイエスだけが彼らと一緒におられた。                                        マルコ9:8
 イエスの姿が変貌し、モーセとエリヤとの対話がされたこのみ言葉は、イエスが弟子たちに、ご自身の十字架による死と復活を予告された6日後の出来事でした。6日後とは、確かに6日が経過した7日目ということになりますが、聖書で「7日目」を考えると、神が天地創造をされた7日間を思いますし、このみ言葉は、大いに関わりのある7日目といえます。
 神にとっての7日目は、想像されたすべてを祝福し、完成された時でした。また、十字架を復活を予告した7日目を迎えるイエスにとっても、完成を予表させる時といえます。何の完成かというと、イエスのなさる救いのみ業の完成です。イエスの十字架と復活が救いを完成させるのです。
 それをはっきりとさせるために、旧約聖書の代表ともいえるモーセとエリヤの2人を登場させ、これまで繰り返しなされてきた民の救いの完成をイエスに見させるのです。また、光り輝くイエスの姿にも、救いの完成を見ます。イエスの子の姿は、復活した後の栄光の姿でもあるからです。
 こうした光景を目の当たりにした弟子たちは、正気を失ったようなことを申し出ますが、彼らがただ一つ気づいたことは、イエスが一緒にいることでした。「これは、私の愛する子、これに聞け」という天からの確約の言葉と共に、自分たちと一緒にいる栄光のイエスに気づくのです。
 
 私たちがクリスチャンとされて、イエスと共に歩む時、イエスはさまざまな祝福を備えて、その道を守られますが、何よりもの祝福は、イエスの栄光と同じ栄光にあずからせていただけることです。イエスの栄光とは、救いの完成、天の御国につながる永遠の命、栄化された姿です。

2月10日
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 不信仰な私を助けてください
 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」 
                               マルコ9:24
 イエスは、ここにいるすべての人の不信仰を嘆きます。弟子たちには祈りがなかったことを、イエスや弟子たちを監視するためについてくる律法学者や見物人のように弟子たちを取り囲む群衆には、愛のなさを嘆くのです。
 祈りと愛は、どちらも信仰の大切な一面を教えるものですが、どちらも十分とはいえない彼らの信仰を見て、イエスはさらに「いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」と言います。私たちがこういう言葉を言うような時には、もう我慢の限度を超えている時に出てくるのですが、イエスの場合は違い、相手を許し、受け入れる余地がある中での言葉です。ですから、イエスは、彼らの不信仰を悲しみつつも、まだ見捨ててはおられないのです。
 また「おできになるなら」と言う父親には、「できればと言うか」と言って、条件や制限をつけて信じようとする態度を戒められます。とは言うものの、これまで父親が子どものためにしてきて、そこで味わってきた「どうにもならない」という無力感を思うと、無条件で信じ貫くことは、なかなか難しいと思いますし、イエスが言う「信じる者」に誰もなれるものではないとすら思えてきます。
 そうした時に、この父親は「信じます。信仰のない私をお助けください」との言葉をもって、自らの不信仰を認めつつ、唯一の信仰の完成者であるイエスにすべてを委ねる決意、信仰告白をするのです。
 ここでのイエスの言葉は、一読するだけなら、大変厳しい言葉のような感じがします。けれども、イエスが大きな愛をもって子どもを癒されたのと同じように、どの言葉にもイエスの愛とあわれみの中に私たちを招き入れようとするイエスの心を見ることができます。
 私たちの信仰のよりどころは、信仰の完成者であるイエスを(ヘブル12:2)仰ぐことにあるという思いを持たせていただき、イエスにすべてを委ねて、信仰の歩みを続けさせていただきたいと願っています。

2月17日
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仕える者となって
 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」                  マルコ9:35
 イエスは再びご自分の死と復活を予告しますが、弟子たちはその言葉の意味が分からず、また恐ろしくて尋ねられませんでした。彼らはそうした話題から遠ざかりたい思い、また、イエスの変貌山の出来事を目撃したのが、3人の弟子たちだけだったため、残った9人の弟子たちとの間で、誰が一番偉いのかを議論し始めるのです。
 そうした彼らに、イエスは上記の言葉を言われます。こうしたイエスの教えは世の中の考えに逆行する新しい考えですし、私たちが、すべての人に仕える生き方に徹しきれるかというと、そう簡単になれるものではありません。
 そのため、さらにイエスは子どもを受け入れるようにとも言われるのです。子どもがないがしろにされていた当時のことを思えば、これもまた、新しい教えといえますが、ここで注目しておきたいのは「私の名のために」のみ言葉です。
 「私の名のために」は、私たちが祈る時、最後に添える「イエスのお名前を通して」と同じ意味のある言葉です。祈る際、どうして、この言葉を加えるのかというと、私たちと神との間を取り次がれるからです。イエスが架かられた十字架による罪の赦しが、私たちと神とをつなぎ、神に受け入れられる者とされたからです。このイエスが人との間にも立たれるので、子どもをも受け入れることができるのです。
 そこで、考えさせられるのは、イエスの見方と弟子たち(私たち)の見方の違いです。イエスの死については不吉さと絶望しか見出せない弟子たちですが、イエスにとっては、ご自身の死が福音(喜びの知らせ)となることを知っていました。
 私たちが、このようにしてイエスの心を持てるようになっていく時、真実にすべての人に仕える者とされていきます。

2月24日
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直き者にふさわしい賛美
主に従う人よ、主によって喜び歌え。主を賛美することは正しい人にふさわしい。詩編33:1
 
 「主を賛美することは正しい人にふさわしい。」といいますが、正しい人とは、「御言葉によって天は造られ、主の口の息吹によって天の万象は造られた」(6節)のみ言葉に見られるように、天地万物を造られた父なる神に目を向けられる人です。
 また、「主の企てはとこしえに立ち、御心の計らいは代々に続く。いかに幸いなことか、主を神とする国、主が嗣業として選ばれた民は。」(11、12節)、「主は天から見渡し、人の子らをひとりひとり御覧になり、御座を置かれた所から、地に住むすべての人に目を留められる。」(13、14節)のみ言葉のごとく、神を国(人類)の歴史や、そこに住む一人一人の歩みを導く方として認められる人が正しい人です。
 さらには、その一人一人の魂を救い、命を得させる方(19節)として主に信頼し、「いかに幸いなことでしょう、背きを赦され、罪を覆っていただいた者は。」(32:1)、「わたしは言いました、「主にわたしの背きを告白しよう」と。そのとき、あなたはわたしの罪と過ちを、赦してくださいました。」(32:5)との思いをもって、イエスのもとに行く人が正しい人です。
 正しさというと、正直さとか誠実さといったことを思い浮かべますが、賛美する者の正しさ、ふさわしさは創造主である神を覚え、救い主である神の御子イエス・キリストを仰ぐ人です。私たちの正しさは、自らの努力で勝ち取り、手にした正しさではなく、イエスご自身がなさった贖いの御業からくる正しさなのです。
 それですから、私たちは、イエスが復活された日曜の朝に礼拝をささげるのです。私たちのできることは、救いを完成されたイエスの恵みに、感謝と喜びをもって賛美することに尽きます。

3月10日
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私たちの味方 
 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。 
                              マルコ9:39
 ヤコブと共にボアネルゲ(雷の子)と呼ばれていたヨハネは、ここで、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」とイエスに報告しますが、それに対し、イエスは上記の言葉を言い、ヨハネを諭します。 
 なぜ、ヨハネはこうしたことをイエスに報告したのかというと、「自分はイエスの弟子だ」という自負があったからです。また、悪霊を追い出している者は従ってこないのだから、イエスの弟子ではないとの確信があったからです。けれども、ヨハネには忠告し、悪霊を追い出し、従ってこない者を受け入れるイエスがおられます。
 多くの解説書は寛容な心をもって受け入れることを教えるみ言葉だと教えますが、誰が誰を受け入れるのかというと、ヨハネが悪霊を追い出している者を受け入れることだと考えます。確かに、このみ言葉をそのように理解することは間違っていないのですが、相手を受け入れるという時、受け入れる側の者(ヨハネ)は、自分をどこに置いて相手を見ているのかというと、相手より自分を高い位置に置いて見ていることが多いように思います。

 弟子たちの中でさえ、誰が一番偉いのかを言い争っていたのですから(34節)、弟子以外の者に対しては一層、自分を高い位置に置いていたと思います。
 けれども、ヨハネをはじめとするすべての弟子たちの言動は、決して誉められたものとはいえず、悪霊を追い出している者と少しも変わりません。イエスはそうしたヨハネを受け入れ、弟子とされています。このイエスの心は、今、私たちにも注がれているのです。弟子となるのにふさわしくないような私たちを、愛をもって受け入れ、弟子としてくださっています。これこそ、私たちにとって大きな励まし、慰めです。

3月17日
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塩で味付けされて 
 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。 マルコ9:50
 
 イエスは、片手、片足、片方の目がつまずかせるなら捨ててしまいなさいと言って、地獄の恐ろしさを示しつつ、イエス・キリストの福音を信じ、その恵みの中に生きるように、また自身の内に塩を持つようにと語ります。
 文語訳聖書では地獄をゲヘナと訳しており、これは、都エルサレムの南、ヒンノムの谷を指します。ここでは、かつて偶像の神を崇めるために、いけにえとして子どもがささげられていました。また、エルサレム中のごみ、廃棄物などが投棄されたため、地獄さながらとなっていきます。神の祝福で満たされているエルサレム神殿のすぐ隣で、地獄を思わせる光景があらわれてくるのです。イエスがこうしたことを語ったのは、地獄の恐ろしさを伝えると共に、身近にあることをも教えるためです。
 イエスはさらに弟子たちに、自分の内に塩を持つようにと言います。地獄のようなところに遣わされる弟子たち自身を塩をもってきよめ、また、「塩で味付けされた快い言葉を語りなさい(コロサイ4:6)」のみ言葉のごとく、親切で快い言葉、神の恵みが宿るような言葉を語るようにと言うのです。
 そして、そうした言葉が語られる所で、主の平和が実現されていくのです。かつて神がアブラハムに「あなたは祝福の基となる」と約束されたように、私たちも、自信の内に塩を持って、恵みの言葉を語っていく時、主の平和が現実のものとされていきます。

3月24日
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誰もが助け手となって
 主なる神は言われた。「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」                                                     創世記2:18
 ファリサイ派の人々がイエスを試すために離縁について尋ねます。彼らがこのことをイエスに尋ねたのは、洗礼者ヨハネが領主ヘロデによって殺されたということがあったからです(マタイ14:1〜12)。彼らは、こういう横暴な領主を利用して、自分たちの活動の邪魔になると考えていたイエスを葬り去ろうとするのです。
 イエスは、彼らが拠り所としていた律法を、さらに遡る人が創造される場面を語り、エバがアダムの助け手として造られたことを告げます。助け手とは、どちらかが上で、どちらかが下という関係ではなく、お互いに向き合う関係です。互いに向き合い、共に歩んでいくのです。
 そして、この両者の関係は夫婦間に留まるものではなく、どの人との間でも築いていくべき関係ですし、クリスチャンならではの向き合い方、歩み方もあるでしょう。それは、祈り合うという歩み方です。
 実際にお互いに向き合って祈ることができますなら、主を中心にした豊かな交わりを持つことができますが、たとえ遠く離れていても、また、しばらく会えない状況にあっても、互いに祈り合うことができるのが、クリスチャンであることの恵みです。
 こうした執り成しの祈りを互いにささげてまいります時、私たち、誰もが、どなたかの助け手とならせていただけるでしょうし、「神が結び合わせてくださったものを」(9節)ともありますが、同じ教会で、唯一真の神を礼拝できる者とされたクリスチャンの在り方といえます。

3月31日
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神の祝福に与かるために   
 はっきり言っておく。子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはできない。」                                     マルコ10:15
 イエスのもとに子どもが連れて来られました。イエスに触れて祝福していただくためです。祝福はその子が健やかに成長することを願って、村の長老などが授けるものですが、イエスが近くに来られているというので、連れて来られました。また、祝福は一度その恵みに与かると、二度と取り消されないほどに重いものでした(ヤコブとエサウの物語、創世記27章)。
 そうした祝福をイエスも授けたいと子どもを迎え入れようとするのですが、その間に弟子たちが入り、遮ります。最近のイエスの言動の緊迫感や忙しさを思うと、それどころではないと思ったからです。
 それを見たイエスは憤ります。これまでイエスが弟子たちに教えていたこと(9:36、37)を、彼らが忘れていたからではなく、子どもを祝福できないからイエスは憤るのです。
 そもそも、イエスがこの世に来られたのは祝福するためです。すべての人々に祝福(救い)を届けるためにこの世に来られました。それですから、今ここで、その働きが邪魔されますなら、憤らずにはおれないのです。
 イエスに祝福された子どものことを思うと、自ら祝福されたいと願って来たのではありません。ただ、大人に連れて来られただけです。大人にしても真実なイエスの姿(救い主)を理解していたとはいえませんが、子どもにしましたら尚のことでしょう。
 けれどもイエスは、その子どもたちを喜んで祝福されます。しかもそのなさり方は、ひとりひとりを抱き上げて、手を置いて祝福されるのです。私たちも、イエスのすべてを理解し得ていなくともイエスのもとに行き、手を置いていただく者とさせていただきましょう。

4月7日
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イエス慈しみの眼差し
 イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」                        マルコ10:21

ある金持ちがイエスのもとに駆け寄って、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねます。それはこのことで、彼自身これまで悩んでいたからであり、また自分が守ってきたことを何一つ守れないような子どもが、イエスから「神の国はこのような者たちのものである。」と祝福されているのを目撃したからです。
 彼は永遠の命を受け継ぐこと、神の国の恵みに生きることを真剣に求めていましたが、未だ、その平安を得られていなかったので、イエスのもとに駆け寄るのです。そして、その時、イエスも真剣に彼に向き合い、愛に燃えた慈しみの眼差しをもって、彼に答えられます。
 しかしながら、イエスの答えは大変厳しい答えです。確かに皆売り払って、すべてを捨ててイエスに従った時にこそ見えてくる信仰の世界はあり、その恵みを私たちは頭で理解しているのですが、そこに生き切れない自分がいることも事実です。全てを捨てきれずに惜しむ心があります。それは、地位や名誉、富や財産、人間関係に至るまで、すべては自分の努力によって手に入れたと思うところがあるからです。一面にはそうですが、もう一つの面から考えると、そのすべては天(神)からの授かりものです。自分が持っているものは自分の所有物ではなく、神の所有物であり、今はその用い方を神から託されている時ともいえます。
 またイエスは「わたしのため福音のために・・・捨てた者は・・・」とも言われます。福音とはイエスご自身であり、救いです。私たちが救いの恵みにあずかったことは神の御業、奇跡です。この奇跡を奇跡としてしっかりと受け止め、その恵みに生きる者とならせていただく時、ここでの主の求めにも応答していけるはずです。

4月14日
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贖いの代価としてのイエスの命        
 人の子は仕えられるためではなく仕えるために、また、多くの人の身代金として自分の命を献げるために来たのである。                         マルコ10:45
 ヤコブとヨハネの兄弟が他の弟子を出し抜いて「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」とイエスに願い出ます。それに対し、イエスは「このわたしが飲む杯を飲み、このわたしが受ける洗礼を受けることができるか。」と問うと「できます」と答える二人です。
 彼らの答えは、イエスの言葉を大いに勘違いして受け取った応答ですが、そうした彼らにもイエスはこれから歩む道を予告されます(39節)。そして、事実ヤコブは殉教し(使徒12:2)、ヨハネは寿命で亡くなったと言われますが、それもまた、イエスの言葉を振り返りつつ歩む生涯だったでしょうから、イエスが飲んだ杯を飲んだ苦難の歩みだったといえます。
 イエスは私たちにも「あなたがたはわたしが飲む杯を飲み、わたしが受ける洗礼を受けることになる。」との言葉をもって、クリスチャンとされた者の苦難の道を言います。また、「皆に仕える者になり、…すべての人の僕になりなさい。」とも言われますが、私たちがこうしたみ言葉に向き合うためには、「・・・多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」のみ言葉を抜きにしては決して向き合えないでしょう。
 イエスが十字架に架かり、私たちの贖いの代価として命をささげられ、ご自分の歩むべき道を歩み通されたことに目を向け、救いの恵みに満たされてまいります時、その恵みに押し出され、また支えられて、私たちもイエスが飲む杯を飲み、イエスが受ける洗礼を受ける、弟子の歩みを歩ませていただけます。

4月28日
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安心して立つ
 イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」                   マルコ10:49

 都エルサレムで行われる過ぎ越しの祭りを目前にして、エリコからエルサレムに向かう人たちの列が続きます。その列の中で、ひと際多くの人を連れて歩く集団がいます。イエスの一行です。そのイエスに「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫ぶ盲人のバルテマイです。多くの群衆が邪魔して、声も届かなかったのでしょう、また黙らせようともしますが、彼は何度も叫び続けます。
 ついにその叫びがイエスに届き、彼にとっての全財産ともいえる上着を脱ぎ捨ててイエスに駆け寄るバルテマイです。イエスは、彼がどんな立場に置かれ、どういう状況なのかは分かっていたはずですが、それでもご自分のもとに来るようにと言い、「何をしてほしいのか」と尋ねます。バルテマイは率直に「見えるようになりたい」と答えます。
 イエスに救いを求め、目が見えないという不自由な中にあってもイエスに近づき、願う時、イエスの御業が始まります。バルテマイは、その後イエスの歩んでいかれる道に従っていきますが、その癒された目でイエスの十字架と復活を目撃することになるのです。
 
 また「安心しなさい、立ちなさい。」(49節)の言葉を誰が言っているのかというと、イエスの周りにいる人たちです。この言葉を言うのは、イエスが一番ふさわしいように思いますが、ここでは、人々が言うのです。

 この時、彼らにイエスへの確かな信仰があったとはいえないのでしょうけれど、こうした言葉を言えたことは恵みです。今、イエスを真の救い主と信じる信仰が与えられている私たちにとっては、この言葉を確信をもって、どなたかに伝える者とさせていただきたいと思います。そして、イエスのもとに連れていく時、イエスはその方にも救いを手渡してくださいます。

5月5日
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平和の王、イエスを迎えよう   
 多くの人が自分の服を道に敷き、また、ほかの人々は野原から葉の付いた枝を切って来て道に敷いた。                                マルコ11:8
 ロバの子に乗ってエルサレムに入城されるイエスです。この時イエスの心には、いくつかのみ言葉が想起されていたと思います。1つに「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗って来る、雌ろばの子であるろばに乗って。」(ゼカリヤ9:9)です。神が約束(預言)されたこのみ言葉を実現するために、イエスはこうした歩みをされるのです。
 またイエスは「その日、主は御足をもって、エルサレムの東にあるオリーブ山の上に立たれる。」(ゼカリヤ14:4)のみ言葉も思い出していたでしょう。これまでの王は戦に使われる軍馬に乗って凱旋しますが、イエスは平和の象徴ともいえるロバに乗ることで、平和の王としてエルサレムに入られるのです。かつて語られた「…オリーブ山…」に今、実際にイエスが立つ時、ご自身の平和の王としての自覚をより強くされるのです。
 人々は歴代の王にしていたように、イエスにも今着ている服を道に敷き、葉の付いた枝を持ってエルサレム入城を喜びますが、イエスもそれを拒まず、彼らが敷き詰めた服の上をロバの子に乗って進みます。それは彼らのすることを受け入れ、王として迎えられることを良しとされているからです。
 王ということで、私たちの頭をよぎるのは、王との間には主従関係が生まれてくることです。支配する側とされる側という立場になることです。イエスとのこうした関係はあまりなじまないところがあるかも知れませんが、もし、そうした心が私たちに少しでもあるとしますなら、その心には真実な平和は訪れないでしょう。
 平和の王なるイエスに、ホサナ(私を救ってくださいの意)との賛美をもって、自分の着ている服を脱ぎ、その上をイエスに歩いていただく。「主がお入り用なのです」との言葉をもって連れ出されたロバの子はすぐに飼い主のもとに戻ってきました。他の横暴な王ならそんなことはせず、ロバの子の命のみならず飼い主の命さえ意のままにするでしょう。
 平和の王なるイエスにすべてを委ねて歩み始める時、イエスは私たちにも、何にも揺るがされない平和をもたらしてくださいます。

5月19日
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〜教会〜すべての人の祈りの家   
 わたしの家は、すべての国の人の祈りの家と呼ばれるべきである。      マルコ11:17
 
 イエスのいちじくの木を呪う厳しさと、神殿で商売する人たちへの激しさは、密接に関わりのあることで、家すらエルの民が現在のような態度のまま神殿に集まり、礼拝をささげているなら、いちじくの木のように枯れてしまう、滅んでしまうことを教えます。
 神殿でしょう場をするようになったきっかけは、良いことから始められました。自らの仕事を休み、何日もの時間と労力を費やして巡礼に来る人たちが、安心して礼拝できるようにするためでした。多くの人がささげていた鳩を自宅から持ってくるのは大変だったでしょうから神殿で鳩を売る人が出てきます。また、日常の暮らしで使える貨幣と神殿で使用できる貨幣とは違っていたため両替が必要でした。神殿での通貨をいつも持っていることは煩わしいことだったでしょうから、巡礼に来た人のために両替をしてあげる。また、彼ら商売人たちにも彼らの暮らしがありますから、多少の手数料を取る。彼らのすることは、別に悪いことではなく、むしろ良いことであり、親切です。
 けれども、しばらくこうしたことが続いてくると、その手数料がしだいに上がってきて、巡礼者という他者のことを思わなくなり、自らの懐が温かくすることが商売の中心に変わっていくのです。
 また、神殿の造りも立場や国籍の違いで、これ以上神に近づけない造りになっていました。祭司と一般の人、ユダヤ人の男女やイスラエルの民と異邦人とで礼拝する場所が区別されていました。
 こうした神殿の様子をご覧になったイエスが上記の言葉をもってお怒りになるのです。神殿(教会)は、神(イエス)の家です。すべての人の家であり、すべての人の祈りの場です。祈りということでいえば、彼ら商売人たちは巡礼に来た人たちのことなど祈らず、自分のことしか祈っていないともいえます。今、それぞれのところから教会に集められた私たちのすべきことは、身近などなたかのために祈る執り成しの祈りです。どなたかの癒しを、慰めを、何よりも救いを祈る私たちとさせていただきましょう。

5月26日
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少しも疑わず                          
 だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、そのとおりになる。              マルコ11:23
 イエスは少しも疑わないなら、青々と茂ったいちじくの木も枯れるし、だれでもこの山に向かい、「立ち上がって、海に飛び込め」と言うなら、その通りになると言われました。疑うというのは、確信がないからです。24節では「祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。」とも言われます。すべて既に得られたと信じることは、確信がなければできることではありません。またイエスは、25節以降で私たちが誰かを赦し、私たちも神に赦されるべきということも言われます。
 これは、主からの私たちへのご命令でもありますが、同時にイエスご自身がこの道を切り開こうとされている宣言ともいえます。主の祈りでも、この言葉と同じような表現があります。「我らに罪をおかす者を我らがゆるすごとく、我らの罪をもゆるしたまえ」です。主の祈りの他の言葉は躊躇せず祈れるように思いますが、この言葉は多少のためらいを覚えることがあるかも知れません。それは、私たちの罪の赦しに一つの条件が付けられているように感じるからです。けれどもそうした受け取り方は間違っており、順番でいうなら神による私たちの罪の赦しが先です。それだから、私たちもゆるせる者となれるのです。
 また、神が私たちの罪を赦すといっても自動的にではありません。その恵みにあずからためには、イエスの十字架を忘れてはいけません。神と私たちの間にイエスの十字架が立たなければ、罪の赦しはないのです。そして、イエスはこのことが完成されるために、十字架の道へと進んでいかれるのです。いちじくの木が枯れること、山が海に飛び込むことは神のみ業であり、神の奇跡です。そして、それ以上に大きな神の奇跡は、神が私たちの罪を赦すこと、そのためにイエスが救い主として十字架に架かられたことです。
 私たちが罪赦され、神の子とされることは、神の奇跡なのです。この奇跡を奇跡として受け止め、少しも疑わずはっきりと確信を持たせていただく時、人をゆるせる者とされていきます。

6月2日
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主イエス・キリストの権威           
 何の権威で、このようなことをしているのか。だれが、そうする権威を与えたのか。
                               マルコ11:28
 イエスと祭司長、律法学者、長老たちが論争するみ言葉です。イエスが神殿で商売する人たちを追い払ったからです。彼らは自らに与えられた権威ゆえに、神殿では自由に振る舞っていましたが、イエスのしたことは彼らの権威を失墜させることでしたので、イエスに「なぜ、こんなことをするのか」と論争を持ちかけるのです。
 イエスは彼らの問いには答えず、洗礼者ヨハネについて問いかけます。イエスの質問はどちらに答えても彼らの立場を危うくさせる質問でしたので、保身のために「分からない」と答えます。イエスが彼らに尋ねた問いは、換言すれば「あなたがたが権威をもって自由に闊歩している神殿を放棄して、この私に明け渡すこと」を彼らに迫る問いともいえます。
 祭司長、律法学者、長老たちは聖書について人に教えられるほどに熟知していました。神への信仰も立派なものだったはずです。けれども今、イエスと対峙した時、イエスの権威を認めず、神とイエスを結び付けることができず、別々のこととして捉えるのです。彼らにとってこの時がイエスを神と認める絶好のチャンスだったのですが、それができませんでした。神殿での権威に固執する彼らにはできないことでした。
 このみ言葉を通して、私たちにも同じことを問いかけられます。イエスの権威を認めるのかについてです。イエスの権威は、祭司たちが好きなように振りかざした権威とは違い、私たちを救う権威です。私たちを罪から救い、神の子とする権威です。イエスのこの権威を受け入れ、神の子とされて歩む者とさせていただきましょう。

6月9日
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イエスの悲しみの訴え
 家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった。これは、主がなさったことで、わたしたちの目には不思議に見える。                         マルコ12:10、11
 ここでイエスが話されたことを思うと、本当に救いのない話のように思います。農夫は送られてくる僕を次々に袋叩きにし、ついには殺してしまう。こんなことをして、良く平気でいられるものだと思いますし、主人の方ももう少し知恵のあるやり方はなかったのかと思えてきます。
 これはたとえ話なのですが、何にたとえられているのかというと、イスラエルの民と神との間に起こったことです。主人は神、農夫はイスラエルの民、一人息子はイエス、そして僕は預言者たちです。民は預言者が語る言葉を、神の言葉として重く受け止めず、聞き流しました。
 
 こうした話を聞いた彼ら、祭司長、律法学者、長老たちは「当てつけ」として受け取ります。当てつけとして受け取った彼らはイエスに腹を立て、農夫がしたようにイエスを殺そうと考えるのです。
 けれどもイエスには、そうした思いは少しもありません。それは、上記(詩篇118篇)のみ言葉を話されているからです。このみ言葉はイエスの歩みがたとえられていますが、捨てるということでいえば、イエスが十字架につけられ殺された(捨てられた)といえますし、隅の親石でいえば、イエスの十字架が新しい家、キリスト教会の土台となったことを示します。イエスは詩篇118:22、23のみ言葉だけを引用しますが、イエスの思いの中には、118篇すべてのみ言葉を引用したかったのかと思われます。「主はわたしを厳しく懲らしめられたが、死に渡すことはなさらなかった。」(18節)ともありますが、これは言ってみれば、ぶどう園のたとえの続きがあるようにも思います。一人息子を殺された主人は、農夫たちを殺すとは言いますが、実際にはそうしないのです。それはイエスが捨てられ隅の親石となられたからです。主人は一人息子をぶどう園に送りますが、仕返しのためではなく、「敬ってくれるだろう」と考えたからです。こうしたの主人の心は私たちの常識をはるかに超えた心であり、忍耐強い神のなさり方です。
 今、聖書を通して、同じことが私たちにも語り掛けられます。み言葉を彼らのように当てつけとして受け取るのではなく、私たちを救い、命を与え、喜び踊らせる(詩編118:24)み言葉として、どのみ言葉も受け取る者とさせていただきたいと願っています。

6月23日
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神のものは神に         
 イエスは言われた。「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に返しなさい。」彼らは、イエスの答えに驚き入った。                                    マルコ12:17
 
 普段は考え方の違いから相容れることのなかったファイリサイ派とヘロデ派の人たちですが、イエスを陥れることで一致し、イエスの言葉尻をとらえるために皇帝への納税の是非について質問します。この質問は、イエスの分け隔てしない(人の顔色を窺い見ないの意)姿を逆手にとった質問で、イエスがローマ皇帝の権力にも物怖じせずに抗する発言をすれば、イエスの自由を奪えるだろうと思った問いかけでした。
 イエスは、そうした彼らの下心を知りながらもデナリオン銀貨を持ってこさせ、そこに刻まれている肖像と銘を尋ねます。彼らは見るままに「皇帝のものです」と答えるなら、すかさずイエスは上記の言葉を言うのです。
 「皇帝のもの」ということでいえば、ここでは銀貨が話題にされていますが、「神のもの」が何かついての言及はされていないので、イメージしにくいところがあります。神のものの根源的なところは、人が創造された場面にあると思います。
 人が創造される時、神はご自分にかたどって創造されました。それは、銀貨に皇帝の肖像が刻まれているように、神のかたちが人に刻まれているのです。ですから、何よりの神のものは私たち自身といえますし、イエスはそれを神に返しなさいと言われるのです。私たち自身を神に返す。献身です。
 主の祈りに「み心の天になるごとく、地にもなさせたまえ」とありますが、この祈りは神のみ心(御業)が地上でも行われることを願う祈りですが、神のみ心が地上でなされる時、神は私たちの存在を無視して勝手に、そのみ心を行うのではなく、神のかたちに刻まれた私たちを通して、神のみ心があらわされていくのです。
 私たちそれぞれが、そうした自覚を持って、主の祈りをささげていくことも、神のものとされている私たちのできる献身といえるのではないでしょうか。

6月30日
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生きている者の神  
 神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。           マルコ12:27

復活を信じないサドカイ派の人たちが、イエスのもとにやって来ました。なぜ、彼らが復活を信じないかというと、彼らが唯一の拠り所としていたモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に復活について明言されていないと考えていたからです。復活を信じるファリサイ派の人たちとは、いつもこの問答を繰り返していましたが、ファリサイ派の人たちは、明確に答えられていなかったので、イエスにも尋ねに行くのです。
 この問いにイエスは、24節以下のことを答えますが、「復活する時には、めとることも嫁ぐこともなく」とは、現在、教会でお互いに兄弟姉妹と呼び合うような新しい人間関係が作られていくことを示し、また「天使のようになる」の「天」については、神の名を直接呼ぶことを避けるためと考えられ、神にあるみ使いとも受け取ることができ、さらには、人は神の愛の御手に置かれてこそ、生きるものとされていくと理解できるみ言葉です。
 また、26節以下で、イエスはモーセの召命の場面を例に挙げて「神は生きている者の神」とも言います。これはアブラハム、イサク、ヤコブと共におられ導かれた神が、今、あなた(サドカイ派の人)のもとにも遣わされていることを教えます(出エジプト3:15)。
 サドカイ派の人たちは、聖書を第一に生きていましたが、自分たちを生かす言葉として、信じられていなかったので思い違いをし、神との生きた関わりを持つまでには至らないのです。
 今、私たちのみ言葉の向き合い方はいかがでしょうか。アブラハム、イサク、ヤコブと必ず共におられ、常に導かれた神は、私たちのもとにも遣わされ、彼らと同様に私たちの歩みを支えられます。イエスが完成される救いの道を仰ぎ、イエスこそ私の神として信じる者とさせていただきましょう。

7月7日
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神を愛し、隣り人を愛し
 「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。」第二の掟は、これである。「隣人を自分のように愛しなさい。」この二つにまさる掟はほかにない。                                          マルコ12:30、31
 
 「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」との疑問を携えて、1人の律法学者がイエスのもとにやって来ます。律法の専門家である彼が、一番心得ていなければならないことをイエスに尋ねるのです。彼はそれだけ、このことについて深く考えていたのでしょう。けれどもその答えを見出せないでいるのです。
 イエスは申命記6:4、5とレビ記19:18のみ言葉から答えられますが、その答えには「思いを尽くし」の言葉が加えられています。「思い」とは理性的に、論理的にといった意味合いもあるので、こうした考え方をする律法学者にも届く言葉でイエスは「思い」を加えられたと考えることもできます。
 イエスは「神を愛しなさい」と言いますが、なぜ愛さねばならないのかというと、そう命じられているからです。また神を愛する存在として、人を創造されたからです。けれども、現実を見渡すと神を愛していないと思われる人もいるし、自らもそうであることもあります。それは神から離れ、罪の世に生きているからです。神を愛する関係が築かれていないなら、イエスが次に言われた「隣人を自分のように愛しなさい」についてもあまり上手くいかないでしょう。
 そうした時にこそ、私たちは神を愛することに目を向けるべきですし、さらには「わたしたちの神である主は、唯一の主である」のみ言葉に集中する必要があります。
 このみ言葉はレビ記でも同様に繰り返されているみ言葉ですが、それは神を畏れる(レビ19:14)ことを自覚させるためと考えられます。
 私たちもそうした心を持って、律法学者が「どんなささげものよりも優れています」と告白したような信仰へと整えられてまいります時、イエスは私たちにも「あなたは神の国から遠くない」との恵みを言葉を語り聞かせてくださいます。

7月14日
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メシア、ダビデの子、イエス
 このようにダビデ自身がメシアを主と呼んでいるのに、どうしてメシアがダビデの子なのか。」大勢の群衆は、イエスの教えに喜んで耳を傾けた。                  マルコ12:37
 イエスはここで、民衆の、また民衆を教える立場にあった律法学者のメシア理解、ダビデの子の理解、イエスの理解を正そうとされます。彼らのメシア理解は、聖書を根拠にするものですから、まったく間違っているとはいえませんが、その理解はかつての英雄、イスラエルの民の誇り、ダビデ王のようなメシアを思い描いたため、ローマ帝国の支配という現在置かれているところからの解放を期待します(イザヤ11:1〜10)。
 けれども、イエスは彼らが思い描くメシア像を否定し、人の子として生まれるという意味でのダビデの子の理解をするように修正されます。そして、人の子との自覚を持ちながらも、メシア(救い主)として「わたしの右の座に着きなさい。わたしがあなたの敵を、あなたの足もとに屈服させるときまで」と告げるのです。
 私の右の座に着くとは、王座を明け渡しなさいということです。自分が王座に着くのではなく、敵を屈服させる主イエスに譲りなさいということです。敵とは、罪という敵です。
 11章の後半から、イエスのもとにはさまざまな立場の人が尋ねにやって来ていました。ある人は権威について、また別の人は皇帝への納税について、復活について、また最も重要な掟について、さまざまな問いかけをします。イエスはどの質問にも丁寧に答えられ、もはやあえて質問する者はいなくなりました(34節)。
 そこでイエスは、誰からも問い掛けられていないのに、このみ言葉を自ら語り始めるのです。そこには、いろいろな疑問がイエスのもとにやって来るけれども、本当に尋ねてほしいこと、また、イエスが本当に語りたかったことが、ここにあるといえます。

 私たちは、私たちの努力や力などでは決して抗うことのできない罪を、足元に屈服させることのできる唯一のお方、イエスを我が主メシア、我が救い主との信仰を心新たに告白し、これからも歩む者とさせていただきたいと願っています。

7月21日
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神へのささげもの
 はっきり言っておく。この貧しいやもめは、賽銭箱に入れている人の中で、だれよりもたくさん入れた。                                     マルコ12:43

ここで、イエスは一方は非難し、一方では誉めておられます。イエスの愛を知り、イエスを愛する者とされたクリスチャンは、ここで非難されていることはあえてしないでしょうし、なるべくならイエスに喜んでもらえることをしようとします。とはいうものの、ここでイエスが非難した、広場で挨拶をせず、会堂や宴会で上席に座ることを望まず、やもめの家を食い物にせず、見せかけの長い祈りをしないで、生活費を全部ささげれば良いのかというと、そうではないでしょうし、生活費のすべてをささげることなどできません。さらにいえば、見せかけですべてをささげることだって出来るのかも知れません。
 それならば、イエスが非難し、誉めておられることが何かというと、ここで彼らがしている時の心です。律法学者がしていることで言えば、広場で挨拶されたり、上席に座れれば機嫌が良くなり、挨拶されず、座れなければ機嫌が悪くなるのです。また、周囲の人が聞けば真似をしたくなるような立派な言葉で長く祈り、あたかもやもめのことを思って祈っているように見える祈りですが、それは見せかけの祈りで、その心には自分の名が高められ、自分が誉められることが心の中心にあるといえます。それに引き替え、やもめの心は神に向いています。金額を見れば、わずかな金額ではありますが、神が心を占領し、神を愛する心でささげています(28節)。
 ささげるとは、心から尊敬する相手(至上と信じるものに)、自分の持てるすべてを惜しみなく投げ出すことです。やもめは確かにこうした心で、1クァドランスをささげていたのでしょう。けれども、ささげられるものは、こればかりでなく、祈りや賛美や奉仕、そして、何よりも礼拝も出席するものではなく、至上と信じるお方、神におささげするものです。
 これからも、私たちは、その時にできる心からのささげものを神におささげする者でありたいと願います。

7月28日
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信仰に立って
  最後まで耐え忍ぶ者は救われる。                       マルコ13:13

 
 これまで神殿の境内において、祭司長、律法学者、長老、ファリサイ派やヘロデ派、サドカイ派の人たちとイエスとの間でさまざまな問答が繰り広げられてきましたが、イエスは一つひとつの問いに向き合われ、あえてこれ以上質問する人がいないほどに、明瞭かつ丁寧に答えられました。勝ち負けでいえば、どの質問にも勝利されたイエスです。

 でありますから、我が物顔で神殿を使用してきた彼らを神殿から追い出し、そこに残ることもできたはずですが、その場を出て行かれるイエスです。きっと、それは、自分の師であるイエスが、自分では到底かなわないであろう先の権威者たちを論破したことに高揚する弟子たちが、あたかも彼らと同じように神殿を自分のものとしようとする心を感じ取ったからといえます。そうした弟子たちに、その堅固で壮麗な神殿すら崩れ去るときが来ることを告げるのです。そして、神殿崩壊の言葉から始まり、終末(世の終わり、再臨)についても話し始められるのです。
 この言葉を思うと、大変恐ろしいことが起こっています。あらゆる場面での混乱が生じてきています。けれどもイエスがそこで語るのは、福音があらゆる民に宣ベ伝えられなばならないことでした。この言葉は、私たちにそれを求める言葉のように感じますが、そうではなく、イエスご自身の意志をあらわす言葉です。
 ですから、この福音の光が終末においても照らされているので、その時は神をほめたたえる賛美に満ちあふれた時になるのです。
 その時、私たちのすることは証しです。キリスト証言なのですが、そこにおいても聖霊ご自身が語ってくださるというのですから、何も案じるには及ばないのです。また、証しはみ言葉経験を語ることといえます。み言葉によって慰められ、元気が出て、力が湧いてきた経験を伝えていくのです。
 イエスは2度気をつけなさいと言われます。それは周りの変化に惑わされず、ただ神とのつながりを、み言葉とのつながりをしっかりと持って、信仰に立ってこの世に生きることを願っておられるのです。

8月4日
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救い主が立つ所   
 そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくるのを、人々は見る。
                                               マルコ13:26

 イエスは「憎むべき破壊者が立ってはならない所に立つ」という言葉をもって週末について話し始められます。ユダヤの民にとって「憎むべき破壊者が・・・」という言葉は、これまで自分たちを支配してきた者たちを想起させる言葉であるため、忌まわしい言葉でした。
 そうした言葉に続けて、イエスは家にある物や上着を取りに行かず、逃げなさいと命じます。このイエスの言葉は、これまでのユダヤの民はほとんど考えたことがないことでした。というのも、逃げたことがなかったからです。神だけを礼拝すべき神殿を明け渡すなど考えられず、戦ってきたからです。
 けれども、イエスはその場所から逃げるようにと言います。手放すようにと言います。それは、エルサレムの神殿を奪取しようとする侵略者さえも逆手にとって新しい神殿を造り上げようとしているといえます。
 憎むべき破壊者が立った所はイエスだけが立つのを神に許されている所ともいえますが、その場所をもイエスは放棄して、イエスを信じる人の内に新しい神殿、教会を造ろうとしているのです。
 この言葉が、終末について予告する言葉であることを思うと、教会こそ週末に向けて起こってくるさまざまなことに動揺せず、惑わされずに立ち続けることができる唯一の場所であることを、改めて気づかされます。
 教会のかしらなるキリストに立ち続けていただいて、この方をこそ仰ぎ続ける私たちとさせていただきましょう。

8月18日
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滅びない主の言葉           
 わたしの言葉は決して滅びない。                  マルコ13:31
 いちじくの木の枝が柔らかくなって、葉が伸びると、夏が近づいたことが分かるというのは、パレスチナの地域に住む人たちであれば、誰もが知っていることでした。そして、そうした季節の移ろいの確かさに基づいて、イエスは終末が確実にやって来ることを伝えようとしています。必ず訪れる終末に備えて、さらにイエスが伝えたいことは「わたしの言葉は決して滅びない」ことでした。
 また、「わたしの言葉」と言われる聖書のみ言葉で確認しておきたいことは、使徒言行録に見られる初代教会の様子です。使徒言行録6:1〜7には、教会に新しく連なる人たちが増えていく中、毎日の食事の分配のことで揉め事が起きてきました。本来なら教会の責任者である使徒たちがこのことに当たらなければならないのでしょうけれども、彼らは「神の言葉をないがしろにして、食事の世話をするのは好ましくない。・・・わたしたちは祈りと御言葉の奉仕に専念することします」と言って、別の7人に任せることにします。
 教会での愛餐(食事)は、初代教会が大切にしていたように、今の教会でも重んじる必要はありますが、第一にとはいえないと思います。教会でまず第一にすべきは、使徒たちが宣言しているように祈りとみ言葉です。そして、その第一にすべきみ言葉が、どんな存在なのかを教えてくれるのが、上記のみ言葉になります。教会が第一にしているみ言葉(聖書)は、決して滅びることがないのです。
 イエスは「天地は滅びる」とも言われていますが、その天地には私たちの周りの環境や状況ばかりでなく、私たち自身も滅びるべき存在として含まれています。けれども、滅びることのない主のみ言葉を内に持つ時、また、そのみ言葉を第一にする教会に連なる者とされていく時、私たち自身も滅びることのない者とされていくのです。
 イエスは「わたしの言葉は決して滅びない」と言われましたが、み言葉が滅びないのは、そのみ言葉を内に宿す人がいるから、み言葉を第一にする教会がこの世にあるから滅びないのです。そうしたみ言葉を第一にする私たちの生き方や教会の在り方が、終末に向かうこの世に対しての何よりもの証しであり、宣教といえるのではないでしょうか。

8月25日
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目を覚まして    
 だから、目を覚ましていなさい。いつ家の主人が帰って来るのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、あなたがたには分からないからである。            マルコ13:35
 
 夜見張りをする門番を例に目を覚ましているようにと弟子たちに語るイエスです。目を覚まして何をするのかというと、割り当てられた仕事を責任をもってするようにと言います。弟子たちに割り当てられた仕事は、かつてイエスより悪霊を追い出す権能を授けられたことがありましたが、まさにこのことでした。悪霊と戦い、制する権能、さらには神のもとに引き寄せ、神の子とし、イエスの名によって罪より救う仕事です。
 その仕事を主人が帰って来るまでしていくのです。けれども、その日、その時は誰も知らず、父なる神だけが知っているといいます。子(イエス)も知らないともあり、混乱するようなことが書かれていますが、これはイエスの父なる神への全き信頼をあらわしています。
 私たちにしたら、その日を知らないことで、余計に不安になって聖書以外の何かを頼りたい思いに駆られてしまいますが、イエスの神への信頼同様に、私たちも父と呼びかけることができる全能の神に委ねて歩むことが大切です。そして、その歩みの中で上述の働きをしていくのです。門番について、4つの時も記されていますが、これは見張りの交代の時です。ですから、門番は一人ではないのです。自分が担当している時は闇からくる孤独を感じますが、共に働く仲間がいるのです。そうした中、帰ってきた主人を一番に迎えることができるのですから、その時を待ち望む楽しみの時と考えることもできます。
 私たちにとって、目を覚ましているというのは、イエスが成し遂げられた贖いの十字架にすべての罪を赦す権威があることを指し示していくことです。仲間(信仰の友と共に、その日、その時を喜びをもって迎えるために、教会につながり、救いのみ業をほめたたえていくのです。そのために私たちは目を覚ましているのです。

9月1日
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真の救い主を記念して    
 はっきり言っておく。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられる所では、この人のしたことも記念として語り伝えられるだろう。                     マルコ14:9
 イスラエルの民にとって過越祭と除酵祭は、どちらも出エジプトを記念する大切な祭で、神の御手によって助け出されたことを覚える「命の祭」ともいえる時でした。その命の祭が始まろうと町中が沸き立つ中、祭りを司るべき祭司長たちが何を計略しているのかというと殺人です。イエスを死に追いやるための具体的な動きが始められているのです。弟子の一人のイスカリオテのユダもイエス殺害のために動き始めています。
 そうした殺意にあふれた中、一人の女性が高価なナルドの香油をイエスに注ぐ物語があるのです。周囲の人たちは彼女のしたことを咎めますが、イエスは埋葬の準備をしてくれたといって受け入れ、喜ばれます。この先に待っているすべての人を救う十字架による死を悲しみつつも、その意味を深く受け止め、感謝をもって受け取ろうとしているのが、彼女一人であったからです。また彼女の行為は、イエスを真の王、真の救い主とする彼女自身の信仰告白ともいえる行為でしたので、イエスは喜びつつ上記の言葉を言われるのです。
 イエス殺害の動きがはっきりと見えてくる中、また命の祭りを祝う人たちが町にあふれる中、私たちに真実な命、救いを与えるための準備も彼女のしたことで整えられたのです。イエスに対しての人の罪がはっきりと見えてくるところに、イエスの救い主としての恵みも、より一層明確に見えてくるのです(ロマ5:20)。

9月8日
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弟子の痛み、イエスの痛み      
 一同が席に着いて食事をしているとき、イエスは言われた。「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、わたしと一緒に食事をしている者が、わたしを裏切ろうとしている。」 
                                            マルコ14:18

 イエスがこの食卓を用意されたのは、この席でどうしても話さなければならないことがあったからです。その一つが、このみ言葉であり、弟子の裏切りです。
 この食卓は過ぎ越しの食卓ですから、イスラエルの民がエジプトより救い出されたことを記念する喜びの食卓なのですが、その席で、イエスは弟子の裏切りを告げるのです。イエスのこのひと言で、その場の雰囲気はガラッと変わったでしょう。
 弟子たちはこの言葉に反応し「まさか、わたしのことでは」と考え始めるのです。出自はそれぞれ、考えからもそれぞれの弟子たちでしたが、まがりなりにもイエスに声を掛けられ、従っていった彼らなのですから、それなりの一致はしていたはずですが、この言葉がきっかけとなって、気持ちはバラバラになろうとしているのではないでしょうか。
 イエスの言葉に弟子たちは心を痛めますが、弟子たち以上に心を痛めたのは、自分を裏切る者がいると言葉にしたイエスでしょう。イエスは、ユダの祭司長たちにイエスを引き渡すという裏切りさえ、神の御心だと受け入れて、それをもご自分の痛みとされるのです。
 「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のためによかった。」ともイエスは言われますが、この言葉は裏切る者(ユダだけでなく、私たちをも含めた弟子たち)を突き放す言葉ではなく、その生まれてこなければ良かったと言われる者が、生まれてきて良かったと言われるために、イエスはこの食卓を囲み、この後聖餐の制定をされ、さらには十字架の道に進んでいかれるのです。
 私たちのできることは、罪より贖い出されたイエスの十字架の御業を誇ること、ただこの一つだけです。

9月15日
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主イエスの晩餐 
 イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしの体である。」・・・彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。     マルコ14:22〜24

 
 イエスが用意された過越しの食卓において覚えておきたい、もう1つのことは聖餐の制定をされたことです。パンとぶどう酒は、これまでの過越しの食事でも屠られた小羊と共に食されていましたが、イエスはここで、この二つに新しい意義を付与されます。裂かれたパンについては「これはわたしの体である」、ぶどう酒については「これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」と言われました。
 多くの人の何のために流されるイエスの血なのかというと、罪の赦しのためです。罪のために隔てられていた私たちと神との関係を結び付けるために、イエスは血を流され、命を投げ出されるのです。
 また契約の血とは、私たちを神のもとに引き寄せる平和の契約を結ぶために流されるイエスの血です(イザヤ54:10)。イザヤ書の当時のことでいえば、平和の契約は一時的なものでしたが、イエスが流されたことによる平和の契約は、すべての時代、すべての人に及ぶ平和の契約であり、救いの契約です。

 クリスチャンは聖餐の恵みにあずかります。その時には、いつもイエスが裂かれた体と流された血にこそ、私たちの救いがあり、罪の赦しがあることを覚え、信じましょう。また、聖餐の恵みは、主イエスの再臨の時に開かれる盛大な宴席に招かれている恵みであることをも覚えましょう。
 こうした信仰をもって、聖餐の喜びを分かち合う教会として、なお整えられてまいります時、それこそが地域へのキリストの証人の生き方となっていくのです。

ペテロのつまずき                  
 イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。              マルコ14:27、28
 オリーブ山へは深い谷を通らなければなりません。足元の悪い、夜道ですからつまずかないように気を付けて歩きます。その途上で、イエスは上記のみ言葉を話すのです。ゼカリヤ書を引用して羊飼い(イエス)が打たれ、羊(弟子)たちは散り散りになることを告げます。そうしたイエスの言葉にすぐに反応したのがペテロです。彼はイエスの言葉を否定し「他は知らないが、私はつまずかない。共に死ぬ覚悟もできている」と、イエスに従う決意を言い表わします。他の弟子たちも同様のことを言いますが、イエスに従うという良いことにおいて、互いに足を引っ張り合うような従い方がふさわしいことなのかと考えさせられます。
 また、イエスは「私のことを知らないと言う」とも告げます。弟子たちはイエスの何を知らないと言うのでしょうか。ここのみ言葉でいえば、28節「イエスの復活」と「ガリラヤに先に行っていること」です。ペテロは、イエスの言葉を聞いていたはずです。けれども「あなたはつまずく」という言葉に驚きと共に頭に血が上ったようになったために、復活という大切なことが、どこかに行ってしまうのです。また「先にガリラヤに行く」という約束も聞き流していますが、弟子たちが何故ガリラヤに行くのかというと、イエスがいなくなったという失意と絶望に満たされたからです。その彼らのいるガリラヤに「先に」行っているのです。彼らを待っているというのです。

 私たちはみ言葉に触れる日々を送る中で、いろいろな気付きが与えられますが、時にペテロのようにカッとなったり、つまずくようなみ言葉にも出会います。そのために前後に記されている恵みを見落とすようなこともあるかも知れません。
 だからこそ、私たちはみ言葉に何度も立ち返らなければなりません。私たちを生かす、喜びと希望のみ言葉をより多く握らせていただく私たちとならせていただきましょう。
10月6日
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主イエスの祈り     
 アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように。  マルコ14:36
 ゲッセマネの園で祈られるイエスですが、イエスは神の子として、また人の子として祈られました。イエスは「アッバ、父よ」と神に呼びかけ祈りますが、これほど幼い言葉で、父なる神の懐に飛び込む祈りをささげたのはイエスが初めてでしょう。また「わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」と祈りますが、これほど神に信頼し、すべてをささげて祈れるのは神の子のイエスだけでしょう。
 また、人を演じるのではなく、真実な人として、これから自身の歩むべき道にもだえ苦しみつつ、悲痛な祈りをささげられるのは、イエスしか祈ることができないと思います。
 こうしたイエスの祈りの現場に伴われたのは、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの3人の弟子ですが、この3人がこれまで目撃したイエスの姿(ヤイロの娘の癒し、5:37〜、変貌山、9:2〜)とは違い、ここでは、ただ一人の人として、神の御前に進み出て、戦い祈るイエスの姿でした。
 こうしたイエスの祈りを前にして、私たちは「そんなに辛く、苦しいのであれば、そうした祈りをなさらなくて結構です」と軽率に言えるものでなく、私たちができることといったら、ここでの弟子たちのように眠ってしまうのではなく、目を覚まして、イエスの祈られる姿を最後まで見守ることだけです。
 イエスはゲッセマネでの祈りを終えて「…時が来た…立て、行こう」との言葉と共に、ご自身の歩むべき、十字架の道に進んでいかれます。私たちは、ここでのイエスの真実な祈りの先に用意されている救いの道をも、聖書を通して見守らせていただき、ここにこそ、私たちの救いがあることを、信仰をもって受け取る私たちとさせていただきましょう。

10月13日
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恐れに満ちた人たちの中で                     マルコ14:43〜52
 そこで、イエスは彼らに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内で一緒にいて教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。しかし、これは聖書の言葉が実現するためである。」 マルコ14:48、49
 祭司長、律法学者、長老たちは、イエスを捕えにやって来ます。彼らはイエスを恐れていたので、自分たちが行くのではなく人を遣わしますし、確実にイエスを捕えるために、暗闇の中でもどの人がイエスなのかが分かるためにユダに接吻をさせ、数人ではなく群衆で、手ぶらではなく剣や棒という武器を持たせて、やって来るのです。
 また弟子たちも恐れていました。弟子の一人が剣を抜いて、大祭司の手下の片方の耳を切り落としますが、これも一見すると勇敢な感じがしますが、そうではなく武器を持った群衆に恐れおののいたために、つい剣を抜くのです。
 イエスを取り囲む誰もが、恐れに満たされていましたが、その中心にいるイエスは恐れているような印象はありません。武器を手にすることもなく、弟子のように逃げようともしません。あえてとも言えるほどに、イエスはその場に残っています。
 ここでイエスは「これは聖書の言葉が実現するため」(49節)と言われますが、具体的には詩編22編やイザヤ53章のみ言葉が成就するためといえますが、「御心に適うこと」(36節)が実現するためでありますし、「立て、行こう」(42節)とのイエスの言葉には、神の御心に適う道を歩む決意のあらわれの言葉といえますから、この時のイエスには恐れはないのです。動揺もないのです。ただ神の御心が適うため、人の罪からの救いが成し遂げられるために、十字架の道に進んでいかれるのです。
 私たちは「イエスの架かられた十字架こそが、私たちを罪からきよめます。私の内に、清い心を造り、新しい正しい霊を与えてください」(詩編51編)との祈りを砕けた悔いた心をもってささげる者とさせていただきましょう。

10月20日
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裁きのただ中で                            マルコ14:53〜65
 そこで、重ねて大祭司は尋ね、「お前はほむべき方の子、メシアなのか」と言った。イエスは言われた。「そうです。あなたたちは、人の子が全能の神の右に座り、天の雲に囲まれて来るのを見る。」                                         マルコ14:61、62

ゲッセマネの園で捕えられたイエスの裁判が始まりました。けれどもそこで話されている内容を思うと、偽りの証言の連続です。最高法院に召集された議員たちが、イエスについて証言しますが、ウソの証言が積み上げられているのですから、すぐにほころびが出てきて、それぞれの言うことに食い違いが生じてきます。
 これまでの最高法院での裁判も、こんな様子だったのかというと、そうではなかったはずです。この議会を構成している70人の議員たちは、聖書に基づく正しい判断ができるように、いつも心がけていたと思いますし、そのための聖書研究も欠かさなかったはずです。
 けれどもイエスをさばくこの裁判におきましては、その正しさがいとも簡単に覆されていて、これを読む私たちには何とも腑に落ちない思いにさせられます。それが何故なのかというと、この裁判は初めから結論が決まっていたからです。イエスを死刑にするという結論ありきで、裁判が始められているから、平然と偽証がされ、食い違いしか生まれてこない議論がなされているのです。
 こんな理不尽な裁判が最高法院でなされるのは、イエスが彼らの地位や名誉、暮らしを脅かす存在となったからです。自分たちの生活が守られるためなら、イエスがどうなろうと構わないのです。こうしたウソに満ちた裁判のただ中にあって、イエスだけは真実を語ります。上記のみ言葉は、この裁判の後、十字架刑に処せられた後のイエスの姿が語られていますが、中でも「人の子」という言葉に注目しますなら、イエスはまさに人の子となられた方でした。真実な人であるイエスが、神のもとに引き上げられますなら、神の右に座する者とされるほどに高められていくとのイエス自身の確信から、この言葉を言われるのです。
 人の子イエスの天の御国へのこれほどの確信は、イエスを信じる私たちにとっても大きな慰めとなります。罪の中に生まれたような私たちが、神の子とされて、永遠の祝福の内を、地上の生涯だけでなく、その先においても生きる者とされていくのです。

10月27日
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ペテロの涙                         マルコ14:66〜72
 するとすぐ、鶏が再び鳴いた。ペトロは、「鶏が二度鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」とイエスが言われた言葉を思い出して、いきなり泣きだした。マルコ14:72

ペテロが3度イエスを否認する物語は、イエスの裁判と並行して起こっています。この2人は、とても対照的です。イエスは偽証が繰り返され、唾を吐きかけられなどの嘲弄を受けても揺らぐことなく毅然とした態度をとられますが、ペテロは女中のひと言で揺らいでしまい、先刻(29節)、豪語した言葉もどこかにいってしまうのです。54節の「火」は「光」とも訳せますが、この光に照らされることで、ペテロはペテロ自身の強さが出てくるのではなく、弱さが照らされてくるのです。
 ペテロはここで、イエスとの関わりがないことを示すために、呪いの言葉さえ口にします。どうしてこんな人についていったのか。どうしてイエスは私に声を掛けたのか。そのために今、こんな目に遭っていると自分を、またイエスを呪うのです。これまでの神やイエスとの間で築かれた深い関わりを断ち切るのが呪うということです。またペテロは、火(光)から遠い出口の方へ出て行きますが(68節)、これはいつでも逃げられる態勢です。それほどまでにペテロはイエスから離れ、自ら望んでともいえるほどに、滅びに突き進んでいくのです。
 けれども、み言葉はそこで終わらず、ペテロの涙と共に鶏の鳴き声で終わっています。特に鶏に注目しますと、鶏の鳴き声はイエスの言葉が実現する鳴き声となりましたが、夜明けを告げる鳴き声でもあります(15:1)。
 鶏が鳴く時、ペテロの滅びに向かう愚かさが見えてくる(Tコリント1:18)のと同時に、イエスの十字架による罪からの救いという真実な夜明けを知らせる鳴き声となって、私たちにも迫ってくるのです。

11月3日
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王なるイエス                                  マルコ15:1〜20
 ピラトがイエスに、「お前がユダヤ人の王なのか」と尋問すると、イエスは、「それは、あなたが言っていることです」と答えられた。                           マルコ15:2

ピラトははじめ、同じ裁判の場に連れて来られたバラバより、イエスの釈放を望みますが、この判断もバラバという危険人物より、明らかに暴力で解決しようとしないイエスを釈放した方が、自分にとって平穏だと思ったからです。けれども、現状、目の前にいる群衆の騒ぎも看過できないので、彼らの要求を飲むことにします。こうして、イエスの十字架刑が決められていくのですから、この裁判もイエスがどうなろうとかまわない裁判といえます。
 ピラトの名は使徒信条にも記されているので、とても印象に残る人物として覚えられていますが、時に、ピラトへの同情の思いをもって、信仰告白することがあるかも知れません。けれども、そうした心で告白することは、使徒信条への正しい向き合い方とはいえません。使徒信条はクリスチャンの信仰を明文化したものですから、ピラトの名を読む時、私たち自身の罪の姿を重ね合わせる必要があります。
 こうした裁判の中、イエスはひとこと話された後は、まったく話されません。いくつもの裁判を取り仕切ってきたピラトが不思議に思うほどイエスは黙っておられます。裁判は正義の名において人を裁くことです。イエスを裁いた人たちは、保身という正義にもならない正義を盾にイエスを裁くのです。また彼らの思いは、イエスを自分の下に置きたいがために裁くのです。自分の支配下に置いて自由に扱いたいのです。
 私たちも普段のことを思うと、彼らと変わらないような日常を送ってしまいがちになります。人を裁くだけでなく、イエスすら平気で裁く私たちがいます。
 そうした裁きが行われている場でイエスは黙って立つのです。もし、イエスが話し始められたら、ひとたまりもないでしょう。誰もが罪に定められて、滅びに向かわざるを得ない者とされるでしょう。けれども、み言葉が教えるのは、黙されるイエスです。真実な王の権威をもって、すべてを支配する事のできるお方が黙って裁かれ、十字架に向かわれるのです。それは、私たちが滅びに向かわないためなのです。

11月17日
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十字架のイエス                               マルコ15:2132
 
そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に担がせた。マルコ15:21

キレネ人シモンが、ゴルゴタへ向かっていたイエスの十字架を担がされます。十字架刑があらゆる刑罰の中で最も忌まわしく、最も屈辱的な刑罰だという本来の意味は、シモンも知っていたでしょう。自分が何かをしたから担ぐのではなく、今はまだ見ず知らずのイエスの十字架を無理に担がされるのです。シモンはどれほどの屈辱を味わったことでしょう。
 けれども、シモンはこの経験をしたがために、後にクリスチャンとされたと考えられています。彼の息子ルフォスが、主に結ばれ、選ばれた者として紹介されているからです(ロマ16:13)。息子がクリスチャンとされたのは、シモンの影響は大きいはずですから、シモン自身も救われたと考えるのは、間違っていないだろうと思います。
 こうした大変珍しい救われ方をしたシモンは、自分の担いだイエスの十字架について、証しをしたでしょう。何しろ自分だけが経験した特別で、貴重な経験ですから、イエスの十字架を見ていない人たちに繰り返し語り続けたでしょう。
 そして、何度も語り続けていく中で、語る言葉が精錬され、気持ちも整理されて、十字架にあらわされたイエスの愛の重さをも、シモン自身知るようになったと思いますし、これまで十字架に対して抱いていた思いも、まったく変えられていったでしょう。また、イエスをからかい、あざけるために掲げられたユダヤ人の王という罪状書きについても、ユダヤ人の王どころではない、王の王、主の主として十字架を耐え忍ばれたイエスの贖いの御業をほめたたえるほどに、彼の信仰は強められたことでしょう。
 私たちも、ただイエスの十字架を誇りとする信仰を持つ、クリスチャンとさせていただきたいと願っています(新聖歌367)。

11月24日
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神の子、イエスの死                 
 三時にイエスは大声で叫ばれた。「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。マルコ15:34
 十字架に架かられたイエスが息を引き取られます。その時、言葉にされたのが、上記のみ言葉です。十字架上のイエスは、他に6つの言葉を残されましたが、マルコの福音書の文脈では、この言葉を聞いたローマの百人隊長が「本当に、この人は神の子だった」との信仰が生まれてくるのです。
 「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」のイエスの言葉は、一見、絶望のただ中に置かれたイエスの弱さを感じさせる言葉です。確かに、イエスのこの言葉は、人としてのイエスの弱さを示す言葉になりますが、同時に、人が神に見捨てられる時、どんな状況になってくるのかを、イエスがその身をもってあらわされたともいえます。私たちの罪の身代わりとして、イエスがこうした死の迎え方をしてくださったので、私たちは、これほどの絶望を味わわないで済む者とされているのです。
 また、イエスのこの言葉は、ただ父なる神に呼びかける言葉でした。イエスを十字架に架けた張本人である、祭司長、律法学者、長老、群衆、ローマ兵たちに「なぜ、私をあざけり、罵り、十字架につけたのか」と問いただすのではなく、また「どうして、助けてくれないのか」と弟子たちを捜すのでもなく、ただ神と向き合い、ただ神に祈り、詩篇22篇のみ言葉と共に、ただ神への信頼の中、十字架の上にとどまり続けるのです。神とのこれほどの交わりを目撃した百人隊長は、イエスが本当に神の子だと、認めざるを得なくなり、彼の心にイエスへの信仰が生まれてくるのです。
 私たちが、人の子として、神の子として、十字架の上で救いを完成されたイエスを知っていること、このお方にこそ救いがあることを信じられていることが、どれほど大きな恵みであるのかを、覚える者でありたいと願っています。

12月1日
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共におられる牧者イエス      
 そのとき、彼らはわたしが彼らと共にいる主なる神であり、彼らはわが民イスラエルの家であることを知るようになる、と主なる神は言われる。                   エゼキエル34:30
 預言者エゼキエルのいた時代、イスラエルは大変困難の中を通らされていました。強大なバビロン帝国によって国が滅ぼされ、捕われの身とされていたからです。住み慣れた土地が破壊されて、そこから離されることもつらいことですが、彼らにとって何よりもつらいのは、いつも彼らの生活の中心に置かれていた神を礼拝する場の神殿が破壊されたことです。神殿が破壊されたことは、イスラエルの民にとって、もう神に見放され、見捨てられたといった失望感、絶望感に心が満たされることになります。
 イスラエルがこうなってしまった原因の一つは、イスラエルの王が王として本来の働きをしないで、自分のことばかり考えていたからです。王は「自分自身を養い」(2節)、「群れを養おうとせず」(3節)、「弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包まない」(4節)のです。イスラエルには王という立場の人はいたのかも知れませんが、羊を養う良き羊飼いはいなかったのです。
 そうした状況に置かれている彼らに向けて、神の言葉を伝える預言者として立てられたのがエゼキエルです。彼は、かつての良き王、民を正しく導いた牧者であったダビデのような王、牧者を再び立てると告げます。そして、その牧者は「悪い獣をこの土地から断ち」(25節)、祝福の雨を降らして、豊かな実りを用意し(26節)、くびきを砕いて自由にし(27節)、そればかりでなく、いつまでも共にいる神として見捨てないと言われるのです(30節)。この神のメッセージを聞いた民は、本当に慰められ、励まされ、喜びに満たされたことでしょう。
 こうした共におられる神の極みは、イエスのご降誕です。神であるイエスがまったき人となられ、これ以上ないほどにインマヌエルなる救い主となられたことです。良き牧者であるイエスを覚え、その主のご降誕の喜びを待ち望む私たちとさせていただきましょう。

12月8日
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小さき者に現れる救い
 エフラタのベツレヘムよ、お前はユダの氏族の中でいと小さき者。お前の中から、わたしのために、イスラエルを治める者が出る。                                ミカ5:1
 預言者ミカがいた時代、イスラエルは暗黒の時代でした。経済的な豊かさは満たされていましたが、霊的な状態は満たされず、どうしようもないほどに退廃し、堕落したものとなっていました。その堕落ぶりは1:1、2では、権力や富を握っている者の傲慢さを教えますし、庶民におきましても7:2、4、5といった様子が描かれています。本来あるべき国、社会での良い関係が一番身近な家族や友人の中でも築かれていないのです。
 また、神への信仰といった宗教面も魔術師が呪文を唱えることを良しとし、人の手で造られた偶像に手を合わせているのです(5:11、12)。
 イザヤはミカと同時期に働いていた預言者ですが、彼は神殿に自由に出入りができ、王と話せていることを思うと、比較的身分の高い立場にあった預言者といえますが、一方、ミカはモレシェトの人(1:1)と紹介されています。モレシェトは、都エルサレムからかなり離れている場所で、田舎になります。ミカがそういった所で暮らしていたということは、彼は農夫だったのではないかと考えることもできます。
 ですからミカは、民衆と同じ立場、同じ目線に立って、預言者として神の言葉を語るのです。ミカが語った上記のみ言葉は、メシヤ預言の言葉として知られているみ言葉ですが、ここの「小さき者」の代表がベツレヘムという寒村でした。またこの小ささは、ベツレヘムという目見える村の小ささだけでなく、南ユダ王国の王をはじめとする民衆すべてを含んだ彼らの内面、神への信頼の小ささも示しています。そうした彼らに向けて、ミカは、地の果てにまで及ぶ力をもって、彼らを治め、養い、平安を与える方に立ち返るようにと語るのです。
 この方こそ、イエス・キリストですが、私たちは、ミカのいた時代に生きた人たちのように神への信頼を小さくしていないでしょうか。アドベントを過ごす、この時にこそ、私たちを養い、平安を与えるキリストに、私たちの内に入っていただき、私たちの神への信仰を大きくいたしましょう。

12月15日
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主イエスの謙遜      
 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、、人間と同じ者になられました。            フィリピ2:6、7

主イエスの謙遜が書かれているみ言葉です。キリストの謙卑ともいわれますが、そのへりくだられた姿は、神であられるのに人となられたほどの謙遜です。人として受ける試練に会い、苦悩を味わわれた謙遜です(ヘブル4:15)
 出生におきましては、当時の人でもよほどのことがない限り、そうしたところでは生まないであろう家畜小屋でしたし、その暮らしということでは、「人の子は枕するところがない」という暮らしをされました。そして、人生の最期を十字架の上で迎えるというのは、そうした人を見かけることはあったとしても、自分が十字架にかけられるなんてことは、ほとんどの人が経験しないで、家族や親しい友に見守られながら、平安の中、生涯を終えていったことでしょう。ですから、イエスの生涯は、どの場面におきましても本当に身を低くされた謙遜な歩みでした。
 そうしたイエスの歩みに先立って、聖書はそのイエスの歩みを模範とするようにと勧めます。分裂していたフィリピ教会の信徒たちに思いを一つにし、一致するために、イエスの謙遜を見倣うようにというのです。
 こうしたみ言葉を知ると、私たちはイエスのへりくだりを身に着けようと一生懸命になります。けれども、その一生懸命になった先に気づかされるのは、なかなかイエスの謙遜に倣いきれない自分がいることです。いつまでもイエスのようにはなれない者であることに気づくのです。
 そうした時に、み言葉が教えるのは、イエスの前にひざまずき、イエスこそわが神、わが主と主の御名をたたえることです(10、11節)。いえ、自らのことを思えば、ひざまずかざるを得ない自分に気づくのではないでしょうか。私たちをきよい者とするために、お生まれになったイエス・キリストをほめたたえる者とさせていただきましょう。

12月22日
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人間回復のクリスマス                        
 神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは極めて良かった。創世記1:31

蛇からの誘惑を受けたエバが、食べてはいけないと言われていた木の実を、アダムとエバが食べてしまい、神の祝福から落ちてしまったみ言葉です。神が天地を創造されて、すべてを見渡されたとき、それは極めて良いものでした。その極めて良いものに含まれているのは、月や星といった天体だけなく、多様で豊かな自然の営みだけでもなく、私たち人間も含まれているのです。神の目から見て極めて良い存在として、宣言されているのです。
 しかしながら、現実の私たちの姿を見るなら、あたかも、この神の宣言から外れているかのような存在です。たとえば、ガラテヤ5:19〜21に見られることが平然と私たちの中で行われているのです。こうしたことに陥ってしまったのは、善悪を知る木の実を食べてしまったことが原因なのですが、考えてみると、アダムとエバは善悪を知る木の実を食べたわけです。神のように何が良くて、何が悪いのかを見分けられるようになったわけです。このことは普通に考えれば、とても良いことのように思います。
 けれども、これがさまざまな問題を引き起こす原因になっているのです。争いや怒りのもとになり、ねたみや利己心を生み出す原因になっているのです。どうしてなのかというと、善悪を知るというのは、何かの出来事に良いか悪いかの判断をすることです。こうした判断をするのは、自分が間違っていないと思っているからです。そして、自分の正しさを振りかざして他者を断罪します。さらにこれが進んでいけば、自分の正しさが通らないなら、他者をねたんだり、憎くなる思いも生まれてきます。そして、事実、み言葉はたった二人の間で、一人はもう一人のせいにするし、もう一人は蛇がだましたと言って、他者を裁くのです。確かにそれぞれ主張は間違っていないでしょう。けれども、二人にそう言わせたのは、自分の正しさだけを言い張る心です。ですから、どんなに善悪を知る者とされても、行き着くところは他者を裁くだけの冷酷で残酷なものになるだけであることに気づくのではないでしょうか。
 クリスマスにイエスがご降誕されたのは、そうした人間が本来あるべき姿、神に極めて良いといわれる存在に回復されるためです。イエスは自身の歩みを通して人の模範を示し、そればかりでなく、私たちを極めて良い存在として救うためです。それですから、私たちはクリスマスを喜び、祝うのです。

12月29日
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イエスの十字架を見た人たち     
 また、婦人たちも遠くから見守っていた。その中には、マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そして、サロメがいた。          マルコ15:40

イエスの十字架の死を見たのは女性たちでした。この時代、女性たちは大変な差別の中に置かれていました。何かの意見を言うことも許されず、子どもと同様に数にも入れられないような時代に、その場にいたというだけでなく、聖書に名が残されて世界中に語り伝えられていく存在になるのです。確かにこの場、この時に十字架のイエスを見上げる彼女たちに「この十字架こそが救いだ、福音だ」といった思いはなく、ただ、つい昨日までお世話をしていた方が残酷な十字架の死を迎えるのですから、言葉もなく見つめるしかできなかったでしょう。それでも、この後に彼女たちがしている香料を買い求め、イエスの納められている墓に行く姿は、美しく、気高い行為のように思います。
 また、イエスの死を間近で見た百人隊長も、百人の部下を持つ立場にあるとはいえ、彼はローマ帝国に雇われた異邦人だったとも考えられ、ユダヤの民からも神の民の属さない者とみなされていましたので、女性たちとはまた違う差別を経験していたとも考えられます。そうした彼が「本当に、この人は神の子だった」という今も色褪せない信仰の言葉が、聖書を通して語り継がれていることは、女性たちと同じように美しい信仰の姿を見出します。
 私たち自身の信仰告白も彼らと同じような美しさを持つものとさせていただきたいと願います。詩篇51篇にみられる「深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください」(3節)、「咎をことごとく洗い、罪から清めてください」(4節)、「わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください。」(12節)などのみ言葉を、私たち自身の祈りとして神にささげ、神の前にへりくだった者とされて、これからも歩ませていただきましょう。

1月5日
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神の国を待ち望んで             
 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。 マルコ15:43

アリマタヤのヨセフによってイエスが葬られます。彼は最高法院の議員だったとも考えられていますので、イエスの十字架刑が決定される裁判の現場にもいたと思われます。そうした立場ですから、ピラトのもとにイエスの遺体の引き取りを願い出ることは、大変な勇気のいることだったでしょう。というのも、きっとピラトもヨセフの顔くらいは知っていたかもしれませんし、引き取りの際、ピラトに何か尋ねられて下手な受け答えをしたら、今の自分の立場も危うくなることも考えられますし、引き取りそのものも取りやめになることも十分にありうることだからです。
 また、その決断をするのにもあまり時間が残されていませんでした。この時は夕方です。日没し、翌日になれば何もすることのできない安息日ですから、その前に葬りのためのすべての手続きを済まさなければなりません。
 そうした様子を見守っていた女性たちは、亡くなったイエスに何かをしてあげたいと願っても何もしてあげられません。ただ見守るしかできないのです。そこに彼女たちの思いを汲み取るかのようにヨセフが決断し、動き始めるのです。ヨセフがどうしてそれほどの思いにされていったのかというと、イエスに神の国の完成を見出したからです。これまでもヨセフも含めたイスラエルの民、誰もが神の国を待ち望んでいましたが、彼は裁判や十字架にかかられたイエスの様子を見たときに、イエスこそ神の国の到来、救いの完成を見出すのです。そして、その思いは、イエスを葬るという具体的な行動にもあらわれてきます。アリマタヤのヨセフのイエスへのこうした奉仕は、見守るしかできなかった女性たちを本当にホッとさせ、慰めることになったと思います。
 私たちのイエスへの奉仕、また教会での奉仕を通して、自身が満たされ、神が喜ぶだけでなく、どなたかの慰めにもなってくることを覚えられたら幸いです。その時、その奉仕はなお豊かなものとされていくのではないでしょうか。

1月12日
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復 活        
 驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさって、ここにはおられない。  マルコ16:6

日曜の朝、イエスは復活されました。その神の御業を見たのが女性たちでした。女性が軽んじられていた時代に、イエスの復活の証言をしていること、それ自体がイエスの復活を裏付けることになろうかと思いますが、その光景は驚きの連続でした。
 彼女たちは慕ってやまないイエスの死を目撃しました。これまで経験したことのない大きな悲しみを背負って安息日を過ごし、その悲しみを引きずりつつ朝を迎え、イエスのご遺体に香油を塗るためにお墓に行きます。悲しみのあまり、お墓の前に置かれていた大きな石の存在すら忘れていたのかも知れません。お墓への道中、それを思い出しますが、解決しないままにお墓の前に着き、見上げてみると石はどけられていました。
 これも驚くことでしたが、中に入ってみると、なお驚くことが起こっており若者がいます。若者とみ使いの見分けがつかないことも、イエスの死の悲しみがそうさせたのかと思いますが、その若者が言うには、イエスが復活されたというのです。
 十字架で死なれたイエスが復活する。女性たちはそのために悲しんでいたのですから、喜べば良いものの、震え上がり恐れるのです。なぜ、彼女たちは恐れたのでしょうか。それは思いがけないことが起こったからです。どんなに嬉しいことでも、急なこと、想像をはるかに超えた神の御業の真実を目の当たりにするときには、恐ろしさのあまり誰彼かまわず話せなくなり、話す言葉すら失ってしまうのではないでしょうか。
 また、み使いは主の復活を弟子たちに伝えるようにも言いますが、その伝えるべき弟子たちが、どんなだったのかというとイエスから離れていった弟子たちです。その彼らに復活されたイエスにガリラヤで会えると伝えることは、弟子たちにとっても嬉しいことではなく、怖いことと受け取るでしょう。それは叱られ、裁かれると思うからです。しかしながら、イエスは常に赦しのお方です。私たちがどうであっても、イエスはすべての人をご自分のもとに引き寄せ、ご自身が持っている罪の赦しの権威をもって、罪の赦しを宣言してくださるのです。

1月26日
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全世界に行って
それから、イエスは言われた。「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。                                                 マルコ16:15

マグダラのマリアと二人の弟子は、泣き悲しんでいる弟子たちに自分が経験した復活のイエスとの出会いを証しし、証言しますが、だれもその言葉を信じません。弟子たちもまた、若者からイエスの復活を聞いた女性たちと同じように、恐れていたのです。その彼らのもとに、復活の主があらわれます。 イエスが彼らにまず告げたのは、彼らの不信仰と頑なな心です。イエスの復活を聞いても信じない心を咎め、叱るのです。イエスは不信仰が見えてくるとき、見過ごしません。そのままで良いとは言われません。頑なな心のままでは困ると言われるのです。
 ただ、イエスはそうした彼らを叱りながらも、突き放してしまう方ではなく、その彼らに福音を宣べ伝えることを託されるのです。真っ先に滅びの宣告を受けてしまうような不信仰な彼らを、全世界に行って福音を宣べ伝えるようにと命じられるのです。
 また、イエスはすべての造られたものにとも言います。すべての人にではなく、すべての造られたものというのは、一つの見方をすれば、天地創造を終えられた神が、すべてをご覧になって祝福されたあの時の回復を願っておられることといえます。

イエスの十字架による救いと死に打ち勝つ復活の力という福音には、それほどの力があるのです。神の祝福を回復させる福音は、まず私たちを変えていきます。新しい言葉を授け(17節)、神を賛美する口に変えていきます。また、考え方や生き方をも変えていきます。そのようにして福音によって変えられた私たちは、他の方への話す言葉や態度も変えられていきます。福音にはそれほどの力があることを、はっきりと覚えたいですし、こうしたあり方が、私たちにとっての何よりもの「全世界に行って」といえますし、「福音を宣べ伝え」ることといえるのではないでしょうか。

2月2日
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朽ちない福音           
  主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。  
                                              マルコ16:19

 主イエスとあります。こうしたイエスの表記は、四福音書では、大変珍しくほとんどありません。それにも関わらず、私たちは主イエスという言い方をよく知っています。それは、使徒言行録以降のみ言葉に多く出てくるからです。
 主イエス。これは書き手のイエスへの信仰が込められている言葉です。Tコリント8:5、6を見ると、当時のコリントの町には多くの神々、多くの主がいたことを教えてくれます。その数多の主を見る中にあって、主と呼べるお方は、唯一イエスだけだという信仰をあらわしているのが、主イエスという言葉なのです。また続くみ言葉には、この主によって万物のみならず、私たちも存在しているといいます。それは、主イエスの贖いの十字架によって、罪ゆえに滅ぶべき万物、また私たちが生きるものとされているからです。
 また天に上げられた主イエスは、神の右に座しているともいいます。このことを単純に考えたら、私たちの手が届かない遠く離れたところに行ってしまわれたような感じがしますが、エフェソ1:20〜23が教えるイエスは、すべての支配、権威、勢力、主権の上に置かれているといい、そればかりでなく、イエスご自身が満ちているのが教会であることも教えています。神の右に座すイエスは、私たちを含めた万物を支配され、すべての主権を持っておられるイエスであり、教会という場から始まって、私たちを、また全世界を導かれる主なのです。
 だからこそ、弟子たちはすべての権威の源であるイエスを主として、イエスと共に宣教することだけに注力していくのです。今、私たちも、主イエスという信仰を、なおはっきりとさせていただきたく願います。そして、すべての主権を持っておられる主イエスが、共におられることを信頼して、歩むものとさせていただきましょう。

2月9日
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この福音によって
 御子は、肉によればダビデの子孫から生まれ、聖なる霊によれば、死者の中からの復活によって力ある神の子と定められたのです。この方が、わたしたちの主イエス・キリストです。 ローマ1:3、4

まだ会ったことのないローマにいるクリスチャンたちに、パウロは手紙を書きます。ここのみ言葉には、挨拶という見出しがつけられてはいるものの、その内容は福音の本質であるイエス・キリストにも凝縮して触れられていますので、すでに本題に入っているような内容です。
 それは、パウロ自身がイエス・キリストの福音によって、「イエス・キリストのものとなるように」まったく変えられた生き方をするようになったからです。キリスト者を迫害する者から、キリストを伝える者とされたからです。そして、その変革はローマの信徒たちにも及んでいるとの思いを込めて、手紙を書くのです。
 また、ローマのクリスチャンたちの多くは異邦人でしたが、パウロもまたユダヤの民から見たら、ユダヤ教からキリスト教に回心したので、異邦人のように映っていたと思います。ローマのクリスチャンと自分との間にある、こうした共通点を驚きをもって見出したパウロは、彼らのことを覚えて、恵みと平和があるようにと祝福を祈ります。
 祝福があるようにと祈る。私たちもこうした祈りをささげることがありますが、この祈りをむなしいものとさせないのは、祈る者の熱心さや真剣さではなく、イエスがむなしいものとさせないのです。イエスが、私たちの祈りに、真実な内容を与えられるからむなしいものとならないのです。
 私たちの祈りに先立って、イエスが祝福しようとされている。とすれば、私たちはもう祈らなくて良いのかといったら、そうではなく、イエスによって恵みと平和という祝福が備えられているから、私たちは安心して祈れるのです。

2月16日
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神への感謝                            
 イエス・キリストを通して、あなたがた一同についてわたしの神に感謝します。あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。ローマ1:8

パウロはローマのクリスチャンの信仰を知った時、「わたしの神」に感謝します。私たちではなく、私なのです。ここにはパウロ自身の神との近い関係、親しみが込められています。パウロは、御子イエス・キリストがなさった贖いの十字架を思うと「わたしの神」、さらには「アッバ、父よ」(ロマ8章)といわざるを得ない信仰へと駆り立てられていくのです。
 また、彼ら「一同」について神に感謝します。彼らの一部ではなく、彼ら一同、皆の信仰について感謝するのです。それは、彼ら一同の信仰の出どころが神にあるからとの信仰理解に立っているからです。それ故、パウロの感謝は神に向けられているのです。
 「まず初めに」と言います。まず初めにとは、第一にということです。とすれば第二、第三があっても良いように思いますが、どこにもありません。これは、それしかないということです。ローマのクリスチャンたち一同の信仰について、神に感謝するしかないのです。
 「全世界に」とも言っています。当時の世界の中心、ローマにキリストの教会が生まれたのですから、全世界といったのかも知れませんが、同時に、これまで各地でキリスト者が生まれてきたのを見てきたパウロだからこそ、全世界との思いも生まれてきたのでしょう。
 また、「言い伝えられている」ことを感謝しています。言い伝えているのは、周囲の人たちです。ということは、彼らの信仰は周りの人たちにも見えていたのです。信仰は頭の中だけのことではなく、彼らの暮らしの中にも出てくるものなのです。
 パウロは、伝道することで、またこうした手紙を書くことで自らの信仰をあらわします。ローマのクリスチャンたちは手紙を書くのは苦手だったかもしれませんが、ローマで暮らすことでその信仰をあらわします。暮らすというのは、良いこともあり、悪いこともある日常です。その中にあっても御子の福音から離れずに歩んでいくのです。私たちも、私たちに与えられたイエスへの信仰を「わたしの神」に感謝しつつ、毎日を歩む者とさせていただきたく願っています。

3月1日
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救いをもたらす神の力
 わたしは福音を恥としない。福音は、ユダヤ人をはじめ、ギリシア人にも、信じる者すべてに救いをもたらす神の力だからです。ローマ1:16
 
 この段落のみ言葉には、「福音の力」との見出しが付けられています。力とは、ダイナマイトの語源にもなった言葉です。「ギリシア人にも」とのみ言葉がありますが、これはただ住む場所が違い、国籍が違い、民族が違うばかりではなく、何よりも彼らのよりどころとする神、信じている神が違うということです。そうしたクリスチャンとなるのを遮らせてしまう壁ともいえるすべてのものを打ち壊して、神のもとに引き寄せて救わせる力が福音にはあるのです。
 これは、信仰の真理の1つといえますが、その真理を語り始める時、「恥としない」といった消極的な言葉で始められています。ここにはかつてのパウロの思いも反映されていると思いますし、ローマのクリスチャンたちの心にもあったのかも知れません。それは、イエスの救い主としてのなさり方が、あまりにも神らしくない救い方だったからです。イエスの十字架刑、それだけで見るなら、最も恥ずべき呪われるべき出来事です。
 こうした誰もが経験するであろう信仰的な弱さを前にしても、福音はすべての人に救いを得させる神の力なのです。信仰の弱さを罪と言い切れるものではありませんが、イエスをはっきりと明確に神の子、救い主と信じられないような私たちの心にも、この神の力は行き届き、さらなる確信へと導くのです。神の力に支えられて、救いの信仰に生きる私たちとならせていただきましょう。

3月8日
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滅びることのない神の栄光           
 不義によって真理の働きを妨げる人間のあらゆる不信心と不義に対して、神は天から怒りを現されます。                                          ローマ1:18

このみ言葉から3:20まで、暗いトンネルの中を進んでいくようなみ言葉になります。罪による神の怒りについて書かれているからです。神がなぜお怒りになっているのかというと、人が不信心で、不義であるからです。不義とは29節からのみ言葉でしょう。また不信心とは「神を知りながら、神としてあがめることも感謝すること」もしないことです。
 何をもって神を知るのかというと、神の創造された被造物においてです(20節)。広大な宇宙の働きに目を向けても良いですし、足下に咲く小さな花の生長を見ても良いのですが、そうしたところに神の御業があるのを知るのです(自然啓示)。
 そのようにして神を知りながら、神を崇めないのです。崇めるとは、あらわされた栄光を神にお返しするといった意味があります。神があらわされた恵みの数々を覚えて感謝するのです。神の恵みは無数にありますが、何よりもの恵みはイエスの救いです。
 けれどもみ言葉では、神によってあらわされた栄光を自分のものとするし、日常の恵みばかりでなく、イエスの十字架の恵みにも感謝することを忘れているのです。そうした不信心にあわせて不義も加えられてくるのですが、さらにこれらのことが、真理の働きを妨げるともいいます。真理とは、神であり、イエスであり、救いです。すべての人の救いは、イエスが願ってやまないことですが、私たちの内に不信心や不義があると、その働きが進んでいかないのです。
 神の怒りの前には、一人では決して立ち得ない私たちですが、十字架の上で流されたイエスの血と復活の新しい命の光という救いの恵みの中に生きますなら、イスラエルの民が小羊の血を柱と鴨居に塗って、その中にとどまるなら、主の災いが過ぎ越されたように、私たちも神の怒りが過ぎ越されていくのです。これからもイエスが完成された贖いの前に、真実にへりくだった者とされて、救いの光の中を歩む者でありましょう。

3月15日
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神を認めて生きる価値         
 彼らは神を認めようとしなかったので、神は彼らを無価値な思いに渡され、そのため、彼らはしてはならないことをするようになりました。                         ロマ1:28

「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」(23節)といいます。また「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んで」(25節)と同様のことをいいます。「取り替え」、「替え」、「代わりに」というのはすっかり入れ替えるといった意味です。これらのみ言葉にあらわれてくる人の姿は、自然な姿ではありません。本来の人の自然な姿は、神のかたちに似せて造られているのですから、神に栄光を返し、崇め、神を賛美する姿です。
 神の真理を偽りに替えるという不自然な生き方は、26節以降にもあらわれています。同性愛について触れ、「あらゆる不義、悪、むさぼり、悪意に満ち、ねたみ、殺意、不和、欺き、邪念にあふれ、陰口を言い、人をそしり、神を憎み、人を侮り、高慢であり、大言を吐き、悪事をたくらみ、親に逆らい、無知、不誠実、無情、無慈悲です。」と、これだけの不自然なみ言葉が並べられると、引っかからない人は一人もいないと思います。どのみ言葉も不自然なことであり、悪いことだと理解しながらしてしまうのです。さらには他の人の同じ行為をも是認するといいます。
 私たちがこうしたみ言葉の光に照らされて、不自然で不義の中に生きてしまうことに気づかされると、本当にどうにもならないような思いになります。けれども、自らを振り返り、イエスの贖いの十字架を深く覚える受難節を過ごす私たちにとりましては、これらのみ言葉が開かれることはとてもふさわしいといえます。
 パウロがこうしたみ言葉を書いたのは、彼自身がこれらの不自然なみ言葉の中に生きていたことを自覚したからです。どうか、私たちの生き方が、神を認め、イエスの救いを認める、人本来の自然な生き方を、これからも身に着けていける者であるよう、その価値を見出す者であるよう願います。

3月22日
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神の慈愛と寛容と忍耐
 神の憐れみがあなたを悔い改めに導くことも知らないで、その豊かな慈愛と寛容と忍耐とを軽んじるのですか。                                        ロマ2:4

この手紙の受取人はローマにいるクリスチャンですが、その多くは離散したユダヤの民でした。周囲の自分たちとは違う習慣、文化、宗教に影響を受けながらも、彼らは選ばれた神の民としての優位性に誇りをもって生きていました。そして、その思いは人をさばくという行為にあらわれます。他者を良いか悪いかと定めるのは、自分は間違っておらず、正しいと思っているからです。
 また反抗心(8節)とありますが、これは利己的な思い、自分本位とも訳される言葉で、こうした心が生まれてくるのは、前述のように他者より神に近く、親しい者としての自負があったためであり、神の憐れみを軽んじていたためです。
 「真理ではなく不義に従い」とか「悪を行う」、「善を行う」といったみ言葉は、1:29から記されている様々な不義を示すものですが、何よりもの不義は、神の慈愛、寛容、忍耐を軽んじていることです。神の慈愛は自分の血を分けた者に対するような慈愛です。神の寛容は他者を平気でさばくような者さえも受け入れる寛容です。神の忍耐はいつかご自分の方にはっきりと向きを変えて、賛美する者とされるのを待ち続けるほどの忍耐です。

ユダヤの民はこれまで注がれたこの神の憐れみを軽んじるのです。み言葉はその彼らに悔い改めを迫りますが、その悔い改めに導くのも神の憐れみ(慈愛、寛容、忍耐)だといいます。
 悔い改めは、人の、また私たちの心の動きですが、その心を動かすのが神の憐れみだというのです。不思議な感じがしますが、これがみ言葉の真実です。私たちを悔い改め(救い)に導く神の慈愛、寛容、忍耐の豊かさを覚えましょう。



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