宗教法人 日本ホーリネス教団 厚木キリスト教会
聖書のお話
年 | 月 日 | |
2015年 | 6月7日 ▲戻る▼ |
洗礼者ヨハネのつまずき 「わたしにつまずかない人は幸いである。」 ルカ7:23 イエスのもとにヨハネの遣いの者がやってきました。彼らはイエスに「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」と尋ねます。ヨハネがこうした質問をイエスに投げかけたのは、イエスに疑問を持ったからでした。ヨハネやその弟子たちが、イエスが実際になさっていることにつまずいてしまったからです。 ヨハネ自身、自分に与えられた「主の道を備える」という使命は、よく承知していたはずです。けれども今、ヨハネはその大切な使命も果たせない捕われの身です。自分がそうした状況に置かれたことも、イエスにつまずいてしまった要因の一つといえます。 これに対し、イエスは「目の見えない人は見え・・・」(22、23節)と答えられます。これは実際にイエスがされている事というのと同時に、旧約聖書のみ言葉(イザヤ35、61章)の成就でもあります。そして、「つまずかない者は幸いだ。」と答えられるのです。「つまずかない者は幸いだ」この言葉は、彼らを断罪する言葉ではなく、彼らの心を受け止める言葉です。つまずき倒れてしまっている彼らを立ち上がらせる言葉です。 なぜ、彼らはイエスにつまずいてしまったのでしょうか。それは、自分たちが思い描くイエスの姿と実際にされる事との間に食い違いが生じてきたからです。そのために、戸惑い、疑う心が生まれてきたのです。 |
2015年 | 6月14日 ▲戻る▼ |
イエスの歌った歌 「笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌をうたったのに、泣いてくれなかった。」「しかし、知恵の正しさは、それに従うすべての人によって証明される。」 ファリサイ派の人々や律法学者たちが、洗礼者ヨハネやイエスの歌った歌に耳を傾けなかったことを教えるみ言葉です。 それゆえ、ヨハネは悔い改めの心をあらわすために、パンも食べずぶどう酒も飲まず(33節)、荒野という生活するのには困難な場所で暮らしたのですし、また、イエスは救いの喜びを示すために、当時、人々から一緒に食卓を囲むのを敬遠されていた、徴税人や罪人たちと食事を共にされたのです(34節)。 ヨハネが歌った悲しみの歌、イエスの歌った喜びの歌、それはどちらも、神の御旨、私たちに対しての神の御心を教えてくれる歌です。そして、この知恵は(35節)、伝えられる時代や地域が変わっても、変わることのない真実であり、神が私たちに備えてくださった恵みであることを、私たちは弁えねばなりません。 |
2015 | 6月21日 ▲戻る▼ |
いちばん大切なもの イエスと弟子たちを家に迎え入れたマルタとマリヤの物語です。イエスたち一行が家に入ると急に慌ただしくなってきます。マルタは長旅で疲れたであろう彼らをもてなすために、家の中を忙しく走り回っています。一方、妹のマリヤはというと、イエスの話を聞くことばかりに集中していて、マルタを手伝おうとする素振りも見せません。 それに腹を立てたマルタは、マリヤのみならず、イエスにも「わたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」(40節)と訴えます。 彼女の訴えにイエスは「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」(41、42節)と答えられ、彼女のしていることを否定はされないのですが、何が大切なことなのかを教えようとされています。 マルタ自身、イエスの言われた「必要なこと」はこれまでも良く分かっていたでしょうし、ここで言われたことで、尚、深く理解したことと思いますが、それでも姉として、妹のマリヤに先を越されたと言いますか、何か心に引っ掛かるものが残ったようにも思います。 ヨハネ12:2を見ますと、その後のマルタの様子を教えてくれます。ここでマルタが何をしているかというと給仕をしています。これまでと同じように給仕をしているとはいうものの、ここでは特別に不平を言わず、奉仕に徹することができたというのは、彼女の信仰が少しずつ整えられていったからと言えます。ヨハネ11:27に見られるような信仰告白に根差し、主イエスの言葉を聞き続けていたからこそ、自分に与えられた奉仕を続けられたのでしょう。み言葉を聴くことの大切さを覚えたいと思います。 |
2015 | 6月28日 ▲戻る▼ |
あなたの罪は赦された 「そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。 ルカ7:48 泣きながらイエスの足元に近寄った罪深い女性が、イエスに罪の赦しの宣言がされる物語です。同じ涙することで言えば、7:11〜17で一人息子を亡くした母親も涙していますが、両者へのイエスの態度を見ると大きな違いがありますので、それぞれが流す涙の意味も変わってきます。母親の涙は悲しみの涙であり、罪の女性の涙は悔い改めの涙であり、イエスによる罪の赦しからくる感謝の涙です。 イエスは罪の女性が流す涙の意味を深く理解されたので、しっかりと受け留められるのですが、同席していたファイサイ派のシモンは、その意味を理解できませんでした。そのためシモンは彼女を罪ある者として認め、退けますし、また彼女に対して自分とは違う態度をとるイエスをも退けてしまうのです。 そうしたシモンに向けて、イエスは2人の者の借金がゆるされるたとえを話されました。そこで思うのは、彼はこの話をどう聞いたのかです。このたとえでの借金は罪を指しますが、彼は自分には罪はないとの自負に生きていましたから、きっと彼は自分には借金はないと考えたでしょう。ゆえに許される必要もないと思っていたかも知れません。 しかしイエスは、彼に自らの罪に気付いてほしいとの思いを込めて、この話をするのです。ここでの彼の罪は、罪の女性を救いの余地のない者として退け、イエスをも受け入れないことです。このことにシモンが気付く時、イエスの話されたたとえで語られている許しの恵みにも気付くでしょう。 そこで私たちが、改めて気付くのは、シモンもイエスの赦し(救い)の恵みに招かれていることです。ここで実際に罪赦され、救われたのは罪の女性ですが、シモンも同じ救いの喜びに生きるようにと、イエスが招いていることです。このことを知る時、私たちにも主イエスの招きがあることに気付かされます。み言葉を通して主イエスに出会い、その招きに答え続ける私たちでありたいと願います。 |
2015 | 7月5日 ▲戻る▼ |
いつもの暮らしの中で
「彼女たちは、自分の持ち物を出し合って、一行に奉仕していた。」 イエスのいつもの伝道生活を教えるみ言葉です。イエスは町々、村々を巡りながら旅を続け、行く先々で福音を告げ知らせていました。そこには、イエスの弟子である12人も一緒でしたが、それだけではなく、多くの女性たちも同行していました。 また彼女たちはそうした奉仕をする中で、行く先々の人たちとも良い関わりを持っていったのでしょうから、その日常の中で、イエスを伝えること(伝道)もしたに違いありません。いつもの暮らしの中でイエスを伝えること、伝道を考える。福音が広められていく一つの鍵になるのではないでしょうか。 |
2015 |
7月12日 ▲戻る▼ |
聞く耳のある者は・・・ 教会では、とてもよく親しまれているみ言葉の一つです。イエスが話されたたとえの内容は、道端に落ちた種を鳥がついばむ様子などは、すぐに思い描くことができますから、石地や茨の中など、それぞれの地に落ちた種がどうなったのかという結末は、置かれた土地の環境を思いますなら、誰もが納得ができるものと言えます。 良い地とはみ言葉を良く守ること、忍耐することなどが挙げられていますが(15節)、よく守るとは「魂を救うことのできる」ものとしてみ言葉を忘れないでいることです(ヤコブ1:21)。また忍耐するとは、換言すると、変わらない気持ちともいえます。身の回りにいろいろなこと(喜びもうれしさも、苦しさも悲しみも)が起こってきても、変わらない気持ちで神さまにのみ信頼を寄せていく。その時に私たちの心は良い地とされ、良い地とされたからには、多くの実を結ぶ者とされていきます。 |
2015 | 7月19日 ▲戻る▼ |
灯を燭台の上に イエスの話されたたとえの意味を調べると、ともし火は神の国の秘密(10節)であったり、神の言葉(11節)であったり、イエスご自身であったりと解釈は様々ですが、要するに私たちのもとに届けられている福音(救い)と言えます。 このたとえは、その福音であるともし火を、どこに置くのかが問われているのです。「器」とは仕事、「寝台」とはよく言えば安息ですが、悪く言えば怠惰です。これらのもが妨げとなれば、ともし火が灯されていたとしても部屋を明るくすることはできず、入ってくる人は暗くてつまづいてしまうかも知れません。そうならないために、イエスはともし火を燭台の上に置くようにと言われるのです。 では、燭台の上にともし火を置くとはどういうことかというと、他者に向けては伝道といえるでしょうし、自分に向けては救われた喜びに満たされていることになるでしょう。 こうしたたとえの意味や私たちへの適用は、注解書などを見れば分かってくるので、それほど難しいことではありませんが、それを自分の生活の中で活かしていくことは、難しいかも知れません。あるいは、ともし火を燭台の上に置く生活を続けることで疲れてしまうということも、最近は耳にします。 けれども、そこで立ち返らねばならないのが、救いの原点です。私たちの心にともし火を灯してくださった主イエスの十字架の御業という原点です。そこに目を向ける時、クリスチャンとして、ともし火を燭台の上に置いて灯し続けていきたいと願うようになるでしょうし、さらには、そうした暮らしをしていく中で得られる、み言葉による励ましや慰めという恵みにも気付かされるのではないでしょうか。 |
2015 | 7月26日 ▲戻る▼ |
神の家族の生み出すみ言葉 イエスのもとにやってきた家族たちですが、彼らがやってきたのは、イエスを取り押さえるためでした。 これまでイエスは、重い皮膚病の人を癒したり、罪人を食事に招いたりしていました。これらのことは、当時の人たちは決してしていないようなことでした。病は罪のためと考えられていたような時代ですし、罪人に触れでもしますなら、その罪が自分にもうつってしまうと考えられていたからです。 そうしたことをするイエスに、「あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)との声が、民衆の中からあがり始め、それを聞いた家族は、イエスを取り押さえるためにやってきたのでした。 このイエスの教えを通して気付かされるのは、神の言葉を信じることの力です。クリスチャンは神の言葉である聖書を信じています。それは、自らの平安のために信じるのですが、ここでイエスが教えられるのは、それ以上の広がりを見せるものです。どのような広がりかというと、クリスチャンがみ言葉を信じることで、周囲の人(家族や知人)にもみ言葉による恵み(平安・祝福)が広がっていくというものです。 私たちクリスチャンがみ言葉を信じ、信頼する時に、神さまはこうした御業をなさろうとしてくださるのですから、私たちは尚、しっかりとみ言葉につながり続ける者でありたいと願います。 |
2015 | 8月2日 ▲戻る▼ |
眠るイエス ここでイエスは嵐を静める奇跡をされていますが、注目したいのは眠るイエスです。聖書であまり見られないイエスの姿です。イエスは何故、眠られたのでしょうか。 一つは父なる神への信頼です。二つはイエスの弟子訓練のためです。またもう一つに、単純に疲れたからということも考えられます。というのも、神の御子イエスは、人の子でもあるからです(二性一人格)。では、何故イエスは人としての歩みをされたのでしょうか。それは、人がいかに弱い存在であるのかを知るためです。知るという以上に、まさに弱い者となられ、ここで眠られたのが、私たちの救い主イエスです。 弟子たちは眠るイエスを、はじめは疲れているのだろうから、そっと寝かしておこうと考えたでしょう。けれども、風が強くなり、波も荒れてきて、自分たちの命が危うくなってくると、眠っているイエスを叩き起こすのです。 こうした弟子たちの気持ちの変化は、イエスが25節で指摘しているように、イエスを完全に信頼する信仰があるとは言い難いでしょう。 では、彼らに本当の信仰があったなら、どうすべきだったのかというと、イエスを起こさないことです。イエスを起こさないなら、目の前の嵐は静まりません。彼らのできる事は、舟を必死に漕ぎ続けることぐらいです。一見するとイエスを信じていない人と同じことをしているのですが、そこには、大きな違いがあります。それは、イエスが共にいるという安心です。荒れる波風を目の前にしても、イエスが共にいるなら恐れることなく、舟を漕ぎ続ける時、イエスの言われたとおりに向こう岸に着くという(22節)、イエスへの信頼 |
2015 | 8月9日 ▲戻る▼ |
ゲラサ人の癒し 「家へ帰って、神があなたにどんなに大きなことをしてくださったか、語り聞かせなさい」(口語訳) ルカ8:39 イエスが悪霊に取りつかれているゲラサ人を癒すみ言葉です。彼は長い間、墓場をすみかとし、鎖につながれていました。彼が墓場に住むようになったのは、悪霊に取りつかれたために、町の人たちに迷惑をかけるようになったのが原因と言えますが、町の人の思いを考えると、自分が平和に暮らすために、彼を町から追い払ったとも言えます。 と言うのも、イエスへの対応も同様であるからです。イエスは男の癒しのために豚の群れを用いられましたが、37節にあるように、民衆はイエスにも出て行ってもらいたいと願っているからです。彼らは自分たちとは違う異質なものを締め出し、更には一人の人が癒される価値をも見失っていたと言えます。こうした人間の姿を聖書から知ることができるのは、私たちに大きな気付きを与えるものです。 また、この男は悪霊に執拗に捕われていたために、日常生活に支障をきたしていましたが、イエスに出会うことで正気に戻りました(35節)。このみ言葉は、こうした悪霊(サタン)から引き離されることが、イエスへの信仰の一側面であることを教えてくれています。 イエスに癒してもらったこの男は、イエスに同行したいとしきりに願いますが、イエスはそれを許されません。そして「神がどんなに大きなことをされたのか、語り聞かせなさい」と告げるのです。町の人々に、また彼の家族に神を告げ知らせるのは、困難をきわめたでしょう。けれども、彼はイエスの言われたとおりに町中に言い広めるのです。 私たちも「神がどんなに大きなことをされたのか」を覚えねばなりません。そして、その恵みを覚えるのと同時に、その恵みに応えていく者でありたいと願います。 |
2015 | 8月16日 ▲戻る▼ |
信仰の生まれるところ そのヤイロの心を知ってか知らずか、イエスは女性とのやり取り(イエスの服に触れたのが誰かの問答、45〜48節)を続け、ついに娘が亡くなる知らせが届けられます。悲しみのどん底に突き落とされたヤイロにも、イエスは50節の言葉をかけられ、二人の女性はイエスから救いの宣言がされるのです。 イエスは彼らに「あなたの信仰が・・・」(48節)、また「ただ信じなさい・・・」(50節)と言い、イエスへの信頼を促しますが、彼らがした事と言えば、イエスの服に触れた事、触れて癒された事を気付かれずに、その場から立ち去りたかった事であり、ヤイロにしても、自分がどれだけ大変な状況にあるのかを、イエスに告げただけの事です。 これまで8章で言われていた信仰とは、15、16、21節のみ言葉だと考えますが、彼らの内に、そのような信仰は見当たりません。けれどもイエスは、どのような心からであれ、ご自分により頼む者に御業をされ、彼らに信仰を与えていることは私たちにも大きな恵みを届けてくれます。 それは、ただ主イエスに寄り頼む時、主の御業がなされるだけではなく、私たちの主への確かな信仰も与えられるものであることに気付かされるからです。私たちはありのままを主のもとに持っていき、成長させるのは主であるとの思いをもって、歩ませていただきたいと願います。 |
2015 | 8月30日 ▲戻る▼ |
イエスの弟子訓練 これまでの弟子たちは、イエスの語られる福音が人々に伝えられるのを聞き、またイエスがなさるさまざまな奇跡を見てきました。そして今度は、その弟子たちが、あたかもイエスと同じ力ある者のようにされて各地に遣わされていき、上記のみ言葉のような業をしました。 またイエスは、彼らを遣わすにあたり、3節の言葉を言われました。これらのものは、当時旅をする時に、最低限必要なものばかりです。それを持たずに旅に行けとイエスは言うのです。酷なこととは思いますが、彼らが旅をする目的を考えると、イエスがこう言われるのも分かる気がします。 彼らの旅の目的、それは彼ら自身が神の国の恵み(神への信頼)を経験することです。と言うのも、イエスは旅から戻ってきた弟子たちに旅の成果を尋ねず、またルカ22:35でも旅先での不足を尋ねているからです。ですから、イエスが弟子たちを派遣するにあたり、一番気にしていたのは前述のように、弟子たち自身が神(イエスの言葉)に信頼する恵みを経験したかどうかなのです。 この旅を通して弟子たちは「いいえ、(不足は)何もありませんでした」(ルカ22:35)と告白し、無事に帰って来られたのですから、イエスへの信頼は尚、強められたことです。 |
2015 | 9月6日 ▲戻る▼ |
5つのパンと2匹の魚と弟子たち 5000人の給食のみ言葉です。イエスの周囲には多くの人が集まっていましたが、人々はそれぞれに弱さ(問題、課題)を抱えていました。治療が必要な人(11節)も弱さの一つですが、ここにおいては、日が傾きかけた(12節)ことで食事や泊まる場所をどうするのかという問題が群衆にとって大きな弱さとなってきています。 また、このことはイエスに「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(13節)と言われた弟子たちにも弱さとなってきたでしょう。 イエスの周りにはこうした弱さを抱える人が多くいましたが、その人々を前にする時、イエスは彼らを放っておかず、その弱さを気にかけ、群衆に対しては癒しやパン、魚を与えられ、弟子たちに対しては尚、イエスの言葉に信頼できるような信仰を与えられるのです。 そしてイエスはこの御業をされる時、ささげられた5つのパンと2匹の魚を用いられました。人の考えからすれば、ささげられたものは本当にわずかなものと言えますが、一たびイエスの手に届けられますなら、み言葉が教えてくれるとおり、祝福されて大きな恵みとなってくるのです。 さらに、イエスはパンや魚を配るために弟子たちを用いられます。それはこれから後、彼らが初代キリスト教会の指導者とされた時の訓練といえます。弟子たちが人々にパンや魚を手渡していく時、その顔を見ますなら、それぞれに、さまざまな事情を抱えていることを知ったでしょう。また、これほどの多くの人が、イエスのもとに(救いを求めて)集まってきていることも実感できたでしょう。 私たちも必ず大きな恵みとしてくださるイエスに心からのものをささげ、イエスが弟子たちを用いられたように、私たちをも用いたいと願っておられることを、覚えたいと思います。 |
2015 | 9月13日 ▲戻る▼ |
信仰の告白 そうした周囲からイエスの噂を聞きながらも、その意見に流されることなく、ペテロは「神からのメシアです。」と自らの信仰を言い表すのです。 この信仰告白から後、イエスの十字架を前にしたペテロがしたことは、イエスを3度否認してしまう彼がいるのですから、この時の彼の信仰は十分に整えられたものとは言えないのでしょう。けれども、今ここで、イエスから「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」(20節)と、尋ねられたことに、「神からのメシアです。」と答え、真実な信仰告白ができたのは、この時にペテロができる精一杯の信仰を言い表したといえます。 私たちの信仰(告白)も振り返ってみると、イエスに全く信頼を寄せて「あなたこそ、メシア、キリスト、救い主です。」と力強く告白できる事もあるでしょうし、そうできない時も、それぞれにきっとあることと思います。 そうした時に、私たちがこれからも尚、力強くイエスへの信仰を言い表そうとしていこうとする時、私たちのすべきことは、弟子たちがそうであったように、私たちもイエス(み言葉)のそば近くに居続けることはとても大切なことといえます。そして、私たちがそれぞれの時に、この真実な信仰告白をする歩みこそ、イエスが喜ばれるクリスチャンの歩み方といえるのではないでしょうか。 |
2015 | 9月20日 ▲戻る▼ |
まいごの羊 イエスは徴税人や罪人たちと一緒に食卓を囲んでいました。ファリサイ派の人や律法学者たちは彼らを嫌悪していたので、そんな彼らと仲良く食事をするイエスに不平を言い出します。 イエスはこのたとえを話すことで、迷い出た羊を探す羊飼いの苦労、どんなに大変な思いをして探しているのかを伝えようとしたのではなく、いなくなった羊を何としてでも探し出そうとする羊飼いの決意を伝えようとしています。そして、羊が見つかった時には大きな喜びがあることをも知ってもらいたいのです。 |
2015 | 9月27日 ▲戻る▼ |
栄光の姿に変わられるイエス イエスは栄光の中に現れたモーセとエリヤに会い、イエスの最期について語り合っています。イエスの最期、それは十字架による死であり、贖いです。また、最期という言葉には脱出するという意味があり、出エジプト記の英語書名(Exodus)とされていますが、これらを踏まえて、イエスがエルサレムで遂げようとされている「最期」を思いますなら、実に壮大なことをされようとしていることに気付かされます。 イエスは今、その最期について語り合っているのです。イエス自身、このことは、すでにはっきりと自覚していたはずです。けれども、それでも、ここでこうした光景を弟子たちに見せ、またイエスも51節でその決意を固められているというのは、真実な出エジプトを成就させるための出発式ともいえるのが、このみ言葉と言えます。イエスの歩まれた歩みに、また私たちに救いの道を開かれたイエスの御業に、私たちの救い主の御名をたたえましょう。 |
2015 | 10月4日 ▲戻る▼ |
背負われる神 聖書では、こうした不信仰に陥っている人々がいるのを教えてくれていますが、私たちがそうならないようにするために覚えておきたいのは、この出来事の前のみ言葉です(9:28〜36)。 栄光の姿のイエスを仰ぐとは、礼拝を守ることであり、日ごとの聖書を通しての神との交わりを重ねていくことです。このことを大切にしていく時に、私たちの信仰は、不信仰に陥らず、なお、主に喜ばれる信仰へと整えられていくことです。 |
2015 | 10月11日 ▲戻る▼ |
受け入れられるイエス 両者のこうした心の隔たりを知る時に、私たちが願うのはイエスの心を私たちの心としたいということです。イエスの心があらわれているのは48節のみ言葉です。中でも「受け入れる」ことです。 私たちもこのことが大切なのは承知していますので、そうしようとするのですが、時に受け入れられないこともありますし、たとえ受け入れたとしても、その受け入れ方が、相手よりも立場が上であるかのようにして受け入れることがあるかも知れません。 そこで私たちが覚えたいのは、ここでイエスが子どもを受け入れられているように(47節)、私たちもイエスに受け入れられている者であるということです。 |
2015 | 10月18日 ▲戻る▼ |
私に従いなさい 「イエスに対して、「あなたがおいでになる所なら、どこへでも従って参ります」と言う人がいた。イエスは言われた。「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」 ルカ9:57、58 3人の人がイエスに従いたいと申し出ています。一人目の「どこへでも従って参ります」(57節)との積極的な申し出には、イエスはそれを拒み、その覚悟を試すかのような返答をされます。 また「まず、父を葬りに行かせてください」(59節)と言う二人目に対しては、「まず私に従いなさい」という意味合いのことを言われます。それは私(イエス)のもとに来ることこそ、あなたの悲しみを取り除き、真実な命への道(救い)が開かれるのだから、従いなさいということです。 そして、3人目の申し出へのイエスの返答に「後ろを顧みる者」(62節)とありますが、過去(後ろ)を振り返る時に、未練や後悔があるような振り返り方が、「ふさわしくない」とイエスはおっしゃりたいのだと思われます。 こうした3者にイエスが等しく願っていることは「わたしに従いなさい」(59節)です。今自分が置かれている不安や悲しみ、後悔の中から一歩踏み出し、イエスのもとに出て行って、共に歩むことを願っておられるのです。 イエスに従い、共に歩む歩みには、常に平安と祝福が待ち構えるかのようにして、備えられています。 |
2015 | 10月25日 ▲戻る▼ |
小羊を遣わすイエス |
2015 | 11月1日 ▲戻る▼ |
名が天に記されている喜び 「あなたがたの名が天に書き記されていることを喜びなさい。」 ルカ10:20 イエスに遣わされた72人は、無事にイエスのもとに帰ってきました。彼らは「主よ、お名前を使うと、悪霊さえもわたしたちに屈服します。」(17節)と言って、自分のしてきたことを喜びます。 そしてイエスの喜びは、遣わされた「幼子のような」72人に、栄光を示された「天地の主である」神に向けられます(21節)。 イエスのこの自己証言を思い、それが名もなき72人にあらわされたことを思いますと、どれほどの神の愛が、彼らに、また私たちに注がれているのかに気付かされ、イエスへの感謝で満ち溢れてきます。 |
2015 | 11月8日 ▲戻る▼ |
よきサマリヤ人 神を愛する礼拝を中心とした生活を守り、隣り人を自分のように愛することを実践していたのでしょう。けれども、彼はそうした暮らしを送る中で、本当に隣り人を愛せているかという疑問、限界を感じるようになってきたのかも知れません。 そのために律法学者は自分を正当化しよう(29節)とします。そして、自分の立場を弁護するために彼がしたことは、隣り人の範囲、枠を決めることでした。ユダヤ人である彼にとって、このたとえ話に出てくるサマリヤ人は、彼の考える隣り人の枠外の者でしたので(ユダヤ人はサマリヤ人を軽蔑していた歴史がある)、素直にサマリヤ人とは答えず(サマリヤを言う事さえ憚られたのでしょう)、「その人を助けた人です」(37節)と答えるのです。 律法学者のこの心は、私たちも分からなくもありません。差別や軽蔑ということはないまでも、隣り人の範囲をどこまでも広げていくとしますなら、自らの生活すら成り立たなくなっていくように思えてくるからです。 最後にイエスは、「誰が・・・隣人になったと思うか。」(36節)と尋ねますが、これは律法学者が尋ねた「私の隣人とは誰ですか」(29節)の質問とは異にするものといえます。 |
2015 | 11月15日 ▲戻る▼ |
神に愛されて (子ども祝福ファミリー礼拝) 成長を考える時、人に愛されることが大切だというのは誰もが認めることといえますが、神に愛されることはどういった意味で大切なのでしょうか。 そこでまず覚えたいのが何が成長するのかです。み言葉が教えるように知的な成長もありますし、背丈が伸びるという肉体的な成長もあります。また、精神的、社会的、霊的、全人的といった面での成長も考えることができます。 人の愛は比較的分かりやすいのかも知れませんが、神の愛はどこに示されているのかというと、自然や歴史、人間存在を通して神の愛を見出すことができます(一般啓示)。また、神の愛ということで、私たちが特に覚えておきたいのはイエスです(特別啓示)。 そして、さらには私たちを罪から救い出すために、イエスが成し遂げてくださった贖いの十字架に神の無償の愛(神に愛されていること)を見出すことは、これからの私たちに真実な成長をもたらすのではないでしょうか。 |
2015 | 11月22日 ▲戻る▼ |
ただ一つ必要なこと そのためにマルタは今、イエスの教えられたことを実際にやってみようと心に決め、もてなしのために専心するのです。また、彼女が願っていたのはマリヤも一緒にもてなしの準備に加わることであり、イエスも喜んでそのもてなしを受けてくれることだったでしょう。 けれども、それが思うようにいきません。マリヤは手伝う素振りも見せず、そのことをイエスに告げるなら「・・・あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。・・・」(41、42節)と言われるのです。 そこで考えさせられるのは、ここで本当の意味で招かれているのが誰なのかです。実際に家に招き入れたのはマルタであり、招かれたのはイエスですが、本当の意味で招いたのはイエスであり、招かれているのがマルタやマリヤであることに気付かされます。 というのも、イエスがされてきた旅の目的は、神の国(福音)を宣ベ伝えるための旅であるからです。そして、その旅の途中にイエスはここに立ち寄られるのです。とすれば、イエスの旅の目的が達成されるために必要なことは、招かれたマルタやマリヤがイエスの言葉に聞き入ることに尽きると思います。 |
2015 | 11月29日 ▲戻る▼ |
祈ることを教えてください また2つ目(5〜8節)に、子は親を信頼しているからこそ、さまざまな願いを遠慮なくできるように、私たちも「父なる」神に、なお一層の信頼をして、遠慮せずに祈るように求めておられます。その祈り願う時に、親の子に対しての対応がそうであるのと同じように、神も必要と思えばこそ、その必要を満たしてくださるでしょう。 3つ目(9〜13節)には、神はこれまで私たちに実に様々な「良い物」を与えてくださっていますが、それらの無数の良い物を一気に飛び越えるようにして、「聖霊を与えてくださる」との約束をしてくださっています(13節)。聖霊は永遠に私たちと共にいてくださり(ヨハネ14:16)、私たちを真理へと導き入れてくださるお方です(ヨハネ16:13)。 私たちのささげる祈りには、こうした意味、意義があることを覚えたいと思います。 |
2015 | 12月6日 ▲戻る▼ |
神の言葉を聞き、守る人 「むしろ、幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である。」 ルカ11:28 イエスが悪霊を追い出しているのを見た人々の中で、イエスが何の力によって、それをしているのかの論争が起こります。「悪霊の頭ベルゼブルの力」によるものではないかと言う者や、「天からのしるし」を求める者がいます。それにイエスが答えられたのがこのみ言葉です。 イエスは18〜19節で、べルゼブルの力によるものではないとの消極的な返答をし、また20節では「神の国はあなたがたのところに来ているのだ」と積極的な答えをされます。 すが、部屋とは人の心の状態を言います。部屋(心)がきれいに整えられた こと、そのものは素晴らしいことなのですが、その部屋にイエスを迎えること なしに、そのままに過ごしているなら、悪霊がまるで自分の部屋のようにして 戻ってきてしまうというのです。 そこでイエスは「幸いなのは神の言葉を聞き、それを守る人である」(28節)と言われるのです。心にイエスを迎えること(=内住のキリスト、ガラテヤ2:20)は、とても神秘的な不思議な出来事のように思えますし、特別な人でなければ、できないのかと思えてきますが、イエスが語り、み言葉が教えてくれるのは、「み言葉を守り、守ること」だと具体的に教えてくれています。 |
2015 | 12月13日 ▲戻る▼ |
目が澄んでいれば 「あなたの体のともし火は目である。目が澄んでいれば、あなたの全身が明 るいが、濁っていれば、体も暗い。だから、あなたの中にある光が消えていな いか調べなさい。」 イエスに天からのしるし(16節)を求めた者たちに対して、イエスが答えられたみ言葉です。 イスラエルの民にとって、異邦人に宣教したヨナや、一国の女王に知恵を語ったソロモンは誇りだったと思います。彼らの血が自分たちにも流れているとの自負に寄りかかるように生きていたのでしょう。 けれども彼らのその誇りが、イエスの目にはよこしまに映り、目が濁っているように見えるのです(29節、34節)。さらにイエスは、ヨナの語る説教や生き方にまさり、ソロモンの知恵にまさる者(イエス)が今、目の前にいるのに、それに気付かず、天からのしるしを求める彼らに、「あなたの中にある光が消えていないか調べなさい」と問うのです。 では、イエスの目にその目が澄み、内なる光が輝いて見えたのは誰なのかというと、滅びしか語らないヨナの説教に、真実な自分たちの姿を見出し、神の御前にひざまずき、悔い改めたニネベの人でありましょうし(ヨナ3:5〜10)、ソロモンの知恵を聞くために、地の果てから来た南の国の女王でありましょう。 |
2015 | 12月20日 ▲戻る▼ |
心を灯す イエスの光 「言の内に命があった。命は人間を照らす光であった。」 ヨハネ1:4 クリスマスにお生まれになったイエス・キリストは、まことの光(1:9)、世の光(8:12)として、私たちのもとに遣わされてきました。 けれどもイエスは、その罪を光で照らすだけ照らし、そのままにしておかれる方ではなく「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。」(3:17)のみ言葉が示すように、私たちを罪から救い上げ、ご自身のもとへと引き寄せてくださるのです。 また、このみ言葉が教えるのは、何によって救われるのかというと「御子によって」救われるというのです。さらには、御子の何によってなのかというと、御子イエス・キリストの十字架によってです。 イエス・キリストの十字架は、それを間近で目撃した人々にとっては、闇の力に敗北したかのように見え、その光が完全に消し去られてしまったように見えたのですが、イエスの十字架の光は暗闇の中で輝き始め(よみがえり)、私たちにまことの命を与えるものとなりました(5節)。贖いの十字架の御業を覚えつつ、救い主のご降誕を喜ぶ者でありましょう。 |
2015 | 12月27日 ▲戻る▼ |
イエスの救いへの招き 「神は、すべての人々が救われて真理を知るようになることを望んでおられ ます。神は唯一であり、神と人との間の仲介者も、人であるキリスト・イエスた だおひとりなのです。この方はすべての人の贖いとして御自身を献げられま した。」 Tテモテ2:4〜6 イエスがファリサイ人から食事の招待を受け、席に着いたところ、イエスが身を清められなかったのを見て不審に思った彼に、イエスは「実に、あなたたちファリサイ派の人々は、杯や皿の外側はきれいにするが、自分の内側は強欲と悪意に満ちている。」(39節)との言葉をもって、これまで彼らが形式的に行ってきたことの過ちを指摘されます。 イエスはさらに具体的に、@周囲の人の評価を気にするような十分の一のささげもの、A広場で挨拶(敬礼の意)されることを好んだり、B自らの過ちを気付かずに、他者を指導したりするファリサイ人を非難します。 彼らはイエスに敵意を抱いていました。イエスを陥れる口実を見つけ、何とかしてやろう考えていました(53、54節)。彼らの思惑は、イエスも感じ取っていたに違いありませんが、それでも、イエスはその招きに応え、彼らの家に入っていかれるのです。 私たちは、これからも、真実な導き手であるイエスを仰ぎ見つつ歩む者とさ せていただきたいと願います。 |
2016 | 1月3日 ▲戻る▼ |
新しくされるために 「高く、あがめられて、永遠にいまし、その名を聖と唱えられる方がこう言われる。わたしは、高く、聖なる所に住み、打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり、へりくだる霊の人に命を得させ、打ち砕かれた心の人に命を得させる。」 イザヤ57:15 ここでイエスは律法学者に対し、3つのことで「不幸」だと言われます(46、 47、52)。 1つに、彼ら律法学者は神の律法に解釈を加え、人々に負いきれない重荷を負わせました。そして、それを忠実に守りきれない人がいるなら地の民とし、新しくされる余地をなくすほどに責め立てます。それをイエスは 2つ目に、イエスが指摘するのは(47節以降)、旧約時代に立てられた神の預言者たちの語る言葉、それは悔い改めを迫り、神に立ち返ることを願う救いの言葉なのですが、罪が指摘されるのを嫌がり、その言葉に耳を傾けないことを「不幸」と指摘します。 また3つ目には神の与えられる救いの鍵となるイエスが、今、目の前におられるのに受け入れようとはせず(53、54節)、さらには、イエスが取税人や罪人たちと囲んでいる食卓にも、彼らと同じ席に着くために入ってくるのではなく、言い掛かりをつけ、イエスと罪人と呼ばれる人たちを引き離すために、割り込んでくることを「不幸」だと言うのです(例;5:17〜26、中風の人の癒し、5:27〜32、マタイを弟子にする)。 イエスはこのように律法学者の「不幸」を指摘されますが、それは彼らと同じように、断罪するだけして見捨てるためではなく、真実な神への信仰に立ち返り、救い主イエスのもとに額づくためなのです(イザヤ57:15)。 新しい年を迎えた私たちも、真実に新しい者とされ、救われた喜びを確かなものとするために、これからもイエスの語られる言葉に耳を傾けていく者でありたいと願います。 |
2016 | 1月10日 ▲戻る▼ |
「友よ」と語りかけるイエス
「だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表す者は、人の子も神の天使たちの前で、その人を自分の仲間であると言い表す。」 イエスはファリサイ派の人々の偽善に注意するように言います。彼らは表面的には神への信仰に忠実に生きていますが、実際にはイエスが指摘するように「強欲と悪意に満ちて」いました(11:39)。それはまるで役者が役を演じるように(=偽善の意)、本来の自分とはかけ離れているのです。また人の評価を恐れ、偽善に陥ってしまった彼らに、真実に恐れるべき方を教えられます(5節)。 また友であるイエスは、4羽を買うと一羽をおまけでもらえるような雀をも(マタイ10:29参照)覚えているのだから、たくさんの雀よりもはるかにまさる私たちを忘れるはずがないとも言われ(6、7節)、さらに上記のみ言葉のごとく(8節)、いかなる時にも「この人は私の友だ」と証言してくださるのです。そして、助け主である聖霊をも遣わしてくださるのです。 私たちがイエスを「友」と呼ぶことは、なんと恐れ多いことかと思いますが、イエス自らが親しみを込めて「友よ」と語りかけてくださいます。このことだけでも感謝なことと思いますが、イエスが真実な友であり、私たち一人ひとりを失いたくない一人として見ていてくださるからこそ、前述のような注意をされるのでしょうし、「誰を恐れるべきか」を教えてくれるのでしょう。 |
2016 | 1月24日 ▲戻る▼ |
神に富む者 「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ。」 ルカ12:21 イエスは上記のみ言葉をもって、「神の前に豊かな者となるように」と教え られます。これを理解してもらうために、イエスは一つのたとえを話されました (愚かな金持ちのたとえ)。イエスはこの金持ちを「愚かな者よ」と言うほどに 、問題があることを指摘されます。 1つには「私の物」という心です。確かに彼は、今の蔵には収めきれないほどの物を得るために懸命に働いたのでしょう。けれども、太陽や水といった自然からの恩恵がなければ、それらの物は得られないのに、それを忘れて「私の」という心が先行するのです。 イエスからこうしたたとえを聞いた遺産相続のことで相談に来ていた人は、イエスの話を聞くには聞いていたのでしょう。けれども、このみ言葉の前後を思うと、彼は本当にイエスの話を聞いていたのかと考えさせられます。それは前には一羽の雀をも覚えている神を話され(6節)、後には空の鳥、野の花を見よ(24節、28節)と前と同じような話しをされているからです。相談に来たこの人は遺産(富)のところに心があったのです(34節)。 富を大切にしなければならないのは、それは神から賜わったものだからです。すべてを与えたもう神に、さらには、罪より贖うイエスの十字架の御業を富とし、イエスの前に豊かな者とならせていただきたいと願います。 |
2016 | 1月31日 ▲戻る▼ |
小さな群れよ、恐れるな 「小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。」 ルカ12:32 こうした言葉をいただきながらも、思い悩み、恐れてしまうのが私たちです。 それはイエスが「信仰の薄い者たちよ」(28節)と指摘されているように、決して神を信じていない訳ではないのですが、時に、神のできる範囲を自分で決めてしまって、「この恐れは自分のもの」、「この思い悩み、思い煩いは自分でしか解決できないもの」と決め付けてしまうことがあります。 けれども聖書はそうは言わないのです。「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなたがたのことを心にかけていてくださるからです。」(Tペテロ5:7)と教えてくれるように、恐れ、思い悩みの一切を神の御手に委ねなさいと言われるのです。私たちが信じている神は、全知全能の神であり、「髪の毛までも一本残らず数えられている」(12:7)ほどに、私たちのことを知っておられる神なのですから、私たちが自分ひとりで抱え込んでしまいがちになる恐れすらも、神のものであるはずです。 そこで覚えたいのは「小さい群れ」(31節)としての自覚です。こうした自覚が生まれてくると、恐れや思い悩みを神に委ねるために、より一層神に近づけるのだと思います。「神さま、こうした恐れ、思い悩みがあるのですが、どうしたら良いのですか。最善なのですか。」という思いをもって、これまで以上に神に寄り頼む者とさせていただけると思うのです。 イエスが「恐れるな」と言われる時、それは本当に恐れる必要はないのです。思い悩まなくて良いのです。「恐れるな」このイエスの言葉を信じ、私たちがイエスに、何でも申し述べることができる者としての「小ささ」を誇るものでありたいと思います。 |
2016 | 2月7日 ▲戻る▼ |
主の再臨に備えて 「あなたがたも用意していなさい。人の子は思いがけない時に来るからで ある。」 ルカ12:40 イエスが再び来られる再臨についてのみ言葉です。聖書には救い主がお生まれになるクリスマス(初臨)の約束も多数ありますが、その約束よりもはるかに多く記されているのが再臨の約束です。み言葉を通して、クリスマスの喜びを信じる私たちにとって、イエスの再臨は、尚はっきりとした確かさをもった出来事なのだと受け取らねばなりません。 そこでイエスは、イエスの再臨に備えてどうあってほしいのかを話されます。いつでも動けるように身支度を整え、腰に帯を締め、また、部屋を明るく火を灯しておくように、目を覚ましておくようにとも言われるのです(35、37節)。 そして、主の再臨がどのような時なのかもイエスは言われます(37節)。「主人は帯を締めて、この僕たちを食事の席に着かせ、そばに来て給仕してくれる。」のです。本来、僕(=奴隷の意)の立場の者が席に着くことすら許されていない時代にあって、腰の帯を緩めてくつろぐことができる食卓へと招き、給仕をもしてくれるのです。 イエスの言葉を守りつつ、主の再臨を待ち望んでいる時、こうした喜びが約束されていることを思うと、その時がより一層待ち遠しくなってきます。イエスが再び来られる再臨に備えて、み言葉の教えるままに歩ませていただく者とさせていただきましょう。 |
年 | 月 日 | 聖書のお話し |
2016 |
2月14日 ▲戻る▼ |
忠実で賢くあれ 食事とはそもそも、元気が与えられるものです。力が与えられ、体が成長するために必要なものが食事です。けれども、私たちの命が健やかであるためには、体だけではなく、内面的な心の健康も大切だということは、私たちは良く承知しています。 こうした務めを誰のためにするのかというと、自分以外の誰かのためにするように言われるのです。こうしたことを特に心の健康のことで考えますなら、例えば相談に乗ったり、励ましたりということを考えますが、これらのことと同じ程度に大切なことは、どなたかのために祈る、執り成しの祈りも、私たちが忘れてはならない大切な務めといえます。 また「賢くあれ」とも言われます。私たちはそのためにさまざまに努力をします。先人たちの言葉を聞き、自らの経験や失敗を通しても賢さは身についてくるでしょう。けれども真実な賢さの出どころは、神によるしかありません。 |
2016 | 2月21日 ▲戻る▼ |
火を投ずるために たとえば、イスラエルの民を出エジプトさせるのにあたり、リーダーとして召し出されたモーセは燃える柴の中から聞こえてくる神の声を通して、神の救いを経験しました(出エ3章〜)。また弟子たちに聖霊が降り、キリストを伝える使徒として歩む信仰が確立したペンテコステの出来事も(使徒2章)、神の顕現である火と関わりの深いものといえます。 また前述の裁きとしての火も、イエスのペテロへの関わりを思うと、彼を全く打ちのめす火(言葉)ではなく、そこから立ち上がらせるものでもあるのかと思います。最後の晩餐の席で「死んでもよいと覚悟しております」と言うペテロに対し、「三度私を知らないと言うだろう」と言うイエスの言葉、またそのイエスの言葉のままの歩みをしてしまったことは、ペテロに裁きの火が投じられた時といえますが、イエスのペテロへの関わりはそれで終わりませんでした。 |
2016 | 2月28日 ▲戻る▼ |
今の時を見分ける信仰
「空や地の模様を見分けることは知っているのに、どうして今の時を見分けることを知らないのか。」 ルカ12:56 彼ら群衆は心から救い主の来臨を待ち望んでいた人々なのですが、いざ真実な救い主イエス・キリストを目の前にすると、そこに救いがあることに気付けずにいるのです。 そうした彼らの不安を根本的なところから解決しようとされて、イエスは57節以降のみ言葉を語られるのです。ここで「仲直りするように努めなさい」と言われますが、それは救いがイエスにあることを見分けてほしい、神との仲直り(和解)を得てほしいとのイエスの心からの願いでもあります。 イエスがこの世に来られたことは「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」(Uコリント6:2)です。イエスのもとにこそ、恵みがあり、救いがあるのです。私たちはこのことをしっかりと「見分けて」、イエスに目を向け、群衆と同じ道を歩まないようにしなくてはなりません。 |
2016 | 3月6日 ▲戻る▼ |
あなたがたも悔い改めなければ イエスの周りにいる人々は、この知らせを聞いてどう考えたのかというと、自業自得、因果応報だと考えたでしょう。災難ともいえる事件や事故が起こってくると、何が原因なのだろうか、何か悪いことをしたからなのかに心が向いてしまう人々であり、私たちであるのかも知れませんが、そこでイエスが語られるのが、「心を神に向けよ」という悔い改めのメッセージなのです。 悔い改めとは自分の罪を認め、改めることですが、さらには心を神に向け、神に立ち返ることも忘れてはならない悔い改めです。 そして、その悔い改めの恵みを、イエスは実のならないいちじくの木のたとえで語られます。ここに出てくる主人は神、園丁はイエス、木は私たちであると考えられます。「実がならないなら切り倒してしまえ」と言う主人の言葉に従うべき立場の園丁であるはずなのに、園丁は「このままにしておいてください。肥やしをやってみます」と切り倒すのを待つようにと嘆願します。 |
2016 | 3月13日 ▲戻る▼ |
「この女はアブラハムの娘なのに、十八年もの間サタンに縛られていたのだ。安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったのか。」 会堂長や群衆だけではなく、病に苦しんでいた女性もこの戒めを生活の土台として、これまで暮らしていたはずです。それならば、この女性も何もしてはならない安息日に癒してもらうのではなく、日が暮れて翌日になるまでのあと数時間を待ってから癒してくださいと申し出ても良いようにも思えます。 けれども、イエスは「あえて」とも言えるほどに、安息日に彼女を癒され、上記のみ言葉を言われるのです。「安息日であっても」という言葉は「安息日においてこそ」とも訳す事のできる言葉です。 そこでイエスは神の国のたとえをされるのです。ここでイエスがされた御業は名もない会堂での小さな出来事かも知れません。 |
2016 | 3月20日 ▲戻る▼ |
成長させてくださる神 イエスは2つのたとえをもって神の国の恵みを教えられます。からし種のたとえでは、からし種は本当に小さな種ですが、種には確かな命が宿っているので、必ず成長させる力があること、またパン種のたとえでは、その成長が質の違うものに変える力があることを教えられます。 「神の国は『ここにある』『あそこにある』と言えるものでなく、あなたがたの間にあるのだ。」(ルカ17:21)のみ言葉が言うように、イエスの十字架の贖いを信じ、クリスチャンとされた者の内には、神の国の福音が届けられているのです。 私たちのもとに届けられた福音という種は、必ず成長するものだということを信じたいと思います。また、その成長はパン種のように質が変えられていく成長であり、価値観が変えられていく成長です。 福音によって価値観が変えられていくと、起こってくる課題や喜びの出来事に対しての受け取り方や向き合い方も、きっと変えられていくに違いありません。世の中では年齢を重ねれば角が取れて円くなると言われることがありますが、福音にはそれ以上の力があることを、私たちは再認識し、その恵みに生きる者とさせていただきましょう。 さらには、私たち自身がからし種であり、パン種だと考えますなら、私たちが受け取っている種の命、また力強さに根差して、福音を知らない周りの方にも、少しずつなのかも知れませんが、必ず芽を出し、全体が膨らんで、福音を知る喜びに生きる者へとされていくに違いありません。 |
2016 | 3月27日 ▲戻る▼ |
イースターの喜び イエスは十字架の上で7つの言葉を言われましたが、その1つに「成し遂げられた」(他の訳では「すべてが終った」、「完了した」)という言葉があります。イエスのこの言葉は、上記のみ言葉が教えるように、私たちの咎を赦し、私たちの罪を二度と思い出さないという、救いの御業が完了したことを教えてくれます。 本来、十字架刑はどんな刑罰よりも忌まわしい刑罰であり、人々には絶望と敗北、恐怖と屈辱しか与えないものでしたが、イエスが十字架に架かられることで、十字架の意味はまったく変えられました。人を罪より救い出し、希望と勝利を与える十字架となったのです。イエスの十字架によって、救いに至る道が完全に開かれたのです。 時に、私たちはクリスチャンとされた後でも、罪に陥ってしまうのですが、そこでいつも立ち返らなければいけないのは、「成し遂げられた」と言われたイエスの言葉です。私たちが救われるために必要なことの一切は、イエスが成し遂げられたことを深く覚える時、イエスのよみがえりを記念するイースターの喜びは、なおはっきりとした鮮やかな喜びとなっていくのではないでしょうか。 |
2016 | 4月3日 ▲戻る▼ |
狭い戸口から イエスはエルサレムへ進んでいかれます。イエスが何をしにエルサレムへ向かっているのかというと、十字架に架かられるためです。そうしたイエスの十字架への旅の途中、「狭い戸口から入るように努めなさい。」と語られます。 イエスの言われた「狭さ」とはどういう狭さなのでしょうか。例えば26節の「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです。」という程度でイエスを知っている「狭さ」や、「救われる者は少ないのでしょうか」と尋ねたイスラエルの民で言うなら「自分たちは『どこの者か知らない』(25、27節)なんてことを、神から言われるはずがない」という神の民としての慢心という「狭さ」、また、私たちで言うなら「教会に行くようになってもうしばらくの年数が経っている」というだけで、神の前に敬虔でへりくだることのできない態度(狭さ)が、本来なら誰もに開かれている戸口を「狭く」させているといえます。 「戸口から入る」とはイエスを信じることです。また、ここでイエスのエルサレム行きが、改めて告げられていることを思うと、イエスの十字架を信じること、イエスの十字架だけに私たちの罪を赦す力があることを信じることが「戸口から入る」ことと言えます。 クリスチャンとされて、しばらくの時が経つと、この恵みを忘れてしまうことはないのですが、おぼろげになってしまう事があります。そうした私たちに向けて、イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」と語られるのです。 |
2016 | 4月17日 ▲戻る▼ |
イエスの御翼の下で 洗礼者ヨハネを捕え、その首をはね、イエスにも同様のことを目論んでいるヘロデのことが、イエスに伝えられますが、イエスはそれを無視するようにして、ここでもご自身のエルサレム行きを明言されます。ヘロデがこうしたことをするのは、自らの「静けさ」を守るためでした。ヘロデが統治する土地で、自分の意に反することが行われでもするなら、彼の求める静けさが乱されます。そのために、イエスを殺そうとまで考えるのです。 また、これまで遣わされきた歴代の預言者たちが告げる言葉に耳を傾けなかったイスラエルの民を、イエスは嘆きますが(34節)、それでも歴史が証明することは、神は預言者を遣わし続け、そして、今、救いの成就者としてイエスを、この世にお遣わしになるのです。 救い主イエスは、「(自分が成し遂げようとする救いが完成されるためには)エルサレムへ進んで行かなければならない」と言われ、めん鳥が雛を翼の下に集めるように、誰もがイエスの救いという翼の下に来ることを願っているのです。 |
2016 | 4月24日 ▲戻る▼ |
真の謙遜 イエスは「婚宴の席では末席に着くように」とのたとえで、真実に謙遜な者のあり方を教えられます。また、「招待を受けたら、むしろ末席に行って座りなさい。そうすると、あなたを招いた人が来て、『さあ、もっと上席に進んでください』と言うだろう。」(10節)と教えられます。 けれども、そのへりくだっている心にあるのは、「へりくだる者は高められる」というみ言葉を知っているがために、いずれ上席に着けるように声をかけてもらえるとか、いずれ高められる時が来ることを期待してしまう心ではないでしょうか。こうした心を持つことを否定するのではありませんが、時に、高められる時が来ることを見越して、へりくだるような心が生まれてくることがないとも限りません。 そこで6節までのみ言葉で、真実に謙遜な者の生き方をイエスご自身がされるのです。今、目の前で病に苦しんでいる者の苦しみを知り、へりくだった者となって手を取り癒されるのです。 こうしたイエスのへりくだられた姿は、癒しという出来事に表わされているだけでなく、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。」(ピリピ2:6〜8)が教えるように、イエスはその出生から死に至るまで謙遜の限りを生き抜かれました。 こうしたイエスを信じつつ、イエスと共に歩ませていただく時、私たちも真実にへりくだる者へと整えられていくことです。 |
2016 | 5月1日 ▲戻る▼ |
神の国で食事をする喜び 神の国で得られる祝福を知ってもらうために、イエスは盛大な宴会のたとえ話をされました。宴会が始まる時刻になったので、招待した人たちのもとに僕を送って準備ができたことを伝えるのですが、皆が一様に断ります。 彼らの断る理由を考えてみるなら、どの理由もつじつまの合わない理由といえます。私たちが、このような恵みの宴会に招かれますなら、何を差し置いてもその宴会を第一に考えるかと思います。けれどもみ言葉が教えるのは、誰もが断っているのです。思いますのに、これが人の本来の姿なのではないでしょうか。 彼らが断る理由の語尾を見ると、「見に行かねばなりません。」、「調べに行くところです。」、「行くことができません。」と言っていますが、こうした「〜ねばならない」、「〜するところ」、「〜できない」という言葉は、神を第一にすることを弁えている私たちの心にも、時折り生まれてくる言葉といえます。 また、21節以降では、当時の社会からのけ者とされてきたような人たちが、宴会に招かれています。そして、その招き方は無理にでも連れて来られるような招き方です(23節)。宴会の主催者(神)にとっての何よりもの喜びは、誰もが宴会に招かれて、その席がいっぱいになることだからです。 主イエスの救いに与かっていない方にとっては、今も、イエスは戸口に立って、心の扉を開き、宴会に出席できないかと、一人一人を招いておられますし、救われている者にとっては、何かしらの理由をつけて宴席に着くのを断るのではなく、はっきりとした自覚を持って、主の宴席に着き続ける者とさせていただきたいと願っています。 |
2016 | 5月8日 ▲戻る▼ |
息子の帰りを待つ父 自分らしく、自由に生きられると思って父の元を離れていった弟息子は、異国の地で過ごすようになります。こうした彼のしたことは父との絆を断ち切ることですから、父を見殺しにしたのと同じといえます。 そうした時にはじめて、彼は我に返るのです(17節)。我に返るとは、他に自分を取り戻すという意味もあるのですが、彼は、自分を取り戻すために、父の元を離れ、外に出ていったはずなのですが、実際には自己喪失の旅でしかなかったのです。 我に返った弟息子が言ったのは、「天にも、父にも罪を犯した」(18節)という言葉です。本来の自分に生きることと、自分の好き放題に生きるのとは違うことに気付き、父親の元を離れないで、父や兄という隣り人を愛しつつ生きていくことの大切さにも気付かされました。 また、もう一人の放蕩息子ともいえる兄について考えてみると、彼は弟が帰ってきたこと、また、父親が弟を歓待していることに腹を立てます。彼の怒る理由を分からない訳ではありませんが、彼にも弟と同じ心(見殺しにする心)があることに気付きます。それは自分の弟でありながら「あなたの息子」(30節)と言っている言葉に表れています。 そうした兄息子に父親は、私の息子とは言わず「お前のあの弟」(32節)と言って、弟を受け入れるようにと願うのです。弟が気付いた隣り人を愛する生き方を兄息子にもしてもらいたいことを伝えるのです。 |
2016 | 5月15日 ▲戻る▼ |
イエスを主とする生き方 こうした厳しい言葉で、イエスは何を求めているのかというと、イエスを主とする生き方です。私たちは確かに、イエスを主と崇め、イエスを愛し、イエスに絶対の信頼を寄せて生きているのですが、時に、イエスを主とせず、二番目に置いてしまう事があります。 では、何が第一に置かれるのかというと、自分(自我)です。自分が第一に置かれると、宝ともいえる家族や持っているものが、災いの種になってくることは容易に想像できます。 また、そうしたことに陥らないために、イエスは自分の十字架を背負うように言われます。いろいろに考えられる自分の十字架ですが、何よりも自分に死ぬことといえます。自分に死ぬとは、他者のために生きる姿です。 隣り人を愛する生き方は、料理に用いられる塩の役目に似ています。塩は料理を引き立てるために用いられる調味料の一つです。けれども、それほどたくさん使われることはなく、塩が自己主張するような使い方をするなら、その料理は台無しになってしまうでしょう。 私たちがこれからもイエスを愛し、イエスを主として歩んで行こうとする時、こうした生き方が求められています。これがイエスの弟子になることではないでしょうか。 |
2016 | 5月22日 ▲戻る▼ |
「わたしたちは皆、顔の覆いを除かれて、鏡のように主の栄光を映し出しながら、栄光から栄光へと、主と同じ姿に造りかえられていきます。」 Uコリント3:18 見失った羊のたとえと、なくした銀貨のたとえですが、私たちがこの物語を聞く時、この話の直接の聞き手だった徴税人や罪人、ファイリサイ派の人や律法学者の立場で聞くことがあります。 徴税人の立場で聞くなら、自分はまさに見つけられた羊や銀貨のような存在だと聞くでしょうし、律法学者の立場で聞くなら、本来なら誰もが神のもとに立ち返るべき存在なのに、悔い改めの必要のない者として(7節)聞くのかも知れません。 共に喜ぶことは、徴税人にとっては難しいことではないと思いますが、不平を言っている律法学者たちにとっては困難な事だったと思います。けれども、そうした態度をとる彼らにも、イエスがこのたとえを話されたのは、彼らにも共に喜びの食卓に加わってほしいとの願いがあるからではないでしょうか。 そもそも羊飼いや女性は、なぜ見失った羊や銀貨を探したのでしょうか。見失った羊や銀貨は特別に価値のあるものではなかったでしょう。それでも彼らが探すのは、彼らにとってなくてはならない大切な1匹の羊であり、1枚の銀貨であったからだといえます。 そして、彼らのこの思いは、イエス自身も持っている思いです。イエスにとって、私たちが見失った者となるのは、どうでも良いことではありませんでした。私たちを見つけ出す(救う)ために、イエスは十字架に向かわれるのです。私たちが、このイエスの愛を知り、救われた喜びで満たされる時、「一緒に喜んでください」のみ言葉のままに生きている私たちがいるのです。 |
2016 | 5月29日 ▲戻る▼ |
父の愛、神の愛 放蕩息子という題で知られるたとえ話ですが、内容は「福音の中の福音」とも言われるほどに、神が私たちをどれほど愛しているのかを教えてくれる物語です。 家に帰ってきた息子をいち早く見つけた父親は、彼に一番良い服を着せ、指輪をはめ(権威を示す)、履物を履かせました(雇い人ではないことを示す)。そして、肥えた子牛を屠って食べて祝おうとまで言うのです。 こうした父親のやり方に兄は怒るのですが、私たちは兄の怒る気持ちは少なからず理解できます。また「もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」(19節)と言った弟の言葉の方が、怒りもせずに歓待する父親のやり方よりも、自分のわがままで放蕩三昧をするならどうなるのかを知るのに、筋が通っているように思います。 けれども、このたとえ話が神の愛を教える「福音の中の福音」の物語として受け取り直すなら、父の非常識ともいえる愛し方の方が理解しやすいのではないでしょうか。 御子イエス・キリストをこの世に遣わす神の愛は、私たちの常識をいともたやすくひっくり返す神の常識なのです。また、私たちの常識に沿って神の愛がなされますなら、誰も救われないことにも気付かされます。父親は同じ愛をもって兄のもとへも近づかれます。神の愛から誰も漏れていないことも教えてくれます。 |
2016 | 6月5日 ▲戻る▼ |
本当に価値あるもの 管理人がしている不正は決してほめられたものではありませんが、彼がしていることに曖昧さはありません。一貫性があります。また、彼は今の仕事を辞めさせられても、自分を迎えてくれる人を作ることを考え、人を利用しました。人を利用するというと聞こえが悪いのですが、人を当てにするといったら良いでしょうか。管理人は自分一人だけでなく、また、主人にだけではなく、他にも頼るところがあることを知るのです。 私たちは信仰を守っていくという時、この二つのことを忘れがちになります。一貫性ということでいうと、いつも心の中心に信仰(神)を置いておくべきなのに、心の隅の方に追いやってしまうことがあるかも知れませんし、また、頼るべき信仰の先輩方や神がおられるのに、自分だけで抱え込むようなことがあるのではないでしょうか。 またイエスは、富への忠実な態度も求められますが、これは小さなことだと言われます。というのも、あらゆる富は神からの賜物と信じているからです。けれども、神からの賜物である富を、不正なものとして変えてしまいやすいのも私たちの現実の姿です。 だからこそ、イエスはこの管理人の一途なほどまでの一貫した態度を神に対して持つことを、また、神からの賜物である富を正しく用いて、信仰の友を得ることを願っておられるのです。そうした信仰生活をしていく中で気付かされるのは、光の子として生きる絶大なる価値です。私たちは、本当に価値あるものを見極めつつ歩む者とさせていただきたいと思います。 |
2016 | 6月12日 ▲戻る▼ |
心を知っておられる方 パリサイ人たちをはじめとする、当時の人たちは、誰もが力ずくで、何としてでも神の国に入りたいと、また、そうすれば入れるものだと考えていた時代です。そうした考えをもっている彼らに対し、イエスは「否、それでは神の国に入ることはできない」と言われるのです。神の国を待ち望むことは悪いことではないのですが、その待ち方、その心がふさわしくないと、彼らの心を知るイエスが言われるのです。 彼らは自分の身勝手さを守るために、律法を曲解し、利用しました。「それ以来、神の国の福音が告げ知らされ、だれもが力ずくでそこに入ろうとしている。」(16節)このみ言葉は、パリサイ人たちの自分の力で神の国に入れるものだとする心を、指摘する言葉ですが、「誰もが皆、神の国に激しく招かれている」とも言い換えることができる言葉です。 こうした意味で受け取り直すなら、主体はこちら側にはありません。招く方がおられるからです。招く方、主イエスです。イエスが私たちを神の国に入れさせようと、激しく招き、力を注いでくださっている。 激しく招くという言い方はあまりない表現ですが、そう言わねばならないほどに、イエスの招きは強烈なものでした。それはイエスの贖いの十字架に表わされています。イエスの十字架を通しての神の国への招きから、外れている人は誰もいません。今ここで、イエスをあざ笑うパリサイ人も、また、あの奇妙な裁判でイエスを十字架の死に追いやろうとする人たちをも、イエスは神の恵みの中へと激しく招くのです。 それ故、イエスは彼らの罪を指摘します。真実に神に立ち返る(悔い改め)ために、罪を指摘しなければならなかったのです。そうした悔いた心をもって神の前に進み出る時、その心を知ったイエスは喜んで、神の国へと招き入れてくださいます。 |
2016 | 6月19日 ▲戻る▼ |
心の貧しい者の幸い これまでイエスは、ガリラヤ全土を巡り歩き、福音を宣ベ伝え、ありとあらゆる病気や患いを癒されました。そして、大勢の群衆がイエスに従ってきました(4:23〜25)。 それを見たイエスは山に登り、彼らに話を始められます。5章から始まる「山上の垂訓」は、7章まで続きますが、私たちがこれらのみ言葉を聞く時、一番の土台としたいみ言葉は、上記の「心の貧しい人々は、幸いである、天国はその人たちの者である」のみ言葉です。 イエスがここで言っている「貧しさ」とは「心の」と言っているところから、お金があれば豊かで、なければ貧しいというような「貧しさ」ではなく、また、意地悪な心の持ち主であるとか、誰かが喜んでいるのに一緒に喜べないでいるといった「心の貧しさ」でもありません。 かつての信仰者モーセやギデオン、イザヤなどは、まさにこのみ言葉のままに、真実に主の御前にへりくだって、「心の貧しさ」の中に生きました。 私たちも7章までにある数々の戒めの中に立たされる時、そのすべてを完全に守るのは困難でしょう。 |
2016 | 6月26日 ▲戻る▼ |
神の助けを覚えつつ 「ラザロ」という名前には「神は助ける」という意味があります。ですから、ラザロは神さまの助けを感じながら生きていたのです。実際には、金持ちの食卓から落ちてくるもので空腹を満たしたいと思い、犬が体のできものをなめるほどの状況に置かれていたのですが、ラザロは、常に神の助け、恵みが注がれていることを実感して生活していたのです。 死後のことを教えてくれるみ言葉ですので、死後のことに心奪われるのかも知れませんが、そこに目を向けるようにとはイエスは教えられません。私たちが、日ごとの歩みをする中で、どこに目を向けているのかが問われるのです。「神の助け」を覚えつつ、歩む者とさせていただきましょう。 |
2016 | 7月3日 ▲戻る▼ |
信仰を増してください 「一日に七回あなたに対して罪を犯しても、七回、『悔い改めます』と言ってあなたのところに来るなら、赦してやりなさい。」(4節)との言葉をイエスから聞いた弟子たちは、今の自分の信仰ではとても全うし得ないと思い、「わたしどもの信仰を増してください」(5節)とイエスに願いました。 それに対し、イエスは「からし種一粒ほどの信仰があれば」(6節)というのです。からし種は本当に小さく、砂と混ざるなら見分けのつかないほどですが、砂とは訳が違います。砂を土の中に埋めても何の変化もありませんが、からし種を土に蒔くなら必ず芽を出し成長します。からし種には命が宿っているからです。 けれども、イエスは信仰は人と比べるものではなく、神との間で築き上げられていくものだと言います。たとえるなら私たちの内にある鏡にイエスが映っているかです。心にある鏡にイエスを映しつつ、歩む私たちとさせていただきましょう。 |
2016 | 7月10日 ▲戻る▼ |
神を賛美する信仰 イエスのもとに戻ってきた一人に注目すると、癒されたことを知った彼は、大声で神を賛美しながら戻ってきました。 癒されたこの人は、この出来事の中で他にも声を上げています。他の九人と共に「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」という声です(13節)。この二つの声は、同じ声ではありますが目的の違う声です。一つは神に感謝する声、もう一つは神に助けを求める声です。 この二つの声を自らのこととして受け止め、思い返してみるなら、どちらの声が大きいでしょうか。考えてみると、神に助けを求める声の方が大きいことが多いのではないでしょうか。もちろん、私たちは神に感謝をいたします。「主の御名はほむべきかな」と賛美をささげる私たちなのですが、このサマリヤ人のような大声で神を賛美することは少ないように思います。 さて、イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言って、サマリヤ人の信仰を喜んでいるのですが、ここでの信仰とは神を賛美する信仰です。聖書全体から信仰を言い表そうとするなら、さまざまな言い方ができますが、このみ言葉での信仰は神をほめたたえる信仰です。イエスによって救われた者だからこそ、その御業を覚え、大きな声で神を賛美する者とさせていただきましょう。 |
2016 |
7月17日 ▲戻る▼ |
神の国は、ただ中に このことを私たちが思うなら、そうしたイエスの敵ともいえる人の間に、神の国が実現するはずないと考えます。もっとイエスに忠実な人の内に、神の国はあると考えます。 けれどもイエスは、「あなたがたの間に」と言われるのです。この「間に」というのは、その人の心の内にとも訳せるのですが、時に私たちは、「心の内に神の国はある」と考える方が、気持ちが楽になります。目の前の現実に神の国があるとは思えない時があるからです。 けれども、イエスは「あなたがたの間に」と言われるのです。それは「あなたがたの間に」(パリサイ派の人たちにとっても、私たちにとっても)神の国そのものであるイエスがおられるからです。 |
2016 | 7月24日 ▲戻る▼ |
主が再び来られる時のために というのも、イエスが教え、また聖書が語る終末は必ず神の国とくっついて教えておられるからです。そして、再臨はあるかも知れない、ないかも知れないという曖昧なものではなく、イエスのご降誕(初臨)の約束以上の確かさをもって、必ずあるのだということを弁え知っておくべきです。 私たちは確実にある主の再臨に備えて関心を持っておくべきです。26節以降には、関心を持たなかったがために滅ぼされてしまった2つの物語が記されています。1つはノアの時代に生きた人たちです。神の命令に従って箱舟を造るノアですが、他の人は食べたり飲んだりし、明日もきっと今日と変わらない1日があるのだと関心を持たず、結果、滅ぼされてしまうのです。また、ロトが移り住んだソドムの町も、同様に関心を示さなかったために滅ぼされてしまいました。 このみ言葉を通して、私たちに関心を持つようにとイエスが語るのは再臨についてです。では、どんな関心をもって主の再臨に備えるのでしょうか。一つには、危機感を持つことです。それはかつてイエスが「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」と言われたことです(12:35〜48)。もう一つには、待ち望むことです。確かにある主の再臨を心からの喜びの時であることを信じて待ち望むのです。 |
2016 | 7月31日 ▲戻る▼ |
絶えず、祈ろう 「まして神は、昼も夜も叫び求めている選ばれた人たちのために裁きを行わずに、彼らをいつまでもほうっておかれることがあろうか。」 ルカ18:7 不正な裁判官に訴える一人のやもめのたとえです。この裁判官は自他共に認める不正な裁判官でした。彼の不正は良く知られているところで、彼女もまた、彼の噂は良く耳にしていたことでしょう。 やもめには、この裁判官のところに行くしか、自分の助かる道はありませんでした。だから彼女は固い決意をもって、彼を悩ませるほどに、また殴り掛かろうとするほどの覚悟で訴えるのです。また、彼女の心には、自分は「選ばれた人」(7節)という自覚もあったでしょう。 このたとえを通してイエスは気を落とさず、絶えず祈ることを教えようとされました。私たちは神と出会える最良の時である祈りの中でも、神のなさることに気を落としてしまうことがあります。絶えず祈る必要を知っていながらも祈れなくなることも知っています。けれども私たちが信じている神は、この不正な裁判官のようではなく、必ず最善に導かれる方であることも、それ以上に良く知っています。 神は気落ちせず、私たちの祈りを絶えず聞こうとされ、耳を傾けておられるのです。私たちが常に神に目を向け、叫び、また祈るのを待っておられるのです。神に出会える特別な時として、私たちの日ごとにささげる祈りを大切にしてまいりましょう。 |
2016 | 8月7日 ▲戻る▼ |
イエスの御名によって祈ろう 神の前に出る時(祈る時)の2人の様子(ファリサイ派の人と徴税人)が、たとえで描かれています。ここに出てくる二人の内、自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下し、高ぶっている者はファリサイ派の人であり、へりくだり、義とされた者は徴税人であることが分かります。そして、どちらの態度をイエスが喜ばれたのかというと徴税人です。 ファリサイ派の人が祈っている、週に二度の断食や全収入の十分の一を献げるといったことは、いい加減に考えてはいけませんが、何故するのかというと、神が自分たちを忘れずに顧みられて、祝福を与えられたことを覚えるためにするのであって、彼がそうしたように、人と比べたり、誇ったりするためにするのではありません。 それに引き替え、徴税人の「遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら」という姿勢は、当時の祈りの姿勢とはかなり違うものですが、真実にへりくだった姿勢で主の前に進み出ているといえますし、「神様、罪人のわたしを憐れんでください。」という言葉も、自分の罪深さをよく知った上での祈りといえます。 私たちも日々、神の前に出て祈るのですが、イエスが喜ばれた徴税人のような祈りをささげることもあり、ファリサイ派の人のような祈りをささげることもあります。 |
2016 | 8月14日 ▲戻る▼ |
幼な子のように 「子供のように神の国を受け入れる人でなければ、決してそこに入ることはで きない。」 ルカ18:17 イエスに祝福してもらうために、乳飲み子たちが連れて来られました。それを見た弟子たちは、彼らをたしなめます。イエスのもとにはイエスの言葉を聞くために、たくさんの人が押し寄せており、「ここは、乳飲み子が来るべき所ではない」と、弟子たちは考えていたからです。 そこで、イエスは「子供のように神の国を受け入れる」ようにと言います。「子供のように」とは、ここでは特に「乳飲み子のように」ということでしょう。 大人である私たちも「子供のように」、ただ神だけを頼りとして生きることを願って、イエスは、このように言っておられるのです。私たちを肉的にも、霊的にも養い育ててくださる、唯一、真の神に絶大なる信頼を寄せて、「子供のように」なって、これからも歩む私たちとさせていただきましょう。 |
2016 | 8月21日 ▲戻る▼ |
神にはできる 「これを聞いた人々が、『それでは、だれが救われるのだろうか』と言うと、イエ スは、『人間にはできないことも、神にはできる』と言われた。」 ルカ18:26、27 「何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか。」と尋ねるある議員の問いに、「持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。」と答えられるイエスです。 「持っている物をすべて売り払い・・・」こうした答えを聞いた議員は悲しみます。大変な金持ちだったからです。この議員ほどではないとしても、それなりの持ち物を持っている私たちにとっても、このイエスの言葉は大変厳しい言葉です。また、私たちに与えられている富はお金に限らず、29節で言うように「家、妻、兄弟、両親、子供」といったものも大きな富ですが、それらをも捨てるようにとイエスは言うのです。 こうしたみ言葉をいただき、このみ言葉が教えるままに生きようとする私たちですが、その歩みを振り返ってみるなら、なかなかみ言葉のように歩めていないのが実際のところです。言うなれば、この「すべてを捨てて」というイエスの言葉に、生涯を通して向き合っていく必要があるみ言葉です。 そうした私たちの心を知ってか知らずか、その思いを代弁するように、当時の人々は「それでは、だれが救われるだろうか」と言ってくれています。その言葉に対し、「人間にはできないことも、神にはできる」とイエスは答えられるのです。
|
2016 | 8月28日 ▲戻る▼ |
イエスの十字架予告 イエスによる3度目の十字架とよみがえりの予告です。弟子たちは、イエスが言った言葉の意味は理解できましたが、どうしてイエスがこうしたところを通らねばならないのかが分かりませんでした。 それは、「彼らにはこの言葉の意味が隠されて」いたからです(34節)。弟子たちが、イエスが歩まれた十字架とよみがえりの歩みの意味を、真実に理解できるようになったたのは、聖霊降臨のペンテコステの出来事以降といえますし、また、この時、彼らがイエスに思い描いていた救い主の姿は、かつての英雄、ダビデ王のような力強い救い主でした。 ですから、弟子たちはイエスの受難の言葉を聞きながらも、しっかりと受け止められず、「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人を左に座らせてください。」(マルコ10:37)と願い、自分のことばかりを考えてしまうような始末です。 聖書から、こうした弟子たちの様子を思うなら、彼らよりは、私たちの方がよほどイエスの十字架やよみがえりの意味は理解しています。とはいえ、弟子たちと私たちとの間にある、イエスの十字架とよみがえりの理解に、それほど大きな差があるといえるでしょうか。というのも、私たちも祈りの中で、弟子たちのような求めをしてしまうことがあるからです。 そこで私たちが覚えたいのは、イエスの十字架への道行きのすべては、他の誰でもなく、私のための道行きだと受け取ることです。私たちが、こうした信仰に立って、このみ言葉に向き合う時、イエスが成し遂げられた十字架の恵みの御業に、心からの感謝と喜びをおささげできるのではないでしょうか。 |
2016 | 9月4日 ▲戻る▼ |
「彼が近づくと、イエスはお尋ねになった。『何をしてほしいのか。』盲人は、『主よ、目が見えるようになりたいのです』と言った。 そこで、イエスは言われた。『見えるようになれ。あなたの信仰があなたを救った。』」 ルカ18:40〜42 こうした受け取り方も大切ですが、何よりもの受け取り方は、この目の見えない人の立場に立って受け取ることです。目の開かれた者として歩ませていただいている私たちですが、高ぶった思いや不安や恐れなどで心がいっぱいになってくると、目が閉ざされたようになって、見るべきものに目を向けられなくなることがあります。 私たちのイエスを見る目は、どうでしょうか。真実に頼るべき方、確かな救いを与えてくださる方とのまなざしで、イエスを見ているでしょうか。目を開かせていただいた者として、イエスから目をそらすことなく、なおはっきりとイエスへの信頼を確かにしつつ、イエスに従わせていただきましょう。 |
2016 | 9月11日 ▲戻る▼ |
ザアカイの回心 けれどもみ言葉は、ザアカイの真実な姿を示します。ザアカイはイエスに出会うことで、新しく生まれ変わったのです。本当に回心したのです。 |
2016 | 9月18日 |
背の低いザアカイ イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子 なのだから。人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」 ルカ19:9、10 ザアカイが住んでいるエリコの町は大きな町です。大きな町だということは、それだけ多くの人が出入りしているでしょうし、そういう人たちを相手に商売する人も大勢いたでしょう。いろいろな商売、いろいろな仕事のある町に住んでいたザアカイです。なぜ、ザアカイはいろいろな仕事のある中から、徴税人という仕事を選んだのでしょうか。 徴税人の仕事に就けば、罪人と同様にみられることは、ザアカイも知っていたはずです。エリコほどの町なら、何も徴税人にならずとも良かったはずですが、ザアカイは徴税人の仕事に就くのです。 この手掛かりとなるみ言葉があります。ザアカイは「背が低かった」(3節)のです。背が低いことは、ザアカイにとって大きな悩みだったと思います。このことが理由で子どもの頃、いじめられることもあったでのはとも想像できます。こうして積み重ねられてきた劣等感が、ザアカイを徴税人に就かせたともいえます。徴税人といわれようと、罪人といわれようと、この仕事をしていれば、多くの人の上の立場になれ、これまで自分を見下げてきた人たちを、今度は自分が見下げることができると考えたのでしょう。 そうしたザアカイのもとに、イエスが訪ねてきます。イエスは、ザアカイのことを、徴税人、背の低い者とは呼ばず、「アブラハムの子」、「失われた者」(9、10節)と呼びます。イエスにとって、ザアカイが徴税人であるとか、背が低いことは問題ではないのです。イエスが「ザアカイ」とその名を呼んだとき、ザアカイが喜んでイエスを迎えるかが問題なのです(6節)。 イエスは今も、み言葉を通して、私たちの名前を呼ばれます。その時、私たちはどのように応答するでしょうか。喜びをもってイエスを迎える者とさせていただきましょう。 |
2016 | 9月25日 ▲戻る▼ |
預けられたムナを用いよう |
2016 | 10月2日 ▲戻る▼ |
主がお入用なのです 「もし、だれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と 言いなさい。」 ルカ19:31 最期の一週間を迎えるイエスがエルサレムに入城する際、用いられたのが、まだ、誰も乗ったことのないロバの子でした。 ロバは、戦争のために用いられることはなく、またその気性は気まぐれで、強情な動物だそうです。こうしたところでは、役に立つとはいえませんが、反面、飼い主に慣れていくなら、地力を活かして荷物の運搬や農作業など、とても役 に立つ動物でもあるようです。 イエスはそのロバに乗ります。またイエスの乗ったロバは、まだ誰も乗せたことがないのですから、人を乗せることに慣れてもいないでしょう。エルサレムの急な坂道を、そんな小さなロバに乗るなら、役に立つどころか、かえってケガをする恐れもあります。 イエスがエルサレムに入城したのは、十字架に向かうためです。私たちに罪の赦しを得させる十字架に架かるためのエルサレム行きなのですが、そこで、イエスは真実な平和を届けるために、ロバの子の背に乗って、 子ロバを用いるのです。ロバの子を「入り用」とされたのです。 「主がお入り用なのです。」 イエスのこの言葉から、誰も逃れることはできません。また、イエスを信じる者とされた私たちは、すでに、イエスを持ち運ぶ者とされているのです。平和の君なるイエスを持ち運ぶとは、自身をもって神の栄光をあらわすことです。自分の話す言葉やすることで、真実な平和を知らない方に主の平和を届けていくのです。 「主がお入り用なのです。」というイエスの言葉の確かさを、自己評価の確かさよりも確かなものとして、主の栄光をあらわすために用いられる者とさせていただきましょう |
2016 | 10月9日 ▲戻る▼ |
イエスの悲愛の涙 エルサレムに近づき、都が見えた時、涙を流されるイエスです。なぜ、イエスは泣かれたのでしょうか。 イエスが涙を流す、もう一つの訳は、そうした彼らを愛するが故です。神殿を「わたしの家」と言うほどに愛していたイエスですが、その滅びを告げます。そして、事実、イエスの予告されたとおりのことが起こるのですが、それでも人の歩みはまったく打ち倒されることはなく、綿々とつながれて、その歩みが守られています。 |
2016 | 10月16日 ▲戻る▼ |
権威ある方のもとに 「この御言葉は、あなたがたの魂を救うことができます。」 ヤコブ1:21 祭司長、律法学者、長老たちは、イエスに「何の権威によって、このようなことをするのか。」と尋ねます。イエスが神殿で教え、福音を告げ知らせていたからです。彼らがなぜ、こうしたことをイエスに尋ねたのかというと、彼らは神殿を、自分たちが自由に振る舞える場所としていたからです。 こうした立場の人たちは、民衆に神殿での所作のみならず、日常生活の規範も指導していましたから、そこに同じようなことをするイエスの登場を迷惑に思うのです。彼らは、自分が自由に振る舞えるように築き上げてきた「城」が、イエスの現れによって脅かされると感じたのでしょう。 そこでイエスは、バプテスマのヨハネを例として、彼が天からのものか、人からのものかと尋ね返します。このイエスの質問は、どちらの返答をしても彼らの立場が危うくなるものでしたから、答えに窮した彼らは「分からない」と答えるのです。 時に私たちも、み言葉を通してのイエスの問いかけに、祭司長といった人たちと同じように「分からない」と答えることがあるかも知れません。私たちも自分だけの「城」を持っているからです。聖書を読んでいると、そこに土足で入ってくるように感じられるみ言葉に出会うことがあります。 |
2016 | 10月23日 ▲戻る▼ |
隅の親石、イエス |
2016 | 10月30日 ▲戻る▼ |
神のものは神に |
2016 | 11月6日 ▲戻る▼ |
神の真理に生きよう 復活を否定するサドカイ派の人々が、復活を明言するイエスに次の世(=天国)での人間関係について尋ねます(29〜33節)。 そこでイエスは「次の世ではめとったり、嫁いだりすることもなく、天使に等しい者とされ神の子とされる。」と私たちの常識をはるかに超える祝福を示され、さらには、サドカイ派の人々が信仰の指針としていたモーセ5書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)からもみ言葉を引用し、かつて神に仕えていた信仰者たち(アブラハム、イサク、ヤコブ)は今も神の臨在の中、神との親しい交わりの中に生きていることを告げるのです。 サドカイ派の人々が、こうした質問をイエスにしたのは、復活の真理を探究するためでした。そして、彼らはこうしたことをしていくことが信仰深さにつながるものだと考えていたのでしょう。 私たちは、復活はあると答えられたイエスの言葉を、聖書から知ることができるのですが、サドカイ派の人々のように、知識として探っていくというだけでは十分とはいえないと思います。では、どうすれば良いのかというと、復活の恵みの中で生きていくことです。 イエスの十字架での贖いの死と、死を滅ぼされたよみがえりの力は、私たちに命を与えました。救いと希望と平安を与えました。その祝福を知り、その喜びに生きる者がクリスチャンです。福音の真理に生きる者とさせていただきましょう。 |
2016 | 11月13日 ▲戻る▼ |
ダビデの子、イエス 民衆はイエスをダビデの子と呼びます。それは、イエスがダビデの子孫だからであり、また、救い主メシアはダビデの末から生まれると信じられていたからです。民衆に聖書に基づいて信仰の導きをする律法学者たちも「メシアはダビデの末から」と教えていたので、今、ダビデの「子」として生まれたイエスが、各地で驚くべき御業をしていることを見ますなら、自分たちが待ち望んでいた理想のメシアの姿をイエスに重ねるのです。 けれども、イエスはその民衆の期待を否定されます。イエスは確かにメシアなのですが、続けてイエスは詩編のみ言葉を引用し、ダビデにとってもイエスはメシア(救い主)であることを告げられます。 イエスがもたらした救いは、過去、現在、未来といった時間に制限を受ける救いではなく、どの時代にも行き渡る救いです。だからこそ、イエスが生まれる以前の人たちにとっても、今を生きる私たちにとっても、イエスの十字架は救いなのです。 |
2016 | 11月20日 ▲戻る▼ |
レプタ二つのささげもの 金持ちの多額の献金は、確かに神殿の経済を潤沢にしたのですが、前述のようなささげ方をしているのであれば、神がそれを喜ばれるとは思いません。けれどもやもめの心は神に向いています。神に向く時、誰よりも多くささげたといって誇ったり、どうしてこれだけしかささげられないのかという卑屈になったりすることもなく、まったく自由な思いからささげていたでしょう。また、生活費という言葉には人生とか、命という意味もあることから自分自身をささげる=献身と受け取ることもできます。 |
2016 | 11月27日 ▲戻る▼ |
終末の時、再臨の時 「そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、 人々は見る。」 ルカ21:27 世の終わりについて語られるイエスです。 けれども歴史が教えるのは、都エルサレムの陥落(滅び)です。イエスはそれを予告されるのです。イエスはまた、神殿の崩落に重ねるように、世の終わりについても語ります。み言葉が教えるさまざまな天変地異、人々の様子を思うと、とても信じがたい、恐ろしいことが、終末に起こると予測できますし、これまでの人類の歴史で、繰り返されてきたことともいえます。 そうした世の終わりに備えるために、イエスは忍耐するようにと言います。忍耐というと目の前の嵐(困難)が速やかに過ぎ去るのを願い、その先にある静けさを待つことのように思いますが、聖書が教える忍耐は少し違います。それは、嵐の中での静けさです。嵐という困難、不安、恐れのただ中にあっても、私を支える静けさ(安心、平安)です。 今は「かしこより来られるイエス」を待ち望む時です。アドベント(来臨の意)の時、キリストの初臨(クリスマス)を喜びつつ、主の再臨にも思いを傾けて、この時を過ごすことは、クリスチャンの私たちにはふさわしい過ごし方といえるのではないでしょうか。 |
2016 | 12月4日 ▲戻る▼ |
インマヌエル〜神、我らと共に在ます〜
「それゆえ、わたしの主が御自ら、あなたたちにしるしを与えられる。見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み、その名をインマヌエルと呼ぶ。」 イザヤ7:14 その不安を取り除くために、アハズ王がしたのは、眼前の敵より強大な力を持つアッシリヤでした。しかも本来なら持ち出してはならない神殿への奉納物を持ち出して、貢物としてささげ、アッシリヤに頼るのです(U列王16章)。アッシリヤによって敵は滅ぼされますが、南王国はなお、罪を重ねます。アッシリヤが信奉していた偶像の神殿を築き、神として崇め始めるのです。 |
2016 | 12月11日 ▲戻る▼ |
救い主の系図 イエス・キリストの系図が記されているみ言葉です。その系図の一人一人に注目すると、名の通った人物もいますし、無名の人もいます。また、後世に語り伝えられるような偉業を成し遂げた人もいますし、逆に悪行によって「ユダが主の御前から退けられることは、まさに主の御命令によるが、それはマナセの罪のため、彼の行ったすべての事のためであり、またマナセが罪のない者の血を流し、エルサレムを罪のない者の血で満たしたためである。主はそれを赦そうとはされなかった。」(U列王24:3、4)とまで言われてしまう人物もいます。 |
2016 | 12月18日 ▲戻る▼ |
信仰の人、ヨセフ その後、ヨセフはマリヤと共に歩み始めます。み使いが告げる言葉の通りに生まれてきた子にイエスと名付け(25節)、また、エジプトに逃げるようにとの声を聞くなら、すぐにエジプトまで去っていきます。いつイスラエルに戻るのか、どこに居を構えるのかについても、告げられる神の言葉に忠実に従うヨセフです(マタイ2:19〜23)。 賛美にあふれたクリスマスで、ヨセフは賛美することもなく、何かものを言うこともありません。ただ、神の言葉に忠実に従っていくヨセフが描かれているだけです。けれども、正しい信仰とは、そういうものなのではないでしょうか。語られた神の言葉に逡巡するのではなく、疑念を持つのではなく、忠実に従う者とさせていただきたいと願います。 |
2016 | 12月25日 ▲戻る▼ |
思い巡らすマリヤ 「心に納めて」とは、その起こってくる一つ一つを大切な宝物のようにして、心に蓄えていくことです。 マリヤの身に起こったすべてのことは、本当に思いがけない出来事だったはずです。これまで思い描いていた理想の生き方とは、かけ離れたものだったと思います。けれどもマリヤは、そうしたことをすべて心に納めて、つなぎ合わせていくのです。 |
2017 | 1月1日 ▲戻る▼ |
み言葉と祈りの信仰 |
2017 | 1月8日 ▲戻る▼ |
イエスの準備、人々の準備 |
2017 |
1月22日 ▲戻る▼ |
聖餐の恵み イエスが弟子たちと共に過ごしたいと切に願い、準備された過越しの食事が始まります。この時、イエスは、これから後、歴代の使徒(キリスト者)たちが受け継ぎ、執り行っていく聖餐を制定されます。そして、これが私たちとの新しい契約だといわれるのです。これまで神はイスラエルの民との間で幾度も契約を交わしてきました(ノア、アブラハム、モーセなど)が、そうした数ある契約をはるかに上回る新しい契約だと、イエスはいいます。 イエスは、これから進んでいく自身の十字架を契約という言葉を用いて、十字架の意義、また、十字架にこそ罪からの救いがあることを話しますが、それはただ伝えるだけなのではなく、自らが十字架に向かわれる固い決意のあらわれでもあります。 また、「神の国で過越が成し遂げられるまで、わたしは決してこの過越の食事をとることはない。」とのイエスの言葉には、すべての人が神の国の食卓に着くことを願うからこその言葉ですし、クリスチャンにとっては「これから」神の国の食卓に着ける喜びを思うのが聖餐にあずかる時なのです。 |
2017 | 1月29日 ▲戻る▼ |
主を賛美しよう こうした心で賛美がささげられるのなら、神はその賛美を喜んで受け入れてくださいます。それは私たちに「・・・主イエス・キリストの名により・・・」というみ言葉が与えられているからです。イエス・キリストが、神と私たちの間を取り持つ、仲保者として立たれているので、私たちは神の御名をほめたたえる賛美をささげられるのです。 |
2017 | 2月5日 ▲戻る▼ |
主イエスに祈られて
「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。」 ルカ22:32 イエスが準備し、始められた最後の晩餐の席で、弟子たちは誰が一番偉いのかと議論を始めます。この議論はこれまでも彼らの中で繰り返されてきました。何度も繰り返されるということは、いくら話しても答えが出てこない議論ということです。なぜ答えが出てこないのかというと誰もが引かないからです。誰もが一番偉いと思っているからです。 イエスは、そのペテロに「信仰がなくならないように祈る」のです。この言葉に反発するようにして、ペテロは「自分には死ぬ覚悟すらあります」と答えます。またイエスは、「鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言う」とも告げられます。イエスの言葉とペテロの言葉、この後、どちらが実現していくのかというと、イエスの言葉です。 |
2017 |
2月12日 ▲戻る▼ |
「これまで」と「これから」 「そこで彼らが、『主よ、剣なら、このとおりここに二振りあります』と言うと、イエ スは、『それでよい』と言われた。」 ルカ22:38 各地でさまざまな奇跡をしたり、権威ある教えをしたりしてきたイエスは、人々に大いに注目される存在となりました。弟子たちも、イエスに言われるままに何も持たずに出掛けていった時には、何も不足したものがなかったと答えるほどの祝福でした。 イエスも弟子たちも、これまでは順風でしたが、これからは逆風が吹いてきます。イエスは自らの決意からでもありましたが、律法学者等の謀略によって犯罪人のひとりに数えられる道(十字架)を進んでいきますし、そうした道を進むイエスに落胆する弟子たちは、イエスが言われたように、生活するのに必要な財布や袋、身を守るための剣を手にすることになります。弟子となる前に就いていた仕事、漁師を再開するのです。 イエスが十字架に架かることで、彼らの前からいなくなってしまうのですから、心細く、不安で仕方なかったのでしょう。これまでイエスに絶大な信頼を寄せていた弟子たちでしたが、これからはイエスを頼れなくなり、財布や袋、剣を頼るようになっていくのです。 そうした彼らのこれからを予告されるイエスは、「それでよい」とも言います。イエスのこの言葉、良くも悪くも受け取れますが、この言葉にはイエスの弟子たちをあわれむ気持ちが込められていると思います。 そして、弟子たちもまた、これらのものをもう一度手にした時、初めてこれらの頼りなさに気が付くのです。私たちも弟子たちのような歩みをしてしまうことがあります。その時、「それでよい」と言われるイエスの言葉には、どんな気持ちが込められているでしょうか。イエスという真実に頼るべき方を見失うことなく、歩ませていただきたいと願います。 |
2017 | 2月19日 ▲戻る▼ |
起きて祈っていなさい |
2017 | 2月26日 ▲戻る▼ |
「今はあなたたちの時で、闇が力を振るっている。」 ルカ22:53 |
3月5日 ▲戻る▼ |
イエスの眼差し ペテロは、上記のイエスの言葉を思い出し、外に出て激しく泣きました(62節)。なぜ、彼が涙を流すのかというと、最後の晩餐の時、「牢に入っても、死んでも良いと覚悟しています」(33節)と豪語していたのに、実際にはイエスが告げられたことだけが実現したからです。また、イエスの自分を見つめる眼差しもありましたから、ペテロには、恥ずかしさや情けなさ、くやしさや悔恨、さまざまな思いが入り混じって、泣くのです。 また、ペテロのことで思うのは、イエスのペテロを見つめる眼差しを、彼がどう受け止めたのかです。イエスの眼差しは、「ああ主の瞳」(新聖歌221)にあるように、確かにペテロを赦す眼差しでしたが、彼自身はすぐに、そう受け止められなかったでしょう。 イエスの眼差しは、私たちにも注がれています。時に、その眼差しが怖く見えることもありますが、このことも罪を自覚するために必要であり、その先に、赦しを与える愛の眼差しを見出すなら、尚、はっきりとイエスに救いがあることを知るのではないでしょうか。 |
|
3月12日 ▲戻る▼ |
主の語りかけを聴く者 イエスの裁判が始まります。この裁判は有罪か無罪かをきめるような裁判ではなく、イエスを陥れるための悪意ある裁判です。こうした裁判ですから、長老、祭司長、律法学者たちは、答えるイエスの言葉を聞くはずもなく、その言葉尻をとらえるような聞き方をするのです。 私たちも、イエスに対し、イエスを裁く人々と同じような態度をとることがあります。それは、神の言葉である聖書を読む時にです。み言葉に対してのこうした態度は、結局は、ここでイエスを裁いている人々と同じように、イエスを裁き(み言葉を信頼できないために)、ついにはイエスを十字架に向かわせることにもなってくるのではないでしょうか。 |
|
3月19日 ▲戻る▼ |
お答えにならないイエス そこで、私たちが覚え、また見習いたいのが、ここでのイエスです。イエスは沈黙されます。沈黙の中、イエスが何をされていたのかというと、神の前に静まっていたのかと思います。神の言葉(聖書)を聞きもらさないために、一方的にこちらが喋るのではなく、またこちらの願いを通そうとするのでもなく静まる。神の言葉を聞く、ただそのことだけに心を傾け、黙する。クリスチャンが神に目を向ける時に、大切なあり方ではないでしょうか。 |
|
2017 | 3月26日 ▲戻る▼ |
イエスの居られないところ イエスの裁判が終わる時です。この裁判で、イエスの十字架刑が決まるのです。ピラトは何度もイエスに罪がないことを民衆に告げますが(14、15、20、22節)、民衆はそれを聞き入れず、「イエスを十字架につけろ」と叫び続けます(18、20、23節)。ユダヤの民に弱みを握られていたとはいえ、自分の考えを曲げてまで、民衆の声に従ってしまうピラト、祭司長といった指導者たちにそそのかされたとはいえ(マルコ15:11)、「イエスを殺せ」と叫ぶ民衆。 今、イエスを取り囲んでいる人たち、特に民衆のことを思うと、彼らはイエスがエルサレムに入城される時、イエスをほめたたえた人たちです。中には、イエスによって癒された人、イエスが語られた言葉に感銘を受けて、イエスに従う者とされた人もいたかも知れません。そのようにして、イエスをほめたたえていた口が、ここではイエスを罵る口に変わっていくのです。 |
4月2日 ▲戻る▼ |
イエスの十字架を背負って ゴルゴダの丘まで、イエスは十字架を背負っていかれます。途中、体力の限界を超えたイエスの代わりに、キレネ人シモンにイエスの十字架を背負わせます。 |
|
4月9日 ▲戻る▼ |
他人を救うイエス また、イエスはその十字架の上で上記のみ言葉を言われます。これは、まさにイエスを十字架につけ、イエスを罵る人々の赦しを神に求める祈りですが、この祈りは時代を超えて、すべての人の赦しをイエスは祈っているのです。 |
4月23日 ▲戻る▼ |
共にパラダイスに 自身も死の間際という切迫した時に、イエスは同じ十字架にかかる犯罪人のひとりに「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」との平安の約束を届けられます。およそ救いから一番遠い存在ともいえる者を祝福する。イエスの1人でも多くの人を救おうとする情熱と深いあわれみを感じます。 そうした彼に、イエスが話されたのが上記の約束なのです。この言葉のうち、私たちがどこに重きを置いて受け取るのかは大切です。「今日」や「楽園」も大切ですが、何よりも大切なのは「あなたは・・・わたしと一緒に・・・いる」という約束です。 十字架の苦しみの中にあった犯罪人ですが、同時に彼はイエスと共にいるという楽園(パラダイス)にいたのです。命の泉の源であるイエスというオアシス(楽園の意)に憩っていました。 |
|
4月30日 ▲戻る▼ |
イエスの死と葬り イエスの死を目撃した人たちの心は、変わっていきます。兵士たちと同様にイエスを侮辱していたであろう百人隊長は「この人は正しい人だった」と証言し、イエスの正しさ、きよさを認める心に変わり、群衆はイエスを罵ったことを悔い改め、胸を打ちつつ、その場を後にします。また、議会の決定に反対しながらも、行動に移せなかったヨセフも真実に行動できる者へと変えられ、イエスを墓に納めました。 |
|
5月7日 ▲戻る▼ |
イエスの復活を知らされた女性たち 十字架につけられ、墓に葬られたイエスは3日目によみがえられました。この知らせが最初に届けられたのは女性たちでした。四福音書どれもに記されている、この出来事ですが、共通している事柄の1つは、このことです。イエスのよみがえりの第一発見者は女性でした。 |
|
5月14日 ▲戻る▼ |
わたしの羊を飼いなさい |
|
5月21日 ▲戻る▼ |
共に歩むイエス |
6月11日 ▲戻る▼ |
平和があるように |
|
6月25日 ▲戻る▼ |
新しい時代の夜明け |
|
2017 | 7月2日 ▲戻る▼ |
神をほめたたえる者 よみがえられたイエスが天に上げられる場面です。イエスは弟子たちを祝福し、弟子たちは神をほめたたえるという、愛の交わりが、ここにはあります。「祝福」と「ほめたたえる」は原文では同じ言葉が使用されているので、イエスが弟子をほめたたえ、弟子が神を祝福するとも訳せるのですが、この二つの言葉の語源は「良い」と「言葉」という二つの言葉が合わさってできているので、平たくいえば、イエスと弟子たちは互いに「良い言葉」を語り合っているのです。 弟子たちが神に賛美をささげているのは神殿です。神殿は、弟子たちだけがいた訳ではなく、他にも多くの人がいたはずです。まだイエスのことを知らず、神をほめたたえる喜びを、知らされていない人たちです。また、弟子たちの多くがガリラヤ出身ということで蔑まれることもあったかもしれませんが(ヨハネ1:46)、それでも弟子たちは、誰にはばかることなく、「絶えず」神殿で神をほめたたえるのです。 |
7月9日 ▲戻る▼ |
使徒ペテロの信仰 |
7月16日 ▲戻る▼ |
生き生きとした信仰 生き生きとした希望と、そうではない希望について教えるみ言葉です。生き生きとした希望とはいえない希望とは「朽ちるほかない金」(7節)をはじめとする富です。富は生きていくのに必要で、価値のあるものです。 |
|
7月23日 ▲戻る▼ |
見ないで信じる者 けれども、こればかりでは見たことのないイエスを愛し、救いを得ている喜びに満ちた信仰を確実に自分のものとすることはできません。当時、最高の学問を修めたパウロも、彼の記した手紙に「それらを塵あくたと見なしています」(フィリピ3:5〜8)と告白します。 |
|
7月30日 ▲戻る▼ |
福音の恵み 福音の恵みについて語られるみ言葉です。旧約聖書の時代に生きた預言者たちを代表とする信仰者たちは、キリストの苦難と栄光が、誰に、何時、どんな時にあらわれるのか、長い年月をかけて、熱心に求め、調べ、また探し続けました。 預言者たちが長年、求め続けた救い、天使たちもそんなことが、本当にあるのだろうかと不思議がるほどの救い、その救いが、今や私たちに告げ知らされているのです(12節)。 |
|
8月6日 ▲戻る▼ |
だから、聖なる者となる けれども、自らを振り返ると、これらのみ言葉を真摯に受け止め、み言葉が教えるままに生きようとするものの、時に心を引き締めきれないこともありますし、身を慎むことを忘れてしまうこともあります。また、イエスがクリスマスに生まれ、現れてくださったという確かさに根差して、栄光の主が再び来られる時を待ち望んではいるのですが、「ひたすら」待ち望んでいるのかというと、そうでもないこともあり、神を知らなかった頃の欲望に引きずられてしまうこともあるのが、私たちです。 |
8月20日 ▲戻る▼ |
この方を畏れて |
|
8月27日 ▲戻る▼ |
神の計画の確かさ 神は天地創造の前から救い主キリストをこの世に送ることを準備し、計画しておられました。この神のご計画は、私たちの常識をはるかに超えた救いの計画であり、私たちを何としてでも救おうとする、神の愛の眼差しが注がれていることを思います。 |
|
9月3日 ▲戻る▼ |
生ける神の御言葉 この手紙の受取人は、教会に行っているクリスチャンです。兄弟意を抱き、互いに愛し合う人たちです。けれども、彼らはイエスを信じる信仰の故に、迫害の中に置かれていたので、偽りのない愛をイエスからいただいたのに、真実な兄弟愛に生き切れなくなっていました。また、たとえ、兄弟愛をあらわそうとしていても、それは役者が役を演じる(偽りの意)かのように、内実の伴わないものになろうとしていました。 |
|
9月10日 ▲戻る▼ |
霊の乳、霊の家、霊のいけにえ |
9月24日 ▲戻る▼ |
神の僕としての自由 |
|
10月1日 ▲戻る▼ |
義に生きるために イエスの歩みは罪を犯したことがなく、偽りのない歩みでした(22節)。そのイエスが罪ある者とされ、十字架に架けられるのです。十字架に釘づけにされる痛み、苦しみは言葉に絶するほどの痛みでしょう。けれども、イエスにとってより苦しい受難は、罪無き者が罪ある者とされることであったと思います。 |
|
10月8日 ▲戻る▼ |
命の恵みを受け継ぐ者 同じように、夫たちよ、妻を自分よりも弱いものだとわきまえて生活を共にし、命 の恵みを共に受け継ぐ者として尊敬しなさい。 Tペテロ3:7 妻や夫という具体的な立場にある人に向けて書かれたみ言葉ですが、ここで勧められている一つ一つは、そういった限定された人たちだけが受け取るべきではなく、誰もが受け取るべきみ言葉です。それは、すべての人がどなたかとの関わりで生きているからです。 また、この手紙を直接、受け取った当時の女性たちは、何事も男性中心の社会で生きることを強いられていましたから、何事も恐れずにと言われた時には、私たち以上の驚きをもって、この手紙を読んだことでしょう。 |
|
10月15日 ▲戻る▼ |
幸いな日々を過ごそうと願う 命を愛し、幸せな日々を過ごしたい人は、舌を制して、悪を言わず、唇を閉じて、偽りを語らず、悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ。 Tペテロ3:10、11 幸いな日々を過ごしたい人(10節)とありますが、このことは、誰もが願っていることで、願わない人はいないでしょう。そこで、考えたいのは、何をもって幸いとするかです。何か目に見えない運命の力にもてあそばれているような気持ちになって、目の前に起こってくる出来事に自分の判断で良いか悪いか、幸いかそうでないかを決めることは、ごく自然なことだと思うのですが、神の私たちへの態度を見ると、祝福を受け継ぐために、私たちを召してくださっているのです(9節)。 |
10月22日 ▲戻る▼ |
キリストを主とあがめなさい 善いことに熱心でありなさい(13節)といいます。この熱心さは、熱心党と同じ言葉が用いられていますので、善いことの熱心党であれとも受け取れる言葉です。 |
|
10月29日 ▲戻る▼ |
神のもとへ導くために |
|
11月5日 ▲戻る▼ |
神の御心に従って |
|
11月19日 ▲戻る▼ |
神を崇めるために 万物の終わりとは、神が聖書の中で約束されたすべてのことを完成される時です。そして、その最大の約束は、「一人も滅びないで皆が悔い改め」(Uペテロ3:9)て、神に立ち返り、救われることです。この神の約束を、私たちは疑わずに信じて、思慮深く、実を慎んで(7節、分別と責任の意)、祈りと愛に生きるようにといいます。 |
11月26日 ▲戻る▼ |
栄光の霊がとどまるため |
|
12月3日 ▲戻る▼ |
エッサイの根株より |
|
12月10日 ▲戻る▼ |
星に導かれて 星に導かれて東方の博士たちは、イエスのもとにやって来ました。東方は異国です。彼らは、ユダヤの民とは違う文化、習慣で生きています。また、何よりもの違いは、信じている神です。ユダヤの民は、そうした異邦人を神の救いから外れている者と見なしていました。 |
|
12月17日 ▲戻る▼ |
シメオンの賛美 |
12月24日 ▲戻る▼ |
アンナの祈り |
|
2017 | 12月31日 ▲戻る▼ |
謙遜を身に着けて |
2018 | 1月7日 ▲戻る▼ |
信仰に堅く立って |
2018 | 1月14日 ▲戻る▼ |
この恵みに立つ |
1月28日 ▲戻る▼ |
福音の初め |
|
2月4日 ▲戻る▼ |
み言葉の成就 |
|
2018 | 2月11日 ▲戻る▼ |
イエスのバプテスマ |
2月18日 ▲戻る▼ |
荒野のイエス |
3月4日 ▲戻る▼ |
神の国は来た |
|
3月11日 ▲戻る▼ |
イエスの後について行く イエスは、弟子を選ばれる時、特別に神や聖書について学んだ人や身分の高い人ではなく、ごく普通の日常を送り、生活している人に声をかけ、弟子とされました。シモンをはじめとする彼らは、イエスの声を聞き、その言葉に従い、後について行く者とされました。 |
|
3月18日 ▲戻る▼ |
権威ある教え イエスが、律法学者のようにではなく、権威ある者として教えられたことに驚く人々ですが、律法学者も、人々に律法を教えていたのですから、それなりの権威はあったはずです。けれども、律法学者は自分たちが教える律法を、自分たちが生み出したかのごとく、また、自分が神にでもなったかのように、権威を笠に着て、振る舞っていたといえます。ですから、人々も律法学者も権威主義に陥っていたといえます。 |
|
3月25日 ▲戻る▼ |
イエスの宣教 イエスの弟子となり、イエスの後について行ったシモンたちは、ほぼ一日の間に、多くの奇跡を目撃します。イエスの噂を聞きつけて、癒しを求める人が多数やってきたのです。弟子たちにとって、目の前に起こるすべてが初めて目にする光景でしたので、気持ちが高ぶった興奮状態だったでしょう。 |
4月1日 ▲戻る▼ |
主に赦されている者 ペテロは、相手を赦す時、どの程度まで(何回)赦せばいいのかを、当時の考えに基づいて、7回くらい赦せば十分との自分の判断もいれて、イエスに尋ねます。けれども、イエスは、それ以上の赦しを答えられました。そして、イエスは赦しについて、より良く理解してもらうために、一万タラントンの借金をしていた者が、懇願するなら、王に赦され、その赦された者に100デナリオンの借金をしていた者は赦されず、牢に入れられてしまうという、たとえ話を始められます。 |
|
4月8日 ▲戻る▼ |
イエスのあわれみに近づく |
|
2018 | 4月15日 ▲戻る▼ |
子よ、あなたの罪は赦された イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。 マルコ2:5 中風を患っている人が癒されるみ言葉です。彼はイエスに近づくためにいくつもの壁(自分だけではイエスのもとに行けないこと、イエスの周りに多くの人がいたこと、屋根に大きな穴をあけたこと)を乗り越え、イエスから「子よ、あなたの罪は赦される」との言葉をいただき、癒され、罪赦されました。 |
2018 | 4月22日 ▲戻る▼ |
罪人を招かれるイエス アルファイの子レビ、マタイは徴税人という仕事柄、異邦人との交流もありましたので、ユダヤの民、特に律法学者などからは、罪人と同様に扱われていました。そうしたマタイにイエスは声をかけられ、ご自分の弟子とされるのです。 |
4月29日 ▲戻る▼ |
新しいぶどう酒、新しい皮袋 「なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか。」との問いに、イエスは3つのたとえで答えます。21節の古い服に織りたての布で継ぎ当てをするなら、古い服が破れてしまうというたとえでは、イエスによって新しい喜びの時代が始まったことを伝えます。古い旧約の時代は、罪の悔い改めや戦いに負けた時、あるいは悲しみや自らの愚かさをあらわす時に、断食していましたが、イエスが現れたことで、その時代が終わったことを告げます。 |
|
5月20日 ▲戻る▼ |
安息日の主、イエス |
|
5月27日 ▲戻る▼ |
真ん中に立ちなさい 安息日に、イエスが片手の不自由な人を癒された物語です。彼はイエスを陥れようとファリサイ派の人々によって、イエスの前に連れて来られたと考えられたりするのですが、イエスはそのことをも承知の上で、あえて、この病の人を癒されます。 |
|
6月3日 ▲戻る▼ |
神の子、イエス |
2018 | 6月10日 ▲戻る▼ |
イエスの弟子たち |
6月24日 ▲戻る▼ |
キリストを心の家に |
|
7月1日 ▲戻る▼ |
イエスの家族、神の家族 上記のみ言葉や「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」(33節)と言うイエスを思うと、これまで共に暮らしてきた家族を否定するような印象を受けますが、そうではありません。ここでイエスは、家の中に入り、イエスの周りに座り、その話を聞こうとする気持ちが大切だということを知ってもらおうとしているのです。 |
|
7月8日 ▲戻る▼ |
イエスの家族、神の家族 |
7月15日 ▲戻る▼ |
キリストの明かりを灯して |
|
8月5日 ▲戻る▼ |
神の国のたとえ イエスがこの世に来られたのは、神の国の到来を告げるためでした(1:15)。そして、イエスがなさる不思議な御業の数々は、やがて神の国で受ける祝福の一部があらわされたものといえますが、イエスはさらに、神の国の豊かさを知ってもらうために、2つのたとえを用いて、神の国を語ります。 |
|
8月19日 ▲戻る▼ |
イエスを運ぶ弟子たち 「向こう岸へ渡ろう」と言われたイエスは、弟子たちと共に舟に乗り、夕方のガリラヤ湖を出発します。ところが途中、急に強い風が吹いてきて、波は高くなり、今にも舟が沈みそうになります。弟子たちは、舟が沈まないように懸命な努力をしますが、状況は好転しません。イエスは、そうした状況にも関わらず、舟の艫の方で寝ています。 |
|
8月26日 ▲戻る▼ |
レギオンの癒し |
9月2日 ▲戻る▼ |
主に向き合い、共に歩む |
|
9月9日 ▲戻る▼ |
神の御業が始まるところ |
|
9月30日 ▲戻る▼ |
弟子たちの派遣 |
|
10月7日 ▲戻る▼ |
洗礼者ヨハネの受難 |
10月14日 ▲戻る▼ |
深く憐れむイエス |
|
10月21日 ▲戻る▼ |
イエスの神顕現 |
|
10月28日 ▲戻る▼ |
イエスのさばきの言葉 聖書には、時々、私たちの心をも試されるような厳しいみ言葉があります。私たちがそのみ言葉を受け止めて、自らを振り返りますなら、そのみ言葉の通りに生きられていない自分に気付き、心は重くなると思います。それは、そのみ言葉を聞くのが嫌だというのではなく、その厳しいみ言葉に向き合う時、自らの弱さ、十分ではないことに気付かされるからです。ここで、イエスが律法学者をさばいたように、私たちもさばかれていることに気付くからです。 |
|
11月4日 ▲戻る▼ |
食卓の下の子犬でも |
11月18日 ▲戻る▼ |
何もかも素晴らしいイエス |
|
12月2日 ▲戻る▼ |
救い主の名、その働き |
|
12月9日 ▲戻る▼ |
救いの角、主をほめたたえよ |
|
12月16日 ▲戻る▼ |
罪の赦しによる救い |
12月23日 ▲戻る▼ |
平和の道に導かれる救い主 ザカリヤが「ほめたたえよ」と始められた賛美を終えるのにあたり、この後、お生まれになるイエス・キリストの働きの恵みをほめたたえます。 |
|
12月30日 ▲戻る▼ |
主イエスの恵み、憐れみ、慈しみ |
|
1月6日 ▲戻る▼ |
一人に向き合うイエス |
|
1月13日 ▲戻る▼ |
イエスをキリストとして |
1月20日 ▲戻る▼ |
自分を捨て、自分の十字架を背負って |
|
1月27日 ▲戻る▼ |
イエスの救いが見えてくる |
|
2月3日 ▲戻る▼ |
栄光のイエスと共に |
|
2月10日 ▲戻る▼ |
不信仰な私を助けてください |
2月17日 ▲戻る▼ |
仕える者となって |
|
2月24日 ▲戻る▼ |
直き者にふさわしい賛美 |
|
3月10日 ▲戻る▼ |
私たちの味方 |
|
3月17日 ▲戻る▼ |
塩で味付けされて |
3月24日 ▲戻る▼ |
誰もが助け手となって |
|
3月31日 ▲戻る▼ |
神の祝福に与かるために |
|
4月7日 ▲戻る▼ |
イエス慈しみの眼差し ある金持ちがイエスのもとに駆け寄って、「永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」と尋ねます。それはこのことで、彼自身これまで悩んでいたからであり、また自分が守ってきたことを何一つ守れないような子どもが、イエスから「神の国はこのような者たちのものである。」と祝福されているのを目撃したからです。 |
|
4月14日 ▲戻る▼ |
贖いの代価としてのイエスの命 |
4月28日 ▲戻る▼ |
安心して立つ |
|
5月5日 ▲戻る▼ |
平和の王、イエスを迎えよう |
|
5月19日 ▲戻る▼ |
〜教会〜すべての人の祈りの家 |
|
5月26日 ▲戻る▼ |
少しも疑わず |
6月2日 ▲戻る▼ |
主イエス・キリストの権威 |
|
6月9日 ▲戻る▼ |
イエスの悲しみの訴え |
|
6月23日 ▲戻る▼ |
神のものは神に |
|
6月30日 ▲戻る▼ |
生きている者の神 復活を信じないサドカイ派の人たちが、イエスのもとにやって来ました。なぜ、彼らが復活を信じないかというと、彼らが唯一の拠り所としていたモーセ五書(創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記)に復活について明言されていないと考えていたからです。復活を信じるファリサイ派の人たちとは、いつもこの問答を繰り返していましたが、ファリサイ派の人たちは、明確に答えられていなかったので、イエスにも尋ねに行くのです。 |
7月7日 ▲戻る▼ |
神を愛し、隣り人を愛し |
|
7月14日 ▲戻る▼ |
メシア、ダビデの子、イエス |
|
7月21日 ▲戻る▼ |
神へのささげもの ここで、イエスは一方は非難し、一方では誉めておられます。イエスの愛を知り、イエスを愛する者とされたクリスチャンは、ここで非難されていることはあえてしないでしょうし、なるべくならイエスに喜んでもらえることをしようとします。とはいうものの、ここでイエスが非難した、広場で挨拶をせず、会堂や宴会で上席に座ることを望まず、やもめの家を食い物にせず、見せかけの長い祈りをしないで、生活費を全部ささげれば良いのかというと、そうではないでしょうし、生活費のすべてをささげることなどできません。さらにいえば、見せかけですべてをささげることだって出来るのかも知れません。 |
|
7月28日 ▲戻る▼ |
信仰に立って |
8月4日 ▲戻る▼ |
救い主が立つ所 |
|
8月18日 ▲戻る▼ |
滅びない主の言葉 |
|
8月25日 ▲戻る▼ |
目を覚まして |
|
9月1日 ▲戻る▼ |
真の救い主を記念して |
9月8日 ▲戻る▼ |
弟子の痛み、イエスの痛み |
|
9月15日 ▲戻る▼ |
主イエスの晩餐 |
|
ペテロのつまずき イエスは弟子たちに言われた。「あなたがたは皆わたしにつまずく。『わたしは羊飼いを打つ。すると、羊は散ってしまう』と書いてあるからだ。しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤへ行く。 マルコ14:27、28 オリーブ山へは深い谷を通らなければなりません。足元の悪い、夜道ですからつまずかないように気を付けて歩きます。その途上で、イエスは上記のみ言葉を話すのです。ゼカリヤ書を引用して羊飼い(イエス)が打たれ、羊(弟子)たちは散り散りになることを告げます。そうしたイエスの言葉にすぐに反応したのがペテロです。彼はイエスの言葉を否定し「他は知らないが、私はつまずかない。共に死ぬ覚悟もできている」と、イエスに従う決意を言い表わします。他の弟子たちも同様のことを言いますが、イエスに従うという良いことにおいて、互いに足を引っ張り合うような従い方がふさわしいことなのかと考えさせられます。 また、イエスは「私のことを知らないと言う」とも告げます。弟子たちはイエスの何を知らないと言うのでしょうか。ここのみ言葉でいえば、28節「イエスの復活」と「ガリラヤに先に行っていること」です。ペテロは、イエスの言葉を聞いていたはずです。けれども「あなたはつまずく」という言葉に驚きと共に頭に血が上ったようになったために、復活という大切なことが、どこかに行ってしまうのです。また「先にガリラヤに行く」という約束も聞き流していますが、弟子たちが何故ガリラヤに行くのかというと、イエスがいなくなったという失意と絶望に満たされたからです。その彼らのいるガリラヤに「先に」行っているのです。彼らを待っているというのです。 私たちはみ言葉に触れる日々を送る中で、いろいろな気付きが与えられますが、時にペテロのようにカッとなったり、つまずくようなみ言葉にも出会います。そのために前後に記されている恵みを見落とすようなこともあるかも知れません。 だからこそ、私たちはみ言葉に何度も立ち返らなければなりません。私たちを生かす、喜びと希望のみ言葉をより多く握らせていただく私たちとならせていただきましょう。 |
||
10月6日 ▲戻る▼ |
主イエスの祈り |
10月13日 ▲戻る▼ |
恐れに満ちた人たちの中で マルコ14:43〜52 |
|
10月20日 ▲戻る▼ |
裁きのただ中で マルコ14:53〜65 ゲッセマネの園で捕えられたイエスの裁判が始まりました。けれどもそこで話されている内容を思うと、偽りの証言の連続です。最高法院に召集された議員たちが、イエスについて証言しますが、ウソの証言が積み上げられているのですから、すぐにほころびが出てきて、それぞれの言うことに食い違いが生じてきます。 |
|
10月27日 ▲戻る▼ |
ペテロの涙 マルコ14:66〜72 ペテロが3度イエスを否認する物語は、イエスの裁判と並行して起こっています。この2人は、とても対照的です。イエスは偽証が繰り返され、唾を吐きかけられなどの嘲弄を受けても揺らぐことなく毅然とした態度をとられますが、ペテロは女中のひと言で揺らいでしまい、先刻(29節)、豪語した言葉もどこかにいってしまうのです。54節の「火」は「光」とも訳せますが、この光に照らされることで、ペテロはペテロ自身の強さが出てくるのではなく、弱さが照らされてくるのです。 |
|
11月3日 ▲戻る▼ |
王なるイエス マルコ15:1〜20 ピラトははじめ、同じ裁判の場に連れて来られたバラバより、イエスの釈放を望みますが、この判断もバラバという危険人物より、明らかに暴力で解決しようとしないイエスを釈放した方が、自分にとって平穏だと思ったからです。けれども、現状、目の前にいる群衆の騒ぎも看過できないので、彼らの要求を飲むことにします。こうして、イエスの十字架刑が決められていくのですから、この裁判もイエスがどうなろうとかまわない裁判といえます。 |
11月17日 ▲戻る▼ |
十字架のイエス マルコ15:21〜32 キレネ人シモンが、ゴルゴタへ向かっていたイエスの十字架を担がされます。十字架刑があらゆる刑罰の中で最も忌まわしく、最も屈辱的な刑罰だという本来の意味は、シモンも知っていたでしょう。自分が何かをしたから担ぐのではなく、今はまだ見ず知らずのイエスの十字架を無理に担がされるのです。シモンはどれほどの屈辱を味わったことでしょう。 |
|
11月24日 ▲戻る▼ |
神の子、イエスの死 |
|
12月1日 ▲戻る▼ |
共におられる牧者イエス |
|
12月8日 ▲戻る▼ |
小さき者に現れる救い |
12月15日 ▲戻る▼ |
主イエスの謙遜 主イエスの謙遜が書かれているみ言葉です。キリストの謙卑ともいわれますが、そのへりくだられた姿は、神であられるのに人となられたほどの謙遜です。人として受ける試練に会い、苦悩を味わわれた謙遜です(ヘブル4:15)。 |
|
12月22日 ▲戻る▼ |
人間回復のクリスマス 蛇からの誘惑を受けたエバが、食べてはいけないと言われていた木の実を、アダムとエバが食べてしまい、神の祝福から落ちてしまったみ言葉です。神が天地を創造されて、すべてを見渡されたとき、それは極めて良いものでした。その極めて良いものに含まれているのは、月や星といった天体だけなく、多様で豊かな自然の営みだけでもなく、私たち人間も含まれているのです。神の目から見て極めて良い存在として、宣言されているのです。 |
|
12月29日 ▲戻る▼ |
イエスの十字架を見た人たち イエスの十字架の死を見たのは女性たちでした。この時代、女性たちは大変な差別の中に置かれていました。何かの意見を言うことも許されず、子どもと同様に数にも入れられないような時代に、その場にいたというだけでなく、聖書に名が残されて世界中に語り伝えられていく存在になるのです。確かにこの場、この時に十字架のイエスを見上げる彼女たちに「この十字架こそが救いだ、福音だ」といった思いはなく、ただ、つい昨日までお世話をしていた方が残酷な十字架の死を迎えるのですから、言葉もなく見つめるしかできなかったでしょう。それでも、この後に彼女たちがしている香料を買い求め、イエスの納められている墓に行く姿は、美しく、気高い行為のように思います。 |
|
1月5日 ▲戻る▼ |
神の国を待ち望んで アリマタヤのヨセフによってイエスが葬られます。彼は最高法院の議員だったとも考えられていますので、イエスの十字架刑が決定される裁判の現場にもいたと思われます。そうした立場ですから、ピラトのもとにイエスの遺体の引き取りを願い出ることは、大変な勇気のいることだったでしょう。というのも、きっとピラトもヨセフの顔くらいは知っていたかもしれませんし、引き取りの際、ピラトに何か尋ねられて下手な受け答えをしたら、今の自分の立場も危うくなることも考えられますし、引き取りそのものも取りやめになることも十分にありうることだからです。 |
1月12日 ▲戻る▼ |
復 活 日曜の朝、イエスは復活されました。その神の御業を見たのが女性たちでした。女性が軽んじられていた時代に、イエスの復活の証言をしていること、それ自体がイエスの復活を裏付けることになろうかと思いますが、その光景は驚きの連続でした。 |
|
1月26日 ▲戻る▼ |
全世界に行って マグダラのマリアと二人の弟子は、泣き悲しんでいる弟子たちに自分が経験した復活のイエスとの出会いを証しし、証言しますが、だれもその言葉を信じません。弟子たちもまた、若者からイエスの復活を聞いた女性たちと同じように、恐れていたのです。その彼らのもとに、復活の主があらわれます。 イエスの十字架による救いと死に打ち勝つ復活の力という福音には、それほどの力があるのです。神の祝福を回復させる福音は、まず私たちを変えていきます。新しい言葉を授け(17節)、神を賛美する口に変えていきます。また、考え方や生き方をも変えていきます。そのようにして福音によって変えられた私たちは、他の方への話す言葉や態度も変えられていきます。福音にはそれほどの力があることを、はっきりと覚えたいですし、こうしたあり方が、私たちにとっての何よりもの「全世界に行って」といえますし、「福音を宣べ伝え」ることといえるのではないでしょうか。 |
|
2月2日 ▲戻る▼ |
朽ちない福音 |
|
2月9日 ▲戻る▼ |
この福音によって まだ会ったことのないローマにいるクリスチャンたちに、パウロは手紙を書きます。ここのみ言葉には、挨拶という見出しがつけられてはいるものの、その内容は福音の本質であるイエス・キリストにも凝縮して触れられていますので、すでに本題に入っているような内容です。 |
2月16日 ▲戻る▼ |
神への感謝 パウロはローマのクリスチャンの信仰を知った時、「わたしの神」に感謝します。私たちではなく、私なのです。ここにはパウロ自身の神との近い関係、親しみが込められています。パウロは、御子イエス・キリストがなさった贖いの十字架を思うと「わたしの神」、さらには「アッバ、父よ」(ロマ8章)といわざるを得ない信仰へと駆り立てられていくのです。 |
|
3月1日 ▲戻る▼ |
救いをもたらす神の力 |
|
3月8日 ▲戻る▼ |
滅びることのない神の栄光 このみ言葉から3:20まで、暗いトンネルの中を進んでいくようなみ言葉になります。罪による神の怒りについて書かれているからです。神がなぜお怒りになっているのかというと、人が不信心で、不義であるからです。不義とは29節からのみ言葉でしょう。また不信心とは「神を知りながら、神としてあがめることも感謝すること」もしないことです。 |
|
3月15日 ▲戻る▼ |
神を認めて生きる価値 「滅びることのない神の栄光を、滅び去る人間や鳥や獣や這うものなどに似せた像と取り替えた」(23節)といいます。また「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物を拝んで」(25節)と同様のことをいいます。「取り替え」、「替え」、「代わりに」というのはすっかり入れ替えるといった意味です。これらのみ言葉にあらわれてくる人の姿は、自然な姿ではありません。本来の人の自然な姿は、神のかたちに似せて造られているのですから、神に栄光を返し、崇め、神を賛美する姿です。 |
3月22日 ▲戻る▼ |
神の慈愛と寛容と忍耐 この手紙の受取人はローマにいるクリスチャンですが、その多くは離散したユダヤの民でした。周囲の自分たちとは違う習慣、文化、宗教に影響を受けながらも、彼らは選ばれた神の民としての優位性に誇りをもって生きていました。そして、その思いは人をさばくという行為にあらわれます。他者を良いか悪いかと定めるのは、自分は間違っておらず、正しいと思っているからです。 ユダヤの民はこれまで注がれたこの神の憐れみを軽んじるのです。み言葉はその彼らに悔い改めを迫りますが、その悔い改めに導くのも神の憐れみ(慈愛、寛容、忍耐)だといいます。 |
|
|
||
|
|
||
|
||
|
|
||
|
||
|